第108話 差し出した手
同じ夜明けを、ゼンは地下で聞いていた。
地上のどよめきも、打ち鳴らされる半鐘も、ここまでは届かない。届くのは、手のなかの古びた箱から漏れてくる、雑音まじりの声だけだった。
『撃ったわよ。荒れ地のど真ん中。ちゃんと、誰ひとり傷つけてないからね』
トランシーバーの向こうで、イルミナの声が得意げに言った。それでいて隠しきれないほど疲れている。極大魔法をただ一発、見せ球のためだけに虚空へ放つ。あれがどれほど魔力を削る芸当か、ゼンには想像するよりほかなかった。
「上出来だ。完璧すぎるくらいだよ」
『でしょう。もっと褒めて』
「あとでいくらでも。それで、向こうの様子は」
『石みたいに固まってる。前衛も、塔の上のふたりも。指の一本も、動かせやしないわ』
動けない。それでいい。動かせないということこそが、ゼンの引いた盤の目だった。
狭い地下倉に、リーシャとミレナ、それにノクトが身を寄せ合っている。新星商会の王都店、その床下。下水道から這い上がってきたゼンを迎え入れた、血の匂いのしない、もうひとつの戦場だ。
「会談の使者は、もう城門に着いた頃よ」
卓に広げた王都の図面を、リーシャが指でなぞる。
「日暮れまで、と伝えてある。ゼン。本当に、王は卓に着くと思う?」
その問いに、ゼンはすぐには答えなかった。
右の眼を覆う布の下、かつてそこに宿っていた力は、もうない。人の胸のうちを覗き見て、迷いなく手を打てた頃の自分は、とうに置いてきた。
いま彼に読めるのは、人の心ではなかった。盤の理屈だけだ。
「着くさ」
やがて、そう言った。
「着かなきゃ、おかしい」
「考えてもみろよ。あの一発で、王国軍は前にも後ろにも進めない。物流は止めた。兵糧も士気も、もう長くは保たない。そんな手札のまま対話を蹴ったところで、得るものはなにもなく、失うものばかりだ。受けて時間を稼ぎ、こちらの綻びを探すのが、王国に残された、たった一つの道なんだ」
「道、ねえ」
ミレナが呟いた。壁にもたれたまま、腕を組んでいる。
「相手が、お前ほど勘定の上手い人間ならな」
「上手くなくてもいい。最低限、自分の国を守りたいと思ってさえいれば、答えは一つに絞られる」
言いながら、ゼンは卓の隅に置いた道具へ目を落とした。
先代の魔王が遺した声を運ぶための道具、メガホン。その傍らにスラム住人と、獣人の荷運びたちと、セブンセブンに通う者たちが繋がっている。
数千の丸腰の民。
それがゼンの最後の切り札だった。
「これは、使わずに済ませたい」
半ば、自分へ言い聞かせるようだった。
「王を卓へ引きずり出すための、脅しの札だ。剣を持たない人間を、剣を持った軍の前に並べる。そんな手は、最後の最後まで切りたくない」
リーシャは何も言わず、ただゼンの手の甲に、そっと指先を重ねた。ミレナは目をそらし、ノクトは天井の梁を見上げて、聞こえないふりをした。
誰も、その「最後の最後」が、すぐそこまで来ていることを、まだ知らずにいた。
◇
王城の議事の間は、朝から灰色に沈んでいた。
居並ぶ将と文官の顔は、どれも一様に青い。城壁の上から見えたもの。二百年、決して交わらぬはずだった二つの旗が、並んで立つ光景が、まだ誰の眼にも灼きついている。
王子ゼクスは、玉座のかたわらに立ち、その喧噪を冷えた眼で見下ろしていた。
「結論は、出ている」
ざわめきを断ち切るように、ゼクスは言った。
「使者を受ける。日暮れを待つまでもない。こちらから卓を整えると、返せ」
将のひとりが気色ばんだ。
「殿下。魔族と反逆者どもと、卓を囲めと仰るか」
「囲むのではない。引き延ばすのだ」
ゼクスの声に、熱はない。
「あの一発を見たな。あれと同じ魔法を、向こうは何発でも撃てると言っている。嘘か真かは、どうでもいい。確かめる賭けに、王国の全軍を張れるか。張れまい。ならば、動けぬあいだは時間を稼ぐ。魔族と獣人は、二百年、互いを憎みあってきた。しょせんは寄せ集めだ。時さえあれば、継ぎ目はいくらでも見つかる」
その理屈は、誰にも覆せなかった。覆せないからこそ広間の温度が、わずかに緩む。
卓に着く。それで少なくとも、今日、灰になる者はいない。
「ならぬ」
玉座から、低い声がした。
