第103話 獣王の血
長老が、ガランの前で足を止めた。手が、そっとガランの腕に置かれる。
「よく帰ってきた」
たった一言。それだけだった。他には何も。
村の空気は、そう甘くはなかった。
遠巻きにこちらを窺う獣人たちの目に、戸惑いが感じられる。当たり前だ。ガランはかつて、人間の勇者一行としてこの村を通った男だ。それが今は人間の国を追われ、よりにもよって魔王の側について帰ってきた。
俺たちの背後には魔族領が広がっている。それが何を意味するのか、言葉にしなくても彼らは鼻先で嗅ぎ取っている。
俺は長老に向き直って、頭を下げた。
「あの夜、約束しました」
前にこの村へ立ち寄ったとき、この屋根の下で、長老は俺ひとりに秘密を打ち明けてくれた。
「本人が自分の口で言うまで、聞かなかったことにする、と。その約束を、これから破ります」
長老はすぐには返さなかった。しばらく俺を見つめ、それからガランの背中へと視線を移す。
「どうしても獣人の力を借りたいのです。そのためにはあの事を伝えたいです」
「よい」
長老が、ふっと笑った。歯の抜けた口元の、やわらかい笑みだった。
「八十年、誰ひとり口にできなんだものを、おまえは己の勝手で掘り返す。それでよい。お前さんはきっかけを作ってくれた」
杖の先が、こつ、と地を打った。
「もう、そういう時なのかもしれぬ」
村のはずれ、風の抜ける丘に、小さな石がいくつか並んでいた。
その一つの前で、ガランが膝を折った。
苔の生した石の表面に、たどたどしい字が刻まれている。
――ミーナ。
「二十年だ」
ガランの指が、文字をなぞる。昨夜、盾をなぞっていたのと、同じ仕草だった。
「魔物が出てな。俺はまだ駆け出しの戦士で、それでも妹ひとりくらいは守れると思ってた。守れなかった」
声が、途中で掠れた。
「ミーナは六つだった。俺を庇って、自分から前に出やがったんだ。最後に笑って言いやがった。『兄ちゃん、おっきいから、だいじょうぶ』ってな」
風が、丘の草を撫でて通り過ぎる。
「だいじょうぶなんかじゃ、なかった。何ひとつ」
俺は、何も言わなかった。
ここで言葉に何の意味がある。気の利いた一言なら、いくらでも口から出てくる男だったはずだ。なのに今は、その引き出しが全部、空っぽだった。
それでも、どうしても言わなきゃならないことが、一つだけあった。
俺はガランの隣に立った。
「ガラン。お前は――最後の獣人王、ロガルの孫だ」
石をなぞる指が、止まった。
「八十年前、王国に首都を陥とされたとき、ロガルは自分の首と引き換えに、獣人の命を救った」
なるべく静かに言った。
「だが王国は、王の血だけは残させず、皆殺しにされるはずだった。だが、生まれたばかりのお前の父親が、血筋を隠されて、何も知らされないまま育てられて、それで生き延びたんだ」
長老を見ると、黙って頷きが返ってくる。
「その話を、俺はあのときこの村で聞いた。それからずっと、腹の底にしまってた。お前が自分で背負うと言う、その日まで」
ガランが、ゆっくりと立ち上がった。
その顔に、怒りはなかった。ただ、信じられないものを見るような、血の気の引いた白い顔だった。
「……冗談だろ」
喉の奥から絞り出すような声だった。
「妹ひとり守れなかった男だぞ、俺は。その俺が、王の血だと? 笑えねえよ」
握りしめた拳が、震えていた。
「いいか、軍師殿。八十年前、獣王は、首を差し出して戦を畳んだ。民を生かすために、自分から王であることを捨てたんだ。なのに、今さら俺が王を名乗ってみろ」
彼は足元の土を睨みつけた。同胞が今を生きている、この村の土を。
「また火がつく。王国が、潰しにかかってくる。八十年前の、ただの繰り返しだ。ロガルが何のために首を差し出したと思ってる」
気づけば、丘のふもとに村の獣人たちが集まっていた。
その中の、白髪まじりの年寄りが、震える声を張り上げた。
「そうだ……! 王なんぞ、いらん!」
声が裏返る。
「八十年だぞ。貧しいが、誰も戦で死んでおらん。それを、また、あの頃に戻すつもりか!」
恐れが、伝染していく。
