第105話 王国への侵入
連合軍は王国軍より早く動けた。
魔族と獣人、昨日まで互いに刃を向け合っていた二つの種族をようやく一本に束ねたばかりの軍だ。それが王国の正規軍より先に出撃の支度を整えてしまった。だが胸を張る気にはなれなかった。
俺の目的は戦端を開くことじゃない。
進軍はあくまで圧力だ。王都の喉元に軍勢を突きつけ、否応なく交渉の卓へ引きずり出すための布石にすぎない。戦争を始めるためじゃなく終わらせるために軍を動かしている。だから本物の戦いは剣がぶつかる戦場じゃなく、言葉が交わされる卓の上で起きる。
その言葉を運ぶために、俺はノクトだけを連れて軍を抜けた。行き先は王都の地下だ。
「ゼン、こっちだ。足元、滑るぜ」
先導するノクトの声が、湿った石の管に反響する。
地上は見張りだらけだった。追放された俺の顔を覚えている兵も多い。まともな門はどこも通れない。だが地面の下なら話は別だ。王都の裏町を歩き回って覚えた勘と、ノクトが聞き込んできた抜け道があれば、城下を縦横に走る下水道を通って王都の腹の中まで潜り込める。
そう踏んでいたんだが。
「なあ、ノクト」
「なに?」
「ここ、思ってたよりずっと綺麗じゃないか?」
これは正直、意外だった。
下水道といえば、足首まで濁った水に浸かり、鼻の曲がる悪臭の中を進むもの。相場はそう決まっている。ところが実際の水路は、薄く流れる水こそあるものの嫌な臭いがほとんどしない。石組みの壁もぬめりが少なく、どこか管理が行き届いているとすら感じる。
「ああ、それね」
ノクトはこともなげに言った。
「スライムがいるから」
その単語を聞いた瞬間、足が止まった。
「スライムが、なんだって」
「いーっぱい棲みついてて、汚いの全部食べてくれてんの。だから水路いつもこんな感じ。……密輸の連中がこういう水路を使うって、俺、前に耳に入れててさ」
裏社会に顔の利く、こいつらしい話だった。ノクトは別の街のスラム育ちで、魔族というだけで弾かれる場所を生き延びるうち、闇の伝手にやたら詳しくなった少年だ。荷を傷めず街へ運び込みたい密輸屋にとって、スライムが汚水を浚って水を澄ませるこの水路は、おあつらえ向きの抜け道なんだという。
「ゼン気を付けなよ。あいつら触ると溶けるんだよ。鉄でもドロドロにするくらい酸が強いらしくてさ。骨も残んないって聞いた」
知っている。
この世界に来た最初の日、枝で殴ったスライムが、その枝ごと白い煙を上げて溶けた。素手なら、溶けたのは俺だった。あの白煙の匂いを、今でも夢で嗅ぐ。だからスライムだけは、どうしても無理なんだ。
「ノクト。俺はな。この世でスライムが、いちばん苦手だ。ゴキブリよりずっとな」
「知ってる知ってる。前にも街道で真っ青になってたじゃん。仮にも勇者サマがさ」
皮肉なものだ。ガレリアの坑道でも街道でも、俺はこいつらを精製機だの浄化装置だのと、役に立つ道具に読み替えてきた。なのに頭がいくら役立つと囁こうが、腹の底の恐怖は一ミリも薄まりはしない。
どこかで水滴がぽたりと落ちた。俺とノクトの足音と、跳ねる水の音だけが、狭い石の管に長く尾を引いている。
「道、狭くなる。ここからは一列。俺の踏んだとこだけ踏んで」
ノクトが先に立ち、聞き込んできた道順を頼りに足場を選んでいく。どの分かれ道を行けばスライム溜まりを避けられるか、密輸屋の道しるべが、こいつの頭には一通り入っているらしい。頼もしい。だがその道順の先にも、当然のようにスライムはいる。
幅の狭い通路の片側、ちょうど俺の肩の高さの窪みに、一際大きな個体がでっぷり収まっていた。通るにはその真横を、肩がかすめるかどうかの距離ですり抜けるしかない。しかもよりによって、包帯の下のもう何も映さない右目の側だ。
足が強張り動かない。
震える足に動けと言い聞かせ、すり抜ける一歩を自分の声で押し出す。見えない右側の気配は、ノクトの「もうちょい右、いけるって」という声だけが頼りだ。塊がすぐ真横でぷるんと揺れ、心臓が口から飛び出そうになる。それでも溶かされたくない一心が、恐怖をぎりぎり上回った。
何とか通り抜けた。
「はー。生きてる」
「ゼン、汗すごいぞ」
「黙ってろ」
ノクトが鼻で笑った。
「なんだよ、けっこう行けんじゃん。さっきの大騒ぎ、なんだったの。仮にも勇者サマが、スライム如きでさあ」
