第106話 竜の置き土産
奥の小部屋に通される。
ついさっきまで鼻の奥にこびりついていた地下の湿った匂いが、ここでは乾いた紙と木の匂いに薄まっていた。
表は封鎖で戸を閉ざしているのに、店の内側にはまだ人の暮らしの匂いが残っている。ミレナが水差しと布を持ってきて、ぶっきらぼうにこちらへ突き出した。
「拭け。下水の匂いがする」
「ご挨拶だな」
それでも受け取って、頬にこびりついた下水の匂いをぬぐう。
椅子に腰を落とすと、そこでようやく緊張が抜けていった。
ノクトはとっくに別の椅子へ飛び乗って、卓の干し果実を勝手につまんでいる。
向かいにリーシャが腰を下ろした。その視線が、さっきから俺の右目に張りついて離れない。
地下の暗がりではどうにかごまかせていたものも、灯りの下ではもう隠れようがなかった。さっきは「片目を置いてきてるじゃない」と軽口で済ませていたが、落ち着いて顔を改めてしまえば、訊かずにはいられないらしい。
「ねえ、ゼン。目はどうしたの?」
「後で話す」
片手を上げて、その先を軽く押しとどめる。
「まず手紙の件だ。そっちが先だろ」
「……こんなときでも、そういうとこは変わんないのね」
呆れたように息を吐く。それでも、問われれば一拍で商人の顔に切り替わるのが、こいつのいいところだった。
「あんたの手紙、たった三行だったでしょ。『戦の支度を遅らせろ』『スラムの民を戦地へ送らせるな』『後日行く』。やり方なんて、一文字も書いてなかった」
「ああ。そこはそっちで考えてくれると思ってな」
「丸投げもいいとこよ」
リーシャが肩をすくめ、それから、ふっと得意げに目を細めた。
「でも、二つとも叶えた。しかも、一度にね」
ここまで来る道々、それらしい気配は感じていた。夜とはいえ、人の気配がまったくなかった。約束どおりこいつらが都の足を止めてくれているのは、見ればわかる。
分からないのは、その手口のほうだ。
「どうやって止めた。市場を力ずくで押さえつけたんなら、どこかで必ず血が出る。お前たちにそんな手勢はないし、なにより、誰かを傷つけるのだけは避けたかった」
力に頼らずに都ひとつの足を止める手なんて、正直、俺の頭にも具体的な絵は浮かんでいなかった。だから書かずに放り投げた、というのも、半分は本音だ。
リーシャが、ちらりとミレナのほうを見た。
「最初の一手を打ったのは、ミレナよ」
壁際で腕を組んでいたミレナが、面倒くさそうに口を開く。
「高い熱。赤い斑。数日でばたばた人が倒れる。そういう質の悪い病が、東の隊商から持ち込まれた、そういうことにした。それらしい症状の『患者』を何人か仕込んで、本物らしく寝かせておく。あとは噂が勝手に走る」
リーシャが後を継いだ。
「人はね、剣より病を怖がるの。疫病が出たって噂が立っただけで、誰も市場になんか出てこない」
「一度、役所の検査官が様子を見に来た」
とミレナ。
「リーシャが看護師に化けて、自分も感染したふりをしてやり過ごした」
「あのとき、本当に大変だったんだから」
リーシャが恨めしそうに唇を尖らせる。
「念を入れろって、ミレナに薬まで飲まされてさ。おかげで本物の熱が出て、ふらふらよ」
「あれで向こうは完全に信じた」
ミレナは平然と言ってのける。
「お役所は出兵どころか、自分のほうから先に封鎖を選んだ。こっちが煽るまでもない。向こうが勝手に、都を丸ごと凍らせてくれた」
「……なるほどな」
ばらばらだった点が、頭の中でつながっていく。
封鎖されれば、スラムの民は外へ出られない。
出られないなら、戦場へも、送られない。
戦が始まれば、真っ先に人足として、盾として最前線へ追い立てられるはずだった、あのスラムの九百八十七人。それを城は、よりにもよって自分の手で柵の内側へ囲い込み、結果として守ってしまったわけだ。
牢のつもりが、壁になっている。
戦の支度を遅らせろ。スラムの民を送るな。
俺が手紙の余白に放り投げただけの二つの願いを、こいつらは病ひとつの嘘で、まとめて引き受けてみせた。
「それだけじゃないの」
リーシャは指を一本立てた。
「止められるものは、全部止めた。獣人たちのリヤカーも、新星商会の店も、王都じゅう一斉に店じまい。物が動かなくなれば、市場なんてあっという間に荒れるわ。買い占めが起きて、値が跳ね上がって、商いそのものが止まる。兵糧も、武具を運ぶ荷も、人手も、ぜんぶその底に沈んだまま。兵だけ集めたって、戦の支度は一向に整いやしない」
「スラムの飯は」
「フローラが回してる。柵の中で飢えさせちゃいないわ。子供がわざとらしく咳き込んで、母親に笑われてるくらいよ」
しばらく、言葉が出てこなかった。
誰も斬っていない。誰も死んでいない。
