第85話 バーサーカー ヴォルド(5)
バーサーカーが、ゆっくりとこちらへ足をすすめた。
縦に裂けたその瞳孔が、最後に残った戦力ゼロの軍師をじっと見つめている。
俺は立ち尽くしていた。夕陽が背後から照りつけ、俺たちの影だけが石畳の上に長く伸びていく。口が勝手に半開きになっていた。喉の奥がカラカラに乾いて、次に紡ぐべき指示が何ひとつ浮かんでこない。
ああ。こうやって死ぬのか、と思った。
不思議なほど、頭の中は冷え切っていた。
こちらの世界に来て、死ぬような思いをするのは何度目だろうか。もう疲れた——どこか他人事のような感覚。
完全に盤面が詰んでしまうと、人間はここまで静かになれるらしい。知らない自分を、こんな土壇場で一つ知った。
怪物の足音は止まらない。一歩。二歩。
視界の端で、エレーヌが倒れている。ガランも倒れたままだ。十メートルほど先には、ピクリとも動かないレオン。 胸を深く裂かれたノクトの姿が、夕陽に赤く染まっていく。
今この場でまともに立っているのは、エレーヌに加護を注ぎ続けているイリアと、俺だけだった。
イリアの手は止められない。彼女の小さな掌が、エレーヌの頭部の傷を必死に塞いでいる。今あの子の手が止まれば、エレーヌはそのまま息を引き取るだろう。
だったら、俺が身代わりになるしかない。
元より俺はただの、戦闘力のない駒の一枚なのだ。引き換えに差し出せるものなんて、自分の命くらいしかない。
女神よ、と心の中で呟いた。
すまない。結局、イルは見つけられなかった。
胸の奥で誰に向けて謝っているのか、自分でも判然としなかった。もしかしたら、あの前世の、ちゃんとした返事ができなかった一通のメッセージに対して、だったかもしれない。
バーサーカーの足が、もう一歩こちらの領地に踏み込んできた。
その時。
俺の背後で、ずるり、と何かが擦れる音が響いた。剣の鞘が血に濡れた石畳を這うような音。
「軍師」
低く、ひび割れた声だった。喉の奥に血がへばりついているのが、音だけで伝わってくる。
「後ろへ、下がれ」
レオン——。息が詰まった。
振り返ると、もう息絶えたとばかり思っていた男が、聖剣を地面に深く突き立てていた。それを杖代わりにし、泥臭く身体を持ち上げている。鎧の胸甲はベコベコに凹み、口の端からドロリとした赤黒い糸が垂れていた。立っていること自体が、生物の理屈を超えている。
それでも、彼は確かに両足で立っていた。
「お前、立てるのか……」
「ふっ……」
レオンが、自嘲気味に笑った気がした。いや、自分を奮い立たせるための自問自答だった。
よろめきながらも、レオンの大きな背中が、俺の前に割り込んできた。
「考えた。俺の剣は、誰のために振られているのか。教義のためか、王のためか、それとも勇者の名誉のためか」
聖剣の鞘から、抜き放たれた白い刃がゆっくりと姿を現す。
「いま、俺の剣を振る理由が、見つかった。後ろにいる軍師を死なせるなと、俺の身体が叫んでる。理由は、それだけで十分だ」
喉が、熱い塊を吐き出そうとして、言葉にならなかった。
「下がれ、軍師。次の手を考える時間を……俺が稼ぐ」
レオンの足が、バーサーカーに向けて強く踏み出された。
そして、爆発的な速度で走った。
さっきまでの躊躇が嘘のような、迷いのない踏み込み。
「うぉぉ——っ!」
地を這うような咆哮とともに、聖剣の白刃が閃いた。
一閃。バーサーカーの右腕が、肩口から宙を舞う。
返す刀で、二閃。左腕が肘の先から弾け飛んだ。
そのまま独楽のように回転した剣身が、脳天から真っ直ぐに振り下ろされる。怪物は辛うじて首を逸らしたが、肩口から胸元にかけて、深く白い太刀筋が走った。
三閃。ほんの一秒にも満たない刹那のなかの、三連撃。
ただ一筋に剣の道を歩み続けた者にしか到達し得ない、絶望の淵で見せた絶技だった。俺の動体視力では、その光の軌跡を追うことすらできなかった。
半歩、レオンが下がった。肩が激しく上下している。