得意げに振り返り、こっちを煽る。その口が、まだ動いている途中だった。
濡れた石に、ノクトの後ろ足がつるりと滑る。
「うわっ」
体が後ろへ泳ぎ、その真下で半透明の塊がのんびり脈打っている。
考える前に、腕が伸びていた。
ノクトの腕を掴んで引き寄せる。その勢いで俺の体も大きく傾ぎ、頬を覆っていた包帯の端が、塊の表面をかすめた。
ジュッ。
端が溶け、酸の匂いが頬にこびりつく。あと指一本ぶん深ければ、溶けていたのは布じゃなかった。二人まとめて反対側の壁に背を打ちつけ、どうにか塊から引き剥がす。
「……っ、はー……」
腕の中で、ノクトが固まっている。生意気な顔が、今度はこっちが心配になるくらい青い。
「おい。大丈夫か?」
「い、生きてる……っていうか、ゼン、お前。今、めっちゃ近かったろ。いちばん苦手なんじゃ」
言われて、背筋が遅れて震えた。頬に残る匂いに、冷や汗がどっと噴き出す。
「……うるさい。早く立て」
腕を放さないまま引っ張り起こすと、減らず口の代わりに、こいつは小さく「……あんがとよ」と呟いた。聞こえなかったふりをしておいた。
それからしばらく、二人とも口数が減った。やがてノクトが「ここ右。上、出られるとこ」とふいに道を折れる。たどり着いた天井に、錆びた鉄格子と上へ伸びる梯子。
「ここの上、新星商会の王都店の裏」
こいつは初めから、ここへ出るつもりで道順を選んでいたらしい。
重い床蓋を下から押し上げる。差し込んだ光に、見えるほうの左目を細めた。
地下の水音が遠ざかり、代わりに地上のざわめきが流れ込む。だが、いつもの王都の喧騒じゃない。市場の活気も、荷車の往来も聞こえない。遠くで兵の角笛が、途切れ途切れに鳴るだけだ。封鎖は続いている。手順書どおりだ。
間に合った。
二人が立っていた。
赤茶けた髪の女と、腕を組んだまま立つ白衣の女。リーシャとミレナだ。手紙で来ることは伝えてあった。なのに地面の下から這い出した俺の顔を見た瞬間、二人の足が同時に止まる。視線が、右目の包帯に吸い寄せられた。
最初に動いたのはリーシャだった。
ずかずかと歩み寄り、俺の腕を痛いほど強く掴む。
「おかえり」
「ああ。ただいま」
「心配したんだから。手紙が一往復きりで、生きてるか死んでるかも、ずっとわかんなくて」
腕を掴む手に、ぐっと力がこもる。いつも誰より冷静で、損得を一瞬で弾く商人の声が震えていた。
「約束したでしょ。生きて戻るって」
「ああ。守ったろ」
「片目、どうしたの。ばか」
泣き笑いみたいにそう言って、リーシャはなおも俺の腕を放さなかった。
ミレナは動かなかった。
腕を組んだまま少し離れて、じっと俺の包帯を見ている。表情は出ていったときと同じ、ぶっきらぼうな仏頂面。だがその目だけがわずかに揺れていた。
「その目。治らないのか?」
「ああ。火傷のほうは治ったが、目は戻らなかった」
「ふうん」
そっけなく言って、ミレナはふいと目を逸らす。それからぽつりと。
「軟膏は作れる。目は、無理だ」
それだけ言って、組んでいた腕をほどき、俺の肩をぐいと一度、乱暴に小突いた。それがミレナなりの「おかえり」だった。
人の心を読むスキルなんて、とうに失った。だが要らない。この二人が震える声の奥で、仏頂面の下でなにを堪えているのか、読むまでもなく分かる。
脇から這い出てきたノクトが「ただいまー」と、場違いなほど呑気な声を上げる。リーシャが泣き笑いのまま、その頭をくしゃりと撫でた。ミレナが「あんたは無事そうじゃない」と相変わらずの調子で、けれど少しだけ手荒にノクトの髪をかき混ぜる。「もー、撫でんなって。子供じゃないんだから」と、ノクトが生意気に肩をすくめた。
リーシャが、ようやく腕を放した。それでも半歩ぶんの近さは崩さないまま、濡れた目元を指の背でぐいと拭う。
妙なものだと思った。
一度目は、原生林を抜けて半分死にかけて道に這い出た俺を、この赤茶けた髪が拾ってくれた。そして二度目の今日も、俺はあの忌々しい半透明の群れをかき分け、地を這ってここまで来た。たどり着いた先には、また同じ顔がある。
仲間を一人喪った。片目を失い、女神に授かった力ももう手元にはない。それでも剣も魔法もない口だけの男は、こうして二度、約束の場所へ生きて帰り着いた。
戦争を止める戦いは、まだ始まってすらいない。
だが今は、この「ただいま」の温もりに、ほんの少しだけ浸らせてほしかった。




