第104話 静かな反乱
その朝、王都はいつもの喧騒で目を覚まさなかった。
大通りに荷車の列がない。市場のざわめきがない。いつもなら通りを埋めつくす活気がない。
リーシャは、宿の二階の窓から、その静けさを見下ろしていた。
ことの起こりは、一通の魔法の手紙だった。
フローラのもとにゼンから届いた。
だが、魔法の手紙に書ける量は、ひどく限られている。わずかな余白に彼が遺したのは、そっけない箇条書きだけだった。
一、できるだけ、戦の支度を遅らせろ。
一、スラムの民を、戦地へ送らせるな。
一、後日、そちらへ行く。それまで、頼む。
どうやるか、は一文字も書いていない。叶えたいことだけが並んでいる。
あとは、お前たちで考えろ。そういうことだ。
二つの願い。戦の支度を遅らせること。そして、スラムの民を戦場へ送らせないこと。
別々の話に見えた。それを一本に繋いだのはミレナだった。薬を扱う女の、目だった。
「“悪い病”が出た、ってことにしたら、どうだ」
リーシャが、顔を上げる。
「うつる流行り病。そういうことにすれば、お城は怖がってスラムを丸ごと閉じる。封鎖するわ」
「……それ」
リーシャの中で、二本の線が一本に繋がった。
封鎖すれば、スラムの民は外へ出られない。つまり、戦場へも送られない。守られる。
同時に城下の流通は乱れ、戦の支度も自然と滞る。
ひとつの嘘で、二つの願いが一度に叶う。
そのうえで止められるものは、すべて止める。ゼンがこの都に張り巡らせた、あの店々も獣人たちの車輪も。都市の血をそっと、せき止めてやればいい。
こうして三人は、剣も魔法も使わない、戦を止めるための算段を自分たちの頭で組み上げた。
手紙はもう二度と届かない。あの一枚きりだ。
糸はそれきり切れている。
手元にあるのは、三行の願いと彼が「行く」と書いた、その一言だけだった。
「リーシャ」
階段を上がってきたのは、ミレナだった。薬の匂いをまとっている。
「上げてきたわ。スラムに“病”が出た、ってね」
リーシャは頷いた。
昨夜のうちにミレナが城下の衛生役所へ、伝染病発生の報告を届けていた。スラム街で悪性の熱病が確認された。高熱、発疹、そして人から人へ瞬く間に移る、と。
もちろん、嘘だ。
誰も病んでなどいない。スラムの民は皆、ぴんぴんしている。
だが「悪性の病」という四文字ほど、為政者を震え上がらせるものはない。
果たしてその日の昼には、王都の名で布告が出た。
『スラム街、封鎖』
病の蔓延を防ぐため、区画を閉ざし、何人たりとも出入りを禁ず。兵を置き見張らせる、と。
封鎖。それこそが、狙いだった。
スラムには、九百八十七人が暮らしている。その大半が、戦になれば真っ先に、人足として盾として、最前線へ駆り出される者たちだ。
封鎖は、その九百八十七人を兵の手から隔てた。「病人」を戦場へは送れない。誰も彼らに手を出せなくなる。
牢のように見えて、その実これは壁だった。戦から守るための、壁。
「誰も病んでないのに」
ミレナが、兵に閉ざされたスラムの方を見て、ぽつりと言った。
「あの中の人たちは、これで戦に取られずに済む。……変な気分」
「あなたの考えた手よ、ミレナ」
リーシャは薄く笑った。「病を、盾に変えるなんてね」
スラムの民も、ことの次第は呑み込んでいた。
あらかじめ、伝えてある。これは芝居だ、閉じ込められるのではなく、守られているのだ、と。
封鎖の柵の内側では、子供がわざとらしい咳をして、母親に「下手くそ」と笑われていた。寝込んだふりの老人が、毛布の下で、こっそり酒を飲んでいた。
兵に見えているのは、恐ろしい病の巣。
柵の内では、誰もが息をひそめて、けれどどこか可笑しそうに、その芝居を演じていた。
仕掛けは、それだけではなかった。
同じ日、王都の物流を静かに握っていた手が、いっせいに開かれた。
まず止まったのは、獣人たちのリヤカーだ。
城下の隅々へ、野菜を、薪を、水を運んでいた、あのリヤカーの列。王都の暮らしを末端で支えていた者たち。その一台残らずが、動くのをやめた。
次に店が閉じた。
新星商会が王都じゅうに広げた、コンビニのセブンセブン。日用品から食い物まで何でも揃う、その全ての店先に同じ貼り紙が出た。
『休業中』
全店、一斉に。
市民は戸惑い、次に慌てた。パンが買えない。油が買えない。干し肉一つ、手に入らない。たった一日で、王都は、自分たちが何に支えられて生きていたのかを思い知らされた。
仮病で働けないスラムの人たちの食料は、フローラが用意してくれた。