だが、バーサーカーの両腕の切断面が、ぐつぐつと内側から黒く泡立ち始めた。
肉が、骨が、意思を持つ生き物のようにねじれながら、瞬く間に繋がっていく。
それを見たレオンの、剣を握る指が白く強張った。
「……まだだ!」
レオンが聖剣を、頭上高くに両手で構え直す。
『ブレードスラッシュ!』
視界が真っ白に染まるほどの光線が一直線に走り、バーサーカーの身体を肩から腰まで両断した。
……けれど、その切断面もまた、即座に黒く泡立つ。
繋がってしまった。
レオンの呼吸が、完全に止まった。
俺はその大きな背中を、ただ見つめることしかできなかった。
聖剣の勇者が、その二十五年の人生で放った、最高の三閃と最強の一撃。それをもってしても、相手の命を削り切ることはできない。
「レオン、下がれ!」
やっとの思いで声を絞り出した。
だが、レオンは下がらなかった。
いや、下がらなかったんじゃない。下がれなかったんだ。
聖剣を構えた姿勢のまま、足が地面に縫い付けられたように微動だにしない。全精力を注ぎ込んだ今の連撃に、彼自身の身体の再生が、追いついていなかった。
バーサーカーの新しく生え変わった、まだ初生児のように瑞々しい肉の爪が、ぬるりとレオンの胴体を捉えた。
肉の裂ける嫌な音がして、レオンの身体が宙に浮いた。
二メートル近い巨躯の勇者が、まるでもろい糸の切れた人形のように、十メートル先の石畳へと叩きつけられる。
ゴン、と、重く鈍い音が響いた。
聖剣がレオンの手から離れ、夕陽の中で虚しく弧を描いて転がっていく。
「レオン——っ!」
駆け寄ろうとしたが、足が前に出ない。悲鳴をあげる右脚が、もう限界を迎えていた。
バーサーカーは、もうレオンを振り返りもしなかった。自分の全力の攻撃を耐えきった男を、ただの『処理済みの駒』として、完全に視界から外している。
怪物が、ゆっくりと首を巡らせた。
縦に裂けた瞳孔が、地面に倒れたまま動かない、エレーヌの姿を捉える。
イリアの放つ淡い加護の光が、エレーヌの側頭部をまだ包み込んでいた。傷口は塞がりかけているが、彼女の意識は戻らない。
バーサーカーの足が、容赦なくエレーヌの方へと一歩を踏み出した。
イリアの細い指が、震えながら胸の前で組まれている。あの子の祈りは、傷を癒やすためのものだ。迫り来る爪を弾くための、防壁ではない。
「イリア! 加護を結界に切り替えろ!」
そう叫ぼうとして、俺は声を飲み込んだ。今ここで大声を張り上げれば、彼女の繊細な祈りの詠唱を乱してしまう。
代わりに、声を出したのはイリアの方だった。
「光よ——っ!わが身を守れ」
組まれていた細い指が、ぱっと力強く開かれた。
その手のひらから溢れ出た白い輝きが、エレーヌを覆うように、一本の傘となって広がっていく。
『光の結界』。
その光の傘が完全に固まりきるより早く、バーサーカーの爪が容赦なく振り下ろされた。
バチンッ! と鼓膜を刺すような高い音が響き、夕陽よりも眩い火花が激しく散る。
爪は、結界を貫通しなかった。
俺の喉から、せき止められていた吐息が一気に漏れ出した。
イリアがガクンと片膝をつく。
「……エレーヌ様が、目を覚ますまで」
声は、酷く震えていた。けれど、その震えの奥には、今までになかった確かな彼女自身の意志が宿っていた。
「私が、ここを、守ります!」
俺は、その小さな背中を凝視していた。
ずっと過去の傷に縛られ、凍りついていた癒し手が、今初めて、自分の意志でその場に踏み止まろうとしている。シスターを失ったあの夜から、彼女が初めて、自分の心で組み直した祈りの形だった。
バーサーカーが、さらに狂暴さを増して爪を振り下ろす。
光の結界が、悲鳴をあげるように軋んだ。
イリアの肩が小さく跳ねる。それでも、足は一歩も後ろへ下がらない。
俺たちがこの化け物に勝つためにはエレーヌが必要だ。
だが——俺の手元にはまだ、その勝ち筋が、何ひとつ見えていなかった。
イリアの結界が、ただギチギチと音を立てて軋み続けている。




