第84話 バーサーカー ヴォルド(4)
エレーヌの杖の先で、凝縮された赤い光が明滅を始めていた。
「灰燼に帰せ――」
低く、研ぎ澄まされた彼女の声。俺はその響きを鮮明に覚えていた。ガレリア鉱山へ向かう街道でスライムの群れに向けて放たれた、あの声だ。だが今度は、向けられた対象も、背負った覚悟もまるで違う。彼女自身の意志で、大切な友の頭上に、太陽を叩き落とそうとする声だった。
息が詰まる。邪魔などできるはずがない。詠唱の最後のひと節を、俺はただ祈るように待った。
「エクスプロー――」
その、瞬間だった。
ガランの太い腕に締め上げられていたはずの化け物の足が、不自然な角度で地面を蹴った。いや、蹴られたのは剥き出しの土ではない。
石畳の上に転がっていた、あの大盾だ。
ガランが肌身離さず持っている大盾。さっき彼自身が投げ捨て、羽交い絞めにするために置いていった、あの相棒。それが暗灰色の足の爪に弾かれ、凄まじい速度で回転しながら、宙をまっすぐに滑ってきた。
視界の端で何かが跳ねたと思った瞬間には、もう遅かった。エレーヌ、と心の中で叫んだ俺の声は、形にすらならなかった。
大盾の縁が、エレーヌの側頭部を深く、正確に捉えた。
肉と骨が潰れるような、低く鈍い音が響く。エレーヌの体が横ざまに吹っ飛んだ。糸の切れた人形なんて生易しいものじゃない。ぐにゃりと崩れ、石畳に叩きつけられた彼女の手から、杖が虚しく転がっていく。集束しかけていた赤光が、霧散した。
「エレーヌ!」
叫んだ拍子に右脚が悲鳴を上げたが、そんな痛みをなりふり構わず彼女の元へ向かおうとした時、側頭部から溢れ出た鮮血が、石畳の隙間にすうっと染み込み始めていた。
「イリア、エレーヌだ!エレーヌに切り替えろ! 回復を、早く!」
俺の怒声に、イリアの祈りがぴたりと止まった。ガランの巨体を包んでいた薄い光の幕が、一瞬で霧散する。
「でも、ガラン様は――」
イリアの声がガタガタと震えていた。
「いいからエレーヌを救え!広域爆破魔法が使えなければ、どのみち全員助からない!」
イリアの指が血相を変えて組み直され、青白い光の粒子がエレーヌの側頭部へとようやく移った。だが、その代償はあまりにも早すぎた。
ガランの背中で、ぱきり、と何かが軋む嫌な音が響いた。
獣の胴体が、ガランの太い腕の中でねじれる。負傷した肩の力では、もう足りなかったのだ。羽交い締めの輪が、内側から圧倒的な筋力でこじ開けられていく。
「ガラン!」
レオンが叫び、聖剣を構え直して泥を跳ね上げながら駆けた。「下がれ! 俺が――」
レオンがガランに肩を貸そうと飛び込んだ、まさにその瞬間。化け物が、自由になった右腕でガランの後ろ襟を掴み、信じられない力任せに引き抜いた。二メートル五十センチの巨体が、ボロ雑巾のように宙に舞う。
その軌道の先に、レオンがいた。
衝突音が響き、獣人の戦士の体と聖剣を構えた勇者の体が、石畳の上で無秩序に絡み合って転がった。手から滑り落ちた聖剣の光の刃が、傾きかけた夕陽の中で虚しく回転し地面に突き刺さる。二人とも、すぐには起き上がれない。その致命的な空白に、俺の脳の芯がじりじりと焦げ付くような感覚に襲われた。
バーサーカーは邪魔者を払った両腕を軽く振った。関節がぐきぎ、と不快な音を立てる。そしてゆっくりと首を巡らせた。
倒れたガランも、倒れたレオンも、もう見ていなかった。
縦に裂けた黄色い瞳孔は、地面に倒れてピクリとも動かないエレーヌの、無防備に晒された白い首筋だけを凝視していた。
「待て――」
声が出ない。喉の奥が張り付き、かすれた呼気が漏れるだけだった。ただの空気の漏れだ。
化け物が、音もなくエレーヌへと歩を進める。巨体が迫るごとに、石畳がかすかに震えているようにさえ錯覚した。イリアの必死の加護がエレーヌの側頭部の血をようやく止めかけているが、意識が戻る気配はない。自分に迫る絶対的な死の足音を、彼女は知らない。
化け物の右腕の爪が、ゆっくりと残酷な確信を持って振り上げられた。俺の足は、まだエレーヌの元へ届かない。その爪のどす黒い影が彼女の肌に伸びた。
その時、鼓膜を裂くような風切り音が横から突き抜けた。
小さな、赤茶色の硬質。表面の鈍い艶。脳の片隅が、そのフォルムの正体を強烈に弾き出した。
ノクトの爆発する石だ。