ただ、人が病に抱く恐怖、それひとつを梃子にして、王都という街の息を、そっと止めてみせた。剣も、魔法も、女神の力もいらない。俺が余白に放り投げただけの二つの願いを、こいつらは自分たちの頭でより合わせて、誰ひとり傷つけずに形にしていたのだ。
「……上等だ。正直、驚いた」
ようやく口から出たのは、それだけだった。
「願いは二つ書いた。叶え方は、何ひとつ書かなかった。なのにお前たちは、二つまとめて叶える一手を、自分の頭で見つけ出した。どこかで自慢して回りたいくらいだよ。剣も魔法もなしで、王都ひとつ手玉に取ってみせたって」
リーシャが、ふん、と得意げに鼻を鳴らした。その頬が、ほんのり赤い。
「当然でしょ。誰がやってると思ってるのよ」
「べつに。手間ではあった」
ミレナはそっぽを向く。けれど、組んだ腕の、その指先だけが、所在なげにとんとんと動いていた。
ひとしきり褒めおわると、リーシャの声から、すっと温度が抜けた。
「で。さんざん人を働かせておいて、自分だけ知らんぷり? その目、どうしたの」
逃げ道は、もう塞がれている。
俺は水を一口含んでから、できるだけ何でもないことのように答えた。
「竜に、持っていかれた」
「……竜と、戦ったの」
卓の上のリーシャの手が、知らず、きゅっと握り込まれた。
看護師に化けて検査官の前に倒れてみせたときでさえ、この手は震えなかったはずだ。いつもは眉ひとつ動かさずに損得を弾く女の、その指先だけが、今は白い。問い返す声も、最後のところで、ほんの少しだけ掠れていた。
「ああ。倒した」
吐かれた炎を、顔の右半分でまともに浴びた。火傷のほうはイリアの魔法で治ったが、目だけは戻ってこなかった。
そこまでは、言わずにおく。
俺は、干し果実を頬張るノクトのほうへ目をやった。
「そのとき、こいつが大手柄でな。ノクトがいなけりゃ、俺はここに座っちゃいない」
名前を出された途端、ノクトが得意げに鼻の下をこすった。
「俺が爆発石で、竜の目ん玉つぶしたんだぜ。あんなにでかい図体でも、目だけは柔らけえからな。一発で大暴れさ。そこをレオンがすぱっと、よ。ま、ゼンはいつもどおり口だけだったけどな」
いつもの言い合いに、リーシャの肩から、ようやく力が抜けていく。
その隣で、ミレナの手がふと止まった。
「なんだ、その爆発石ってのは」
仏頂面のまま、こちらを見ている。
「エレーヌが作ってくれたものでな」
俺は答えた。
「ただの石ころに、あらかじめ魔力を込めておくだけのものだ。それだけなんだが、強い刺激――殴るとか、叩きつけるとかが加わると、込めた魔力が一気に弾けて、爆発する」
ミレナの仏頂面は、いつもどおり崩れない。
崩れないのに、目の奥だけが、ふっと色を変えた。地下から這い出てきた俺を見ても、戻らない右目を見ても動かなかったものが、今、はっきりと前へ傾いだ。
「……興味深い」
組んでいた腕をほどいて、ミレナが卓へ一歩、近づいた。
「詳しく教えてくれ。石の種類は選ぶのか。込める魔力の量で威力は変わるのか。どのくらいの刺激で爆ぜる。手で握っているだけで暴発したりは――しないのか」
立て続けの問いに、ノクトが「お、おう」と気圧されながら身を乗り出す。
さっきまで人の安否ばかり気にしていた女が、急に別人みたいに食いついてきたものだから、リーシャもさすがに意外だったらしい。
「ミレナ。あんた、そんな顔もするのね」
「……薬も、毒も、魔法も、理屈は地続きだ。なにとなにを混ぜれば、なにが起きるのか。それを知らずに錬金術師は名乗れない」
そっけなく言って、ミレナはノクトの隣の椅子を引き寄せ、腰を据えた。どこからかペンを取り出して、卓の隅に何やら書きつけはじめる。本気で聞き取るつもりらしい。
その横で、リーシャがそっと身を寄せてきて、声を落とした。
「……エレーヌさんって、そんなものまで作れるのね」
「ああ。あいつの火の腕は本物だ。本人は、その腕をちっとも喜んじゃいないがな」
かつて炎で大勢を焼いた指が、今度は石ころに小さな火を仕込む。それを作るとき、エレーヌがどんな顔をしていたのか、それは、訊かないでおいた。
ありもしない病を一から仕立て上げ、役所まで欺いてみせた錬金術師が、今度は石ころ一つの理屈に、同じ熱量で食らいついている。爆ぜたときの音、煙の色、ノクトから一つずつ聞き出しては、卓の隅に書きつけていく。あの仏頂面がこんなに前のめりになるところを見るのは、初めてだった。
このときの俺は、その様子をただ少し可笑しく眺めていた。
卓の隅に走り書きされていくそれが、いずれ俺たちの命運を分ける一手になるなどとは、この時はまだ、思いもしていなかった。




