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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第6章 魔王

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第86話 魔王の予言

 凍てつく冬の朝、北の山脈を両断するような光とともに、その男は現れた。

 名も語らず、故郷も明かさず、ただそこに佇むだけで肌が粟立つような魔力を纏っていたという。

 のちに「先代魔王」と呼ばれることになる存在だ。


 当時の魔族領を覆っていたのは、乾いた土と終わりなき血の匂いだけだった。

 誰もが互いを信じず、剥き出しの敵意が渦巻いていた。

 それを、あの男はたった十年で変えてしまった。

 荒くれどもを力でねじ伏せ、争いを止め、魔族をまとめ上げた。

 そして、不毛な荒野に巨大な石を運ばせ、建てられたのが今もそびえる黒曜の居城――魔王城だ。


 そこからの五十年間は、嘘みたいに静かだった。

 ただ、魔族が飢えずに生きていける場所を、男は黙って守り続けた。

 そして二百年前。

 男は玉座の上で、まるで枯れ葉が落ちるように静かに息を引き取った。

 その直前、寝室に集まった幹部たちに、男は掠れた声でこう遺したのだという。


「いつか、本当に突然に……この世界のことを何一つ知らない、次の魔王がやってくる。とんでもない力を持ったまま、迷子みたいに立ち尽くしているはずだ。見つけたら、温かく迎えてやってくれ」