責められるはずもない。彼らは、王を失って、それでも生き延びた者たちの子であり、孫だ。「王」という言葉そのものが、彼らにとっては滅びそのものの匂いがするんだろう。
俺は、その恐れのど真ん中へ、一歩踏み込んだ。
「ロガルの降伏は、正しかった」
まず、それを言った。
「その選択があったから、お前たちは今、ここで生きてる」
集まった顔を、一つずつ見ていく。
「だが、俺がガランに求めてるのは、降伏じゃない。玉砕でもない。そのどっちでもない、三つ目の道だ」
俺はガランを振り返った。
「魔族と獣人の連合。撃たれないための、盾。王国が二百年かけて、種族同士に手を取らせまいと焼き払ってきた絵図を、今度はこっちから描く」
息を継ぐ。
「そのために要るのは、軍を率いて攻め込む王じゃない。皆の前に立って、皆を守る盾だ」
俺は、ガランの目をまっすぐに見た。
ここから先は、理屈じゃ届かない。
昔の俺なら、もっと上手い言葉を選んで、きれいに筋を通してみせたんだろう。いや、たぶん、今は、それをやっちゃいけない。
「お前はさっき言ったな。妹ひとり守れなかった、と。だからだよ、ガラン」
声に、自分でも熱がこもるのが分かった。
「もう二度と、誰かの妹がたった一人で前に出る。そんな夜を来させないためだ。お前には盾がある。お前にしか、その盾は掲げられない」
ガランは、長いこと動かなかった。
やがて、背に負っていた国宝の大盾を外し、地面に突き立てる。
どん、と鈍い音が、丘の上に響いた。
顔を上げたとき、もう、その目に迷いはなかった。
「分かった」
村じゅうの顔に向かって、ガランは言った。
「俺は、王を名乗る。ロガルの血を引き受ける」
ざわめきが走る。それでも彼は構わず続けた。
「ただし、王としてじゃねえ。お前たちの上に立って命じる王じゃねえ。盾だ。お前たちの前に立って、二度と誰も一人にさせねえための、盾だ」
しん、と丘が静まり返った。
その静けさを割って、長老が前へ進み出た。
懐から、古い革紐に通した一本の獣の牙を取り出す。黄ばんで、先の欠けた、大きな牙だった。
「これは、ロガル様の牙でございます」
しわがれた声が、震えていた。
「あのお方が首を落とされる、その前に、わしに託された。いつか、血が戻る日のためにと」
長老は、その牙を両手で捧げ持ち、ガランへと差し出した。
「八十年。長うございました。わしらはずっと、お待ちしておったのですよ」
さっき「王はいらん」と叫んだ、あの年寄りが、地に膝をついた。
ロガルをその目で知っている世代だ。震える肩で、声を殺して泣いていた。
一人、また一人。獣人たちが、次々と膝を折っていく。
ふと、横を見た。
ノクトが、獣人の子供たちに囲まれて、何やら身振り手振りで語って聞かせている。
「でな、あの暴竜のでっかい目玉めがけて、爆発石をドン! だ。一発で潰してやったわけよ」
子らが、わっと沸いた。
今度ばかりは、嘘じゃない。あの竜の片目を潰したのは、確かにこいつの一投だった。語るほど余裕綽々だったわけじゃなく、半分は腰を抜かしながら投げてたが、まあ、そこは黙っておいてやる。
魔族の子と、獣人の子。本来なら、王国が二百年かけて引き裂いてきた、二つの種族だ。
共生村の夢。王国が、芽吹くたびに焼いてきたもの。
それが、こんな小さなところで、もう、生まれ始めていた。
その夜。
丘の上で、俺は懐の黒い箱のスイッチを入れた。
雑音の向こうから、すぐに声が返ってくる。
『ゼンさん? どう、そっちは』
俺は少し間を置いてから、言った。
「連合の合意に至った」
息を呑む気配が、雑音越しに伝わってきた。
『……本当に』
「ああ。獣人の盾が、一つ。お前の盾と合わせて、二つだ」
しばらく、返事はなかった。
やがて彼女は、静かに言った。
『すごいわ、ゼンさん』
その声は、もう、魔王のものじゃなかった。
黒い箱を切る。
丘のふもとでは、まだ獣人たちが、新しい王の――いや、盾の周りに集まっている。
残るは、王都だ。フローラ、リーシャ、ミレナの待つ場所。
王国の方角から、風が吹いてきた。
俺はもう一度、突き立てられたばかりの大盾を見やる。
二度と、誰も一人になんてさせない。そのための、盾を。




