第83話 バーサーカー ヴォルド(3)
バーサーカーが、ギデオンの胸から引き抜いた槍を地面に投げ捨てた。
石畳に硬い音が響く。夕陽の残光のなか、不落と謳われた魔族の巨躯が動かない。脇腹の傷口からは、まだ血が流れ続けている。生きているのか、あるいはすでに絶命しているのか。それを判定するだけの余裕は、今の俺の頭にはひとかけらも残されていなかった。
盤面はいよいよ完全に詰みかけていた。
痛む右脚を引きずり、俺はエレーヌの傍らへと戻った。前世のコンサルタント時代に何度か直面した『詰みの局面』というやつだ。残された手は極めて少ない。
状況を整理する。
勇者一行は過去に二度、あのバーサーカーに敗北している。
俺の言葉も戦術も一切通用せず、あの強固なギデオンですら防波堤になり得なかった。そして何より、俺にはもう、視認のスキルがない。
無意識のうちに、右目の上の包帯に指が触れた。先の戦闘で抉られ、俺の視界の半分は永遠に失われた。同時に、頭上の文字を読む力も消滅している。
ガランの頭上に【贖罪】の文字が灯っているのか。エレーヌの頭上に【感情排除】が戻っているのか。もう確認する手段はない。だが、確認するまでもなかった。俺は毎日、彼らの隣を歩いてきたのだ。文字を見るまでもなく、今彼らが何を抱えてそこに立っているのかは、容易に想像がついた。
残されている手札は、あと一つだけだ。
『広域爆破魔法』。
エレーヌの最大火力であり、前世の戦略兵器にも匹敵する魔法。一日に一発しか撃てない。かつて王都への街道で、彼女がスライム百匹のために使い切ったあの魔法が、今、彼女の手元にある。俺たちに残された最後の手札だ。外せば、すべてが終わる。
威力はバーサーカーを焼き払うのに十分だ。だが、相手は瞬時に距離を詰める脚力を持った暗灰色の獣だ。長い詠唱の最中にエレーヌが仕留められるか、あるいは命中したとしても、致命的な範囲を外される可能性が高い。
確実に、一発で仕留めなければならない。
エクスプロージョンを、相手の中心にゼロ距離で叩き込む。
そのためには、誰かがバーサーカーをその場に押さえ込む必要がある。
俺は、自身の喉が酷く渇くのを感じていた。
視線がガランに向いた。ガランしかいなかった。
そして彼に加護を掛けたとしても、おそらく生き残ることはできない。エクスプロージョンのゼロ距離に耐えられる加護など、俺の知識には存在しない。今はただ、ガランの背中の構えに頼るしかなかった。二十年前、妹ミーナを守れなかった夜から、彼が一度たりとも崩したことのない構えだ。あの背中なら、こちらの意図に応えてくれる。そう信じるほかなかった。俺の決意は、すでに固まっていた。
「ガラン」
巨漢の戦士が振り向いた。深く切り裂かれた肩を、まだかばっている。
「すまない。バーサーカーを押さえてくれ」
ガランの目が俺を捉えた。
その目が状況を理解するまでに、一秒もかからなかった。戦士を二十年続けてきた男の、圧倒的な計算の速さだった。エレーヌの最大火力。ゼロ距離での発動。そして、押さえ役の生存確率。
ガランの口の端が、わずかに上がった。
スキルがなくとも、その表情の意味は十分に理解できた。彼の二十年が、今、ようやく自身の答えを見つけた――そんな顔だった。
「応!」
短い一言だった。それ以外の言葉は必要なかった。
ガランは、負傷した肩をかばう動作を完全に捨てた。肌身離さず持っていた大盾を地面に投げ捨て、両腕を自由にする。獣人の爆発的な脚力が石畳を捉えた。
横からバーサーカーへと猛然とぶつかり、太い両腕が暗灰色の胴体を後ろから抱え込む。完璧な羽交い締めだった。
ガランの足が地面に深く根を張る。彼の筋力と覚悟の総和が、バーサーカーの動きを一瞬、完全に止めた。
バーサーカーが唸り声を上げ、爪をガランの背中に届かせるために、その腕を内側へと歪に折り曲げようとする。
「エレーヌ! エクスプロージョンを撃て!」
俺は叫んだ。
エレーヌが顔を上げた。
