第107話 連合軍
夜が明けると同時に、それは現れた。
北の地平を黒くうねらせる軍勢は、ひとつではなかった。魔族の軍旗の隣には、これまで歴史のどこにも並んだためしのない、獣人の旗が並んではためいている。
城壁の上は、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎだった。伝令が走り、号令が飛び交い、半鐘が打ち鳴らされるものの、どの声もどこか上ずりを隠せていない。
「魔族と獣人が……手を組んだだと?」
「ありえん。あの二種族が、手を組むなど」
誰もが同じ言葉を口にしながら、誰ひとりとして目の前の光景を信じきれずにいた。王国が二百年もの間、その二つが交わらぬよう結びつきの芽を見つけるたびに叩き潰してきたのだ。決して起こるはずのなかったものが、今、地平の向こうに整然と並んでいる。
連合軍は、王城の外壁のはるか手前でぴたりと足を止めた。攻めるでも囲むでもなく、ただそこに在る。それだけで城下の兵たちの喉を干上がらせるには十分だった。慌てているのは城の側だけで、連中はただ黙って、こちらが勝手に怯えていくのを待っている。
塔の上には、王国の二枚看板である勇者レオンとエレーヌが呼び集められていた。
望遠鏡を覗き込んでいたエレーヌは、前衛の中央、仮面の魔王のすぐ隣にいる馬上の大柄な獣人を捉える。その背に負った大盾には、見覚えがあった。
「……ガラン」
隣でレオンが低く呟き、その拳がゆっくりと固く握り込まれていく。かつて同じ釜の飯を食い、互いの背を預けあった男が、今は魔王と手を結び、獣人の軍を率いている。あの男の血に何が流れているのかを知るレオンだからこそ、ガランがあの位置に立つ意味が誰より痛いほど分かってしまうのだろう。けれど今は、まだ何も言わなかった。
エレーヌは、望遠鏡をさらに奥へと振った。朝靄の向こう、前衛のはるか後方に、もうひとつの影がぼんやりと揺れている。
それを見た瞬間、喉の奥が引き攣るように鳴った。
第二軍だった。
朝靄の向こうに並ぶ影を目で追いながら、エレーヌは思わず息を呑む。数は前衛とほぼ同等に見える。いや、見方によってはそれ以上かもしれない。想定していた戦力を大きく上回っていた。
彼女は改めて前衛へ視線を戻し、端から端まで注意深く見渡した。しかし、探していた姿が見つからない。あの男がいない。ゼンの姿だけが、どこにも見当たらなかった。
かつて旅を共にした頃から、誰よりも頭の回る男だった。剣も魔法も扱えないくせに、口先ひとつで人を動かして、戦わずに勝つ道ばかりを探していた。その姿が前衛のどこにもないのだとしたら、ゼンは後方のあの第二軍にいる。本隊を後ろに伏せ、盤の外側からすべての駒を動かしているのだ。
あまりにもゼンらしいやり方だった。そう思った瞬間、妙な寒気が背中を走った。
気がつけば、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
エレーヌには、一発で軍団ひとつをまるごと灰に変える『エクスプロージョン』があった。ただし、撃ってしまえば丸一日は使えない。ふたつの軍を同時に消すことはできないのだ。前衛の魔王とガランを灰にするか、後方のゼンの本隊を灰にするか。どちらを撃つべきか考えるだけで、指先が強張ってうまく動かなくなる。あの魔法をまた使うのか。村をふたつ焼き、二千の命を灰に変えた、あの力を。
だが、エレーヌは知らなかった。朝靄の向こうの第二軍が、戦えもしない老人と女たちを立たせただけの、ただの張りぼてであることを。戦が始まればひと当てもせずに逃げ帰るよう指示されていることも、そしてゼンがそもそも戦場になどおらず、誰の血も流さずに済む王都の内側という別の盤の上にいることも。