リーシャは商人たちの間を渡り歩き、噂を丁寧に育てていた。病のせいで流通が止まった、もうしばらく品は入らない、と。半分は本当で、半分は種だ。
市場は混乱した。買い占めが起き、値が跳ね上がり、商いそのものが止まった。
そして最も大きく狂ったのは、軍の支度だった。
侵攻に要る武具。兵糧。荷を運ぶ人手。そのことごとくが、止まった物流の底に沈んだ。集まらない。動かせない。
兵は揃っても、その兵を食わせる兵糧が、最前線へ届かない。
誰一人、斬っていない。誰一人、死んでいない。
ただ、都市という巨大な体の、血の巡りを、そっと止めただけだ。
王都は、音もなく凝固していった。
その滞りは、やがて王城の高い一室にまで届いた。
王子ゼクスは、報告に上がった文官を冷たく見下ろしていた。
「もう一度、言ってみろ」
「は……出陣の支度が、滞っております。物資が集まりませぬ。武具を運ぶ荷も、人手も。城下の流通が、ことごとく止まっておりまして……」
「なぜ止まる」
「ス、スラムに、悪性の病が出たとかで……封鎖の煽りで市場が荒れ、そこへ、よろず屋の一斉休業まで重なり……」
ゼクスは、指で肘掛けを叩いた。とん、とん、と、苛立ちが規則正しく刻まれる。
「病だと?」
その声に、わずかな疑いが滲んだ。
「ずいぶんと、都合よく湧いたものだな。よりによって、こちらが兵を出そうという、この時に」
文官は首をすくめた。
「い、いかがいたしましょう」
「決まっている」
ゼクスは立ち上がった。
「病が本物かどうか、検査させろ。封鎖など、たかがスラムの話だ。さっさと解いて人足を狩り集めろ。下民の流行り病ごときに、この国の戦が止められて、たまるものか」
その一手が、何ひとつ実を結ばぬとも知らずに。
ゼクスの命を受けた検査官が、その日のうちにスラムへ向かった。病が本物かどうか、その目で確かめるために。
もし中へ踏み込まれ、ぴんぴんした「病人」たちを見られれば、すべて露見する。
だから、こちらから見せてやることにした。
封鎖の柵の前。検分官を迎えたのは、看護師に扮したリーシャだった。
白い布で口元を覆い、額に汗をにじませ、それでも気丈に、患者の世話に立ち働くふりをしている。
「奥へは、お通しできません。今、運び出している最中で……」
「どけ。確かめねばならん」
検分官が、柵に手をかけた。その、瞬間だった。
リーシャの手から、抱えていた桶がすべり落ちた。
彼女は喉を押さえてよろめき、膝から崩れ落ちる。
まくれた袖から覗いた腕には、赤黒い発疹が点々と散っていた。額には、玉のような汗。触れずとも分かるほどの、熱。
それは、ミレナの薬で出させた、本物の熱だった。発疹は、ミレナが練った塗り薬。だが検分官に、それを見抜く余裕などなかった。
「せ、世話をする者まで……!」
その声が、裏返る。
健やかなはずの看護師が、目の前でばたりと倒れた。意味することは、ひとつしかない。この病は、看る者すら容赦なく喰らう。
「お逃げください! あなたに移る前に!」
ミレナが、駆け寄りながら叫んだ。
検分官は柵から飛びのき、転がるように引き返した。
その背へ、ミレナが、よく効く殺菌石鹸を一つ、手渡す。
「薬用石鹸です。お城へお戻りの前に、よくよく手を!」
兵の姿が見えなくなってから、リーシャはゆっくりと身を起こした。汗まみれの顔で、力なく笑う。
「……熱、ほんとに出ちゃった。これ、いつ下がるの」
「明日の朝には。よく効くでしょう」
「効きすぎよ」
リーシャは、額の汗を拭った。
「でも、誰も傷つけてない。これでいいわ」
三日が、十日になった。
王都は、自らの足を自らの仕掛けで縛られ、もたつき続けた。
夜。
リーシャは、書き写したあの三行を、また広げた。
たった、三行。けれど最後の一行を見るたび、胸の奥が少しだけ、温かくなる。
後日、そちらへ行く。
彼が今どこにいるのかは、分からない。糸は、切れたままだ。
それでも、その一言があるだけで、まだどこかで繋がっている気がした。彼が願ったとおりに、王都は止まった。やり方は、自分たちで見つけた。それでいい。言葉は、彼がいなくても、ちゃんと届いている。
「……頑張ってるよ、ゼン」
リーシャは、誰にともなく、そう呟いた。
王都が、自らの仕掛けに足を取られ、もたついている、その頃。
はるか北。
魔族領の城門の前に、これまで決して並ぶことのなかった、二つの旗が翻っていた。
魔王の旗と、獣人の――盾の旗。
連合軍は、出撃の支度を、とうに整えていた。
支度の遅れた王国を、置き去りにして。
戦の天秤は、誰の血も流れぬまま、静かに傾き始めていた。