 それが、最後の言葉だった。

 偉大な男の予言はそのまま重い遺言となり、魔族全体の絶対的な掟になった。

 主を失った黒い玉座は、それから二百年もの間、誰も座ることのないまま冷え切っていた。



     ◇



 朝霧がまだ森の足元を白く濁らせる時間帯だった。

 魔族領の南東に広がる深い樹海を、一人の大男の乗った馬が進んでいく。

 男の名はヴォルド。

 目覚めたときより、得体の知れない不快感がずっと消えなかった。

 木々の隙間に、何か黒い影が見え、馬を止めた。

 一歩、また一歩。

 湿った落ち葉を踏みしめる音さえ殺し、慎重に間合いを詰めていく。


 大穴の開いた巨木の根元に、黒髪の女がぽつんと座り込んでいた。

 二十代の初めくらいだろうか。

 長い黒髪の合間からは、羊を思わせる白い巻き角がふたつ、ゆるやかに伸びていた。


 見たこともない簡素な仕立ての服を着て、両膝を抱え込み、何もない空間をぼんやりと見つめている。

 そして、彼女の周囲だけが歪んでいる。

 当の本人は、自分がどれほど異常なものを撒き散らしているか、全く気づいていない様子だった。

 ヴォルドは肺の空気をすべて吐き出した。

 二百年だ。気の遠くなる年月の果てが、目の前にある。


 あと数歩というところで、ヴォルドは膝を折りかけ――思いとどまった。

 まだだ。早まるな。

 ただの願望で、先代の遺言をねじ曲げるわけにはいかない。


「――娘」


 低く声をかけると、女がのろのろと顔を上げた。

 琥珀色をした綺麗な瞳だった。けれど、その目にはどこにも焦点が合っていない。

 その巨躯を見上げても、彼女の喉から悲鳴が漏れることはなかった。

 ただ、道端で近所の人に話しかけるような、気の抜けた声で言った。


「ここ、どこ?」


 ヴォルドの喉が、くくりと鳴った。


「わたし、さっきまで……」


 言葉はそこで途切れた。

 彼女は自分の手のひらを何度も裏返し、それから自分の服を見つめ、最後に木々の隙間から覗く空を仰いだ。

 森の緑に切り取られた朝の青さを、まるで生まれて初めて見るもののように、ただじっと眺めている。


 ヴォルドは静かに、その場に片膝をついた。

 大きな身体が下生えを軋ませる音に反応して、彼女の視線がようやく彼を捉える。


「あの……魔物さん、ですか?」


 二百年待ち焦がれた相手への第一声としては、あまりにも緊張感に欠ける問いかけだった。

 けれど、ヴォルドは不思議と不快にはならなかった。


「魔族だ。魔物ではない。――それと、お前自身も魔族ではないか」


 えっ、と彼女が小さく漏らした。

 おそるおそる自分の頭に手を伸ばす。

 指先がつるりとした硬い感触に触れた瞬間、彼女の顔から一気に血の気が引いた。

 両手で巻き角を掴み、何度も握り直し、最後に呆然とヴォルドを見上げる。


「角が……生えてる」

「生えているな」

「ほんとに生えてる……」


 それでも、泣き出すような取り乱し方はしなかった。

 ただ、自分が今ここで生きていること自体が、彼女にとっては最大の謎であるようだった。


「……名は」

「イル」

「イル、と」

「うん。イル、です」


 それ以上、苗字も、生まれ育った場所の名前も出てこなかった。

 魔族の姿はしている。だがこの土地の生まれではない。

 異邦の者。間違いな、この女だ。


「……どうやって、ここへ来た」


 その問いに、彼女は自嘲気味に、ふっと口元を歪めた。

 忘れてしまったというよりは、思い出すことそのものを拒絶しているような、影のある笑い方。

 しばらくの沈黙のあと、彼女はぽつり、ぽつりと、記憶の破片を落とすように話し始めた。


「死んだんです、たぶん。急に、目の前が真っ暗になって。……あはは、何言ってるか分かんないですよね」


 ヴォルドは何も言せず、先を促すように視線を固定した。


「死んだ後に、願いを一つだけ叶えてあげる、って言われたんです」

「……ふむ」

「それで、わたし、その場のノリで言っちゃって」

「何と言ったのだ」

「美貌の魔王になりたい、って」


 彼女は両手で顔を覆った。

 指の隙間から、耳まで赤くなっているのが見える。


「いや本当に、なんであんなこと言っちゃったんだろ……恥ずかしすぎる……」


 ヴォルドは、しばらく言葉を失った。

 予言の魔王。

 二百年間、歴代の幹部たちが頭の中で勝手に創り上げていた「次なる主」のイメージは、もっと威厳に満ちたものだった。先代魔王のごとく、我々を導いてくれるような。

 だが、目の前の女は違う。

 魔王としての自覚がまったくない、只の娘だ。

 そのあまりにも突拍子のない願いを、天上の誰かが気まぐれに拾い上げたというのか。


 理不尽な世界の巡り合わせに、ヴォルドの硬く結ばれた唇が、わずかに緩んだ。

 喉の奥から、くく、と低い笑いが漏れていた。


「えっ、ちょっと、笑わないでくださいよ……! 自分でも本当に意味不明なんですから……!」

「いや」


 ヴォルドは大きく首を振った。


「お前を嘲笑ったのではない。世界の巡り合わせの妙に、可笑しくなっただけだ」


 そう言って、ヴォルドは背中の大剣をベルトごと外し、地面にそっと横たえた。

 完全な武装解除。彼が持ちうる最大の敬意の証明だった。

 それから、ひざまずき額が地面に触れるほど、深く頭を垂れる。


「――イル殿」


 声が、わずかに震えていた。

 百戦錬磨の戦士の鉄の喉が、歓喜で震えていた。


「我が名はヴォルド。先祖代々、この土地と空席の玉座の守護を任ぜられた者。二百年、我ら魔族は次の主が来られるのを、ただひたすらに待ち続けてまいりました」

「……はい」

「先代はこう予言された。『いつか突然、この世界のことを何も知らぬ次の魔王が現れる。途方もない魔力を持ち、迷子のように佇んでいるはずだ』と」

「……」

「貴女様が漏らしておられる圧倒的な魔力、その佇まい、そして、魔王たらんとする意志の形。――すべてが、予言の通りでございます。どうか我らの主となり、あの空席の玉座にお座りいただきたい」


 イルは、パチパチと何度も瞬きをした。


「……えっ」


 少しの時間のあと、ようやく事態が頭に追いついたらしい。


「ええっ!? いやいや、責任重大すぎませんかそれ!?」


 ヴォルドは頭を下げたまま、微動だにしない。

 イルのほうが、その重圧に耐えかねてうろたえ始めた。


「ま、魔王って労働時間どれくらいなんですか!? 週休二日制ですか!?」

「……ろうどう? しゅうきゅう……?」

「あ、すみません! 今のナシで、忘れてください……!」


 ヴォルドはゆっくりと顔を上げた。


――本当に、この娘が?