「エレーヌ」
レオンが、剣の柄に手をかけたまま言った。
「撃てるか。どちらか一方でも、削れるなら」
「……一発きりよ。それで終わり。半分は残ってしまう。それに――」
そう言いかけた、その時だった。
両軍のちょうど中間にある、人っ子ひとりいない荒れ地の上空。その大気がふいに、きらきらと輝きはじめた。無数の光の粒が湧き出し、集まり、渦を巻いていく。ほんの少しだけ綺麗だと思ってしまった次の瞬間、そこに、もうひとつの太陽が生まれた。
空から太陽が落ちてきたかのような白い光が視界を灼き、塔の上にいてなお肌がちりちりと炙られる。エレーヌは思わず腕で目を覆った。
張り詰めた沈黙ののち、世界が静まり返った。光は音よりもずっと速いという当たり前のことを、エレーヌは生まれて初めて肌で思い知る。
沈黙が破られたのは、たっぷり数拍を置いてからだった。
ドゴォォーン。
遅れて届いた爆音が空気そのものを殴りつけ、強烈な爆風が襲いかかる。塔がしなり、胸壁の石が軋み、焼けた土くれがばらばらと降ってきた。エレーヌは欄干にしがみつき、それでようやく足を踏み留めていた。
やがて荒れ地の中心から、白い煙がゆっくりと天へ伸び上がっていった。立ちのぼった柱は上のほうで大きく傘を広げ、空を覆い尽くさんばかりの巨大なきのこ雲になる。その形を、エレーヌは嫌というほど知っていた。
「エ、エクスプロージョン……」
衝撃のあまり、力の抜けた脚が自分のものではないようだった。あれは、彼女がひとりで背負ってきた呪いのような魔法だ。なのに、放ったのはエレーヌではなかった。前衛の中央で、空へまっすぐ腕を伸ばした仮面の魔王。あの女だった。
胸の奥で、何かが崩れた。
あの力は、自分だけの罪だった。
焼け落ちる村。
灰になった人々。
なのにあの女は、同じ魔法を誰も傷つけずに使ってみせた。それは、エレーヌにはどうしてもできなかったことだった。
爆煙が晴れても、地には誰ひとり倒れていなかった。はじめから誰もいなかったのだから当然だ。誰も傷つけず、ただ見せつけるためだけに放たれた一発。あれは撃つための魔法ではなく、撃たせないための魔法だった。
突きつけられている意図は明白だった。
――我らもこれを持っている。
もしそれが本当なら、兵を一歩進めた瞬間に戦場は灰になる。王国軍だけではない。連合軍にとっても同じだ。
気づけば両軍とも、指一本動かせない場所まで追い込まれていた。
「……エレーヌ」
レオンの声は、掠れていた。
「これは、勝てるのか」
エレーヌは答えられなかった。勝つとか負けるとか、そういう話ではない。動いた瞬間に何もかもが灰になる盤の前に、まだ一手も指していないというのに座らされている。剣を抜くより先に、聖剣も、彼女の魔法も、とうに意味を失っていた。
長い沈黙のあと、魔王の軍から白い布を高く掲げた一騎が進み出てくる。伝令の口上は短かった。
「話し合いの場を、設けたい。日暮れまで、待つ」
レオンがゆっくりと剣の柄から手を離し、エレーヌも望遠鏡をそっと下ろした。
誰も死んでいない。
剣も交わっていない。
それでも、この場にいる誰もが理解していた。もう戦は始まっていて、そして終わりかけているのだと。
あまりにも、ゼンらしい。
エレーヌは小さく息を吐いた。胸の奥に湧き上がるものが、怒りなのか、あるいは安堵なのか、自分でもうまく名前のつけられない感情が、静かに喉の奥へ消えていく。
日暮れまでに、王国はあの卓へ誰を送り出すのかを決めなければならない。剣の代わりに、言葉で殺し合うための卓へ。