その顔は青ざめていた。彼女は地面に座り込んだまま、震える両手で杖を握ろうとしていた。
その左手は、無意識にローブの胸元へと伸びていた。布地の下に、確かな輪郭が浮かび上がる。死んだ四人の部下の遺品。彼女が三年間、握り続けてきた呪いの塊。
「……ガランごと、なの」
エレーヌの声は消え入りそうだった。
「ゼン……ガランを、巻き込んでしまう」
俺は振り返らずに答えた。
「わかっている」
「ゼン」
「撃て!」
俺の声が、初めて彼女に対して鋭く尖った。
エレーヌの肩が激しく震える。
俺は彼女の三年を知っている。彼女が自身の魔法で何人を灰にしてきたか、その内訳を、つい先ほど目の前で聞かされたばかりだ。そして俺は、その同じ魔法をもう一度、彼女に撃たせようとしている。今度は、自分がよく知る顔の上に、自らの手で太陽を落とせと命じているのだ。
俺の喉も、本当は震えていた。
だが、その動揺を彼女に悟らせるわけにはいかなかった。
「イリア!」
俺は別の方向へ叫んだ。「ガランに加護を! いま!」
イリアはまだ、過去のどこかの夜を見つめていた。かつてバーサーカーと対峙した孤児院。あるいは、ラスの競技場で、彼女が祈りの言葉を失った、あの夜の影。指先は祈りの形を組めないでいた。
「イリア、お前の祈りで、ガランをほんの一瞬でも長く保たせろ! いまだ!」
俺の叫びによって、イリアの目がゆっくりとこちらに戻ってきた。
その目は、何かを完全に決意した目ではなかった。だが、過去の記憶を思い出した目だった。あの時、組めなかった祈りを、今、ここで組み直す。
イリアの指が震えながらも、ようやく組まれた。
「主よ……我が同胞、ガランに……御加護を……」
光がガランの背中を薄く包み始めた。
しかし、それでは圧倒的に足りない。俺の知識を総動員しても、その薄い光で爆破に耐えきるのは 不可能だと言わざるを得なかった。
それでもイリアは祈り続けた。震える指を、固く組んだまま。
バーサーカーがガランの羽交い締めの中で咆哮し、その爪がガランの肩へと突き刺さりかける。
「エレーヌ!」
俺はもう一度叫んだ。
「撃て! いまお前が躊躇すれば、ガランが無駄に死ぬ!」
エレーヌの杖が激しく震えた。
彼女の唇が、自分自身に向けて、無音で動いた。俺はその口の形を、何度も、夜営の焚き火の影で目にしてきた。
『感情で計算を狂わせる人間が、一番多くの味方を殺す』
それは三年間、彼女が呪文のように繰り返してきたフレーズだった。死んだ四人の部下の前で、自分を立て直すために。王太子ゼクスが、王城の廊下で、彼女の耳元に押し付けた言葉。
「次に私の前で杖を構える時は、迷わず撃て」
それを彼女が自分の言葉に組み直し、毎晩、自分に飲ませてきた毒。
そして、王都の最後の夜。彼女はその呪文に、初めて、躊躇した。躊躇したことで九百八十七人の命が救われた。
俺はその躊躇を、尊いものだと思っていた。
いま、俺は、彼女に、もう一度その呪文を唱えさせようとしている。
許せ、エレーヌ。胸の中で深く詫びる。あの夜の九百八十七の躊躇は、お前のものだ。それを俺が奪うことはしない。だが今夜、お前が躊躇すればガランが死ぬ。お前の躊躇を、ガランの命と引き換えにすることはできない。
エレーヌの左手が、ローブの胸元にある四つの遺品を強く握り締めた。
その指の関節が、白を通り越して青くなる。
彼女の唇が動いた。
詠唱が始まった。
その詠唱の音は、王太子ゼクスの呪文が持つ冷徹な音色とは異なっていた。それは、もっと痛みを伴った音色だった。
彼女の杖の先に、赤い光が生まれかけていた。
スキルはもう、彼女の頭上に灯る文字を教えてはくれない。
だが、そこに灯っている文字は、確信を持って想像できた。それはゼクスの呪文でも、俺の指示でもない。お前自身の決断だ。
エレーヌの杖が、ゆっくりと、バーサーカーに向けて傾いていく。
赤い光が、夕陽よりも深く濃く、世界を染め上げていった。