 一瞬、脳裏をよぎった不敬な疑念を、慌てて心の奥底にねじ伏せる。

 いや、違う。俺たちは二百年待ったのだ。

 間違いようのない、あの圧倒的な圧。ようやく現れてくれた、俺たちの主。

 それに……ヴォルドは気づいていた。


 彼女の華奢な肩がかすかに震えている。

 怯えているのは刃ではなく、未来の責任だ。

 見ず知らずの種族を背負うという、その重さに足がすくんでいる。


「……本当に、わたしで、いいんですか。魔王になりたいって、わたしが勝手に言っただけなのに。そんな不純な動機で、本当に、なっちゃってもいいんですか」


 ヴォルドは、まっすぐ彼女の目を見据えて答えた。


「その言葉を、待っておりました」


 短い言葉だった。

 けれどそこには、魔族全員が耐え忍んできた二百年分の重みがすべて乗っていた。

 イルはぎゅっと唇を結び、視線を一度落とした。

 それから、小さく、本当に小さく首を縦に振った。

 まだ手のひらは震えていた。

 それでも、腹を括った顔をしていた。



     ◇



 その日の夕暮れ。

 ヴォルドはマントを彼女の華奢な肩に掛け、闇が世界を包み込むのを待ってから、黒曜の王城へと足を進めた。

 重厚な城門が、地響きを立てて開く。

 二百年という永い眠りを破り、「主の帰還」を告げる鐘が鳴り響く。

 回廊の両脇に整列した魔族たちは、誰一人声を上げなかった。

 ただ、ヴォルドの斜め後ろを歩く、圧倒的に美しい女性を、息を詰めて見守っていた。


 玉座の間。

 窓から差し込む蒼い月光の下で、その椅子は二百年、じっと待ち続けていた。

 彼女は玉座の段の手前で足を止め、振り返ってヴォルドを見た。

 本当にいいんだな、という、最後の確認のような視線。

 ヴォルドは静かに跪き、黙って頷きを返した。


「……いや、本当に座るんだよね、これ」


 イルは蚊の鳴くような声で呟くと、恐る恐る、黒い肘掛けへと手を伸ばした。

 そこに薄く積もっていた二百年分の埃を、人差し指で、しゅっと優しく払う。

 そうして、覚悟を決めたように、すとん、と腰を下ろした。

 黒い木製のアームが、わずかに軋む音を立てた。

 二百年ぶりに、冷え切っていた玉座が確かな人間の体温を得た瞬間だった。


 ヴォルドは片膝をつき、深く頭を垂れた。

 静まり返った広間のどこかで、堪えきれずに嗚咽を漏らす声が聞こえた。


「――名は」


 ヴォルドは地を走るような低い声で問うた。

 これから、自分たちが命を捧げるべきこの方を、何と呼べばいいのか。

 玉座の上の女性は、冷たい月光を浴びながら、ほんの少し口角を上げた。

 もう後戻りはできないんだなと、自分の運命を受け入れたような、静かな微笑み。


「イルミナ。――そう呼んでください」


 ただのイル、ではない。

 イルミナ。二百年の暗闇に、ようやく灯った光の名前。

 ヴォルドは、さらに深く、額を床に擦りつけた。


「――イルミナ陛下」


 その夜、二百年もの間空席だった玉座に、ついに新たな主が据えられた。

 昼間まで森の中で迷子のように泣きそうになっていた黒髪に巻き角の女は、まだどこか居心地悪そうに、それでも確かに、魔族の頂点へと君臨した。


 あの場にいた者で、あの夜を忘れる者は一人もいない。

 ヴォルド自身も、後にどれほどの絶望に叩き落とされようとも――のちに悪魔に操られ、自らの理性を失い、醜い怪物へと成り果てるその瞬間でさえ――あの夜の蒼い月と、新しき主の姿だけは、決して忘れることがなかった。

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