国王グランゼル三世は、肘掛けに頬杖をついたまま、息子のほうを見てもいない。
「使者には、応えるな。返書も出すな。日が暮れるまで、ただ待たせておけ」
「父上」
ゼクスは、一歩踏み出した。
「それは、最も愚かな手です。受けるでも拒むでもなく、ただ黙して時を捨てる。得るものが、何ひとつない」
「時を捨てるのではない」
王の口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「思い知らせてやるのだ。差し出した手が、いつまでも宙に浮いたままだという屈辱を。卓など、はじめからありはしないのだとな」
ゼクスは、口をつぐんだ。
父の言葉には、戦を避けようとする者の重さも、勝とうとする者の計算も、何ひとつ宿っていなかった。ただ、対話が潰れること、それ自体を悦ぶような響きだけが、底に揺れている。
この国の利になることを、ひとつも言わない。
幼い頃から、父は冷たい人だった。母が逝ったあの年から、ずっと。だから、その冷たさには、慣れていたはずだった。
なのに、今日のそれは、慣れた冷たさとは、どこか違う。底のほうに見覚えのない飢えのようなものが、揺れている気がした。
しかし、ゼクスはそれを胸の奥へ押し込めた。
「……御意」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、平坦だった。
日暮れまで、王国は卓に、誰も送らない。
送らないと、決まった。
◇
日が、傾きはじめた。
地下にいても、刻限は知れた。気だるい西日の色が、地上へ通じる階段の縁を、わずかずつ赤く染めていく。
城門からは、なんの動きもない。差し出された手は宙に浮いたまま、ただ立ち尽くしている。
ノクトが、音もなく階段を駆け降りてきた。
「ゼン。城門、ぴくりとも動かねえ。使者は突っ立ったまんまだ。それと……」
角のない額に、汗が滲んでいる。
「フローラ様から、ことづて。御前会議は、もう終わったって。王は返事すら出すなと命じたそうだ」
ゼンは、答えなかった。
ただ、ゆっくりと、息を吐いた。
受けるでも、拒むでもなく、ただ黙殺する。
それは、ゼンが並べたどの目にも、なかった手だった。受けて稼ぐ。受けて割る。せめて、引き延ばす。国の舵を握る者なら、誰がどう打っても、卓には着くはずだ。
なのに、その手を選ばない。差し出された手を、握りもせず、払いもせず、ただ宙に浮かせたまま放置する。それは、王国の利を一切顧みない者にしか、選べない手だった。
舵を握る手は、もう、王国のためには舵を切っていない。
とうに、分かっていたことだ。あの地下の部屋で、魔力で回る古い家電と、二百年前の設計図を見た、あの時から。王のなかには、戦が終わることを、決して許さない何かがいる。
それでも、ゼンは賭けていた。万にひとつ、相手が『ただ自分の国を守りたいだけの、人間』であってくれることに。
賭けは、外れた。
盤面は死んだ。
最初から用意されてなどいなかったのだ。
ゼンは、卓の隅の筒へ手を伸ばした。
冷たい金属が、手のひらに馴染んでいく。
札を切る。剣を持たない数千を、剣を持った軍の前に立たせる。ずっと避けてきた手だ。けれど、もう、それしか残っていない。
ただし、と、ゼンは思う。これは武器ではない。
あの民を王の前に並べるのは、殺すためではなく問うためだ。日の暮れるその前に、王都じゅうの眼の中へ、はっきりと突きつけるために。
誰が、差し出された手を蹴ったのか、と。
祈る丸腰の民を前にして、王は二つに一つを選ばされる。卓に着くか、あるいは衆人環視のなか、その民を焼く者として、自らの正体を、白日の下に晒すか。
「イルミナ」
ゼンは、トランシーバーに口を寄せた。
「両軍は、動かすな。抑止だけ、保っていてくれ。進むのは武器を持たない連中だ」
『……いいの。あなたの、いちばん嫌な手でしょう』
「ああ。いちばん、嫌な手だよ。プランBを発動する」
ゼンはリーシャとミレナを見た。
ふたりは、もう立ち上がっていた。言葉は、いらなかった。
ミレナが無言で店の裏戸を開け放つ。ノクトが路地へ駆け出していく。
合図は夕闇を波のように渡っていった。