暴竜ヴェルザレード戦の夜、エレーヌが一晩中徹夜して、魔力を込め続けた衝撃起爆の付与石。火炎弾一発分の魔力が、衝撃で爆ぜる構造に封じ込められている。
それが、バーサーカーの振り上げた手首の真ん中に直撃した。
鼓膜をつんざく爆音。赤い炎が化け物の手首から噴き上がり、骨ごと、肉ごと、肘から先を横に吹き飛ばした。凄まじい衝撃に、さしもの化け物もエレーヌの脇から数歩、よろめきながら後退する。
息を呑んで視線を追うと、そこにはノクトがいた。左手の指の隙間に、別の火炎弾石を挟み、脂汗を垂らしながら肩で息をしている。
「ゼン、……まだあるぞ!」
ノクトの声は、ガタガタと震えていた。
パニックを起こしかけていた俺の脳内で、ようやく一つの事実が繋がった。あの暴竜戦でノクトは十発を使い切り、その後、エレーヌは、ノクトの力を認め、新たに何個か用意していてくれた。俺はその二人の不器用な信頼の計算を、完全に見落としていた。
だが、その渾身の一撃ですら。
化け物の手首の断面が、すでに黒い泡を吹くようにして、ぐつぐつと蠢き始めていた。肉が芋虫のように這い回り、骨が目に見える速さで伸長していく。
ノクトの目が恐怖で丸くなった。暴竜の目すらつぶしたはずの火炎が、この化け物の再生力を削りきれなかったのだ。
そして、あの裂けた瞳孔が、ゆっくりとノクトへと向いた。ガランやレオンの時のような、一拍の凝視ではない。今度は獲物を絶対に逃さないという、粘り着くような不気味な据わり方だった。獣の優先順位がいま、完全に書き換わった。
「ノクト、逃げろ!」
肺を絞り出すように叫んだ。
だが、あの子の足は一歩も動かなかった。覚悟や恐怖で竦んだというより、生物としての格の差あの異常な眼光に、小さな魔族の身体そのものが石畳に釘付けにされてしまったのだ。
バーサーカーが地面を蹴った。それはもう、エレーヌへ向けられた足ではない。ノクトを肉の塊に変えるための足取りだ。
「間に合え、間に合え……!」
呪詛のように呟きながら、俺は壊れた右脚を引きずって走った。だが、距離が絶望的に遠すぎる。
ノクトがまた石を投げた。
命中!
しかし、止まらない。化け物のまだ肉が完全に繋がりきっていない右腕が、それでも容赦なく一閃された。鋭い五本の爪が、ノクトの胸を斜めに深く、引き裂く。
ノクトの体が軽々と宙でねじれ、石畳の上へと叩きつけられた。もう、起き上がろうとする身動ぎすらない。小さな胸に刻まれた四本の深い傷から、子供の身体には到底収まりきらないほどの鮮血が、止めどなく溢れ出し冷たい石の隙間へと吸い込まれていく。
「ノクトー!」
ようやくたどり着き、その体を抱き起こそうとしたが、指が血で滑って震えた。ノクトの口の端から、細かな赤い泡が零れ落ちる。
「……ゼン、あいつ、暴竜より……固かった、ぜ……」
「喋るな!」
言葉が、まともに形をなさない。俺の脳内は、もうチェス盤の駒を並べることすら放棄していた。組み立てようとする端から、配置したはずの仲間たちの姿が、血溜まりの中にバラバラに崩れ落ちていく。
エレーヌも、ガランも、レオンも、ノクトも、全員が地に伏せている。まともに動けるのは、涙を流しながら祈りを繋ぐイリアと、使い物にならない右脚で立ち尽くす俺だけだ。
次の一手は。
俺の頭は狂ったように何かを探し、空回りし続けた。次の一手は、何だ。どうすればこの全滅を覆せる。
だが、何も、何も出てこない。
前世で数千時間、画面にかじりついて叩き込んだレイドボスのハメ技も、相棒のイルや仲間たちと阿吽の呼吸で動かした完璧な連携も、コンサル時代に徹夜で書き殴ったあの整然とした危機管理のフレームワークも、あの暴竜ヴェルザレード戦で五人の命を一つの生き物のように駆動させた、あの万能感も。
すべての引き出しを、今、爪が剥がれるほどの勢いで引き開けた。けれど、その中は驚くほどからっぽだった。何一つ、この絶望的な現実の前に通用する武器なんて、入っていなかった。
バーサーカーが、ゆっくりとこちらに向き直る。
縦に裂けた瞳孔が、最後に残された、戦力値ゼロの軍師をただ見つめていた。
俺は、ただ立ち尽くしていた。夕陽が俺たちの絶望をあざ笑うように、長く、黒い影を石畳に伸ばしている。俺の口は、次の指示を出すために確かに開いていた。だが、そこから洩れ出たのは、言葉にならない、ただの虚しい空気の音だけだった。
何もない。俺には、もう、何もなかった。




