第82話 バーサーカー ヴォルド(2)
刃がエレーヌの肩に向かって落ちる。
俺の手は届かない。レオンの剣は遅い。ガランの盾は半歩足りない。ノクトは石を握っていない。イリアは凍りついている。
終わった、と頭の中で誰かが囁いた。
その瞬間だった。
銀色の光が横から走った。
風よりも速く声よりも先に、エレーヌの前に突如、黒い長身が割り込んだ。バーサーカーの爪が叩きつけられたのは、エレーヌの首筋ではなかった。長槍の柄。受け止めた衝撃で、石畳が円形に一歩ぶんひしゃげる。
「ギデオン……っ」
ガランの声が空気を震わせた。
ギデオンはエレーヌの肩を片手で押し戻し、無言で槍を構え直した。その灰色の瞳には、夜の城門を閉ざしていた時の冷徹さも、書類を抱えて膝を折った時の絶望もなかった。あるのはただ、果たすべき職務だけだった。
「客人がたよ、下がられよ」
低く無駄のない声だった。
「ヴォルドは私の盟友です。十五年、肩を並べてまいりました」
槍の穂先がゆっくり持ち上がる。バーサーカーの縦長の瞳孔がギデオンを捉えた。何も映していなかったその瞳が。
「私の手で、止めて参ります」
バーサーカーが、ぐるりと首を傾けた。盟友という言葉も十五年という年月も、その瞳の縦の影は何ひとつ拾わなかった。ただ、新しい獲物が間合いに踏み込んできたというだけの認識だった。
最初に動いたのはバーサーカーだった。
地を蹴る音すらしなかった。一拍前まで五歩先にいた巨体が、次の瞬間ギデオンの胸元に到達していた。爪の薙ぎ払い。常人ならそこで終わっていた。
ギデオンの槍はその爪を下から弾き上げていた。同時に踏み込み、半身をひねり、銀色の穂先がバーサーカーの右腕の付け根に滑り込む。肉と腱を切り裂く音。続けて返しの一閃。腕が肘から先で地面に落ちた。
俺は息を呑んだ。
魔王軍幹部の槍術が、初めて間近で展開された。無駄がない。剣呑な突きでも華麗な薙ぎでもない。ただ、相手の動作が完了する一拍前に、すでに次の動作が始まっている。一流の武道家の動き。流れているのに、止まっていない。そして、ギデオンの技である予測が困難な位置移動。
落ちた腕が地面で痙攣した。
そして、繋がった。
地面に転がったままの右腕の断面から暗灰色の繊維が触手のように伸び、肩の側からも同じものが伸びてきた。両方が空中で絡み合い、骨と腱と皮膚を一秒で編み直していく。
「すまない、ヴォルド」
ギデオンが呟いた。
「お前の傷に私がもっと早く気づいていれば」
二撃目。今度は心臓。槍は深く突き入れられ、背中から銀色の穂先が顔を出した。バーサーカーの動きが一瞬止まる。
止まるだけだった。
突き入れられた穂先の周囲から、また暗灰色の繊維が湧き出した。槍を外側から包んでいく。ギデオンは即座に槍を引き抜いた。引き抜いた瞬間、穴は塞がっていた。
「化け物ではない」
ギデオンが誰にともなく言った。
「悪魔だ。心臓を貫いても首を落としても、こいつは戻ってくる」
俺の頭の中で、別種の警報が鳴った。
これは戦闘ではない。消耗戦ですらない。
傷を与えても相手のリソースは減らない。減るのはこちらの体力と精神力だけだ。前世風に言えば、ダメージを与えるたびに敵がHPを満タンまでヒールしてくる。それも一秒以内に。
つまりこの戦いは、ギデオンが先に倒れた瞬間に終わる。それまでにこちらは何ひとつ相手のリソースを削ることができない。
盤面がなかった。
「ゼン」
レオンが擦れた声で呼んだ。
「俺は何をすればいい」
俺は答えられなかった。
答える材料がなかった。
ギデオンの三撃目。脇腹。
ギデオンの四撃目。膝の腱。
ギデオンの五撃目。喉。
全部入った。全部塞がった。
それでもギデオンは止まらない。槍を引き、踏み込み、突き、薙ぎ、引き、また踏み込む。バーサーカーの巨体を一秒たりとも前進させない。あの間合いの内側にエレーヌを入れない。
「ヴォルド。お前が見た村の最後を、私は聞いてやれなかった」
槍の柄がぐっと握り直された。
「お前が三年、何を抑えて陛下に仕えてきたのか。一度も訊かなかった」
バーサーカーの爪がギデオンの肩を掠めた。銀色の皮膚に赤い線が一本走った。
「すまない」
また突き。また塞がる。
ギデオンの息が上がり始めていた。
ほんのわずか銀色の額に汗が浮かんでいる。それは肉体の疲労というよりも、答えのない問いを千回繰り返すような種類の疲弊だった。彼は十五年、ヴォルドに『すまない』と言うべきだったのだ。槍を交えながらでは、もう遅すぎた。
二十合を超えたあたりで、ギデオンの槍の軌道がほんの一拍だけ遅れた。
それをバーサーカーは見逃さなかった。
爪の薙ぎがギデオンの鎧を捉えた。鎧の表面が紙のように引き裂かれていく。続けてもう一閃。今度は太腿。銀色の肌から初めて深い血が噴き出した。
「ギデオン殿!」
ガランが叫んだ。
ギデオンは膝をつかなかった。
血を流したまま槍を立て、もう一度バーサーカーに向き直る。
だが、構えが先ほどより五センチ低かった。
その五センチに、十五年の盟友への詫びと、間に合わなかった三年が丸ごと載っていた。
そこでようやくレオンが動いた。
「ブレードスラッシュ!」
聖剣が縦に振り抜かれ、白い光の刃が宙を裂いて飛んだ。バーサーカーの背中にその光が直撃する。鎧ごと肉ごと背骨ごと、縦に断ち割った。
バーサーカーの巨体が前のめりに崩れかける。
崩れなかった。
断面からまた暗灰色の繊維が噴き出した。今度はこれまでで一番速かった。一秒ではない。半秒。脊椎と筋繊維が逆再生のように繋がり直し、バーサーカーの体は元の輪郭に戻った。
ただ、振り返りざまの一閃がギデオンを真横から打った。
ギデオンの体が宙に浮いた。
槍が彼の手から離れた。
槍が石畳に転がる金属音と、ギデオンの体が地面に叩きつけられる鈍い音はほぼ同時だった。
「ギデオン殿!」
ガランの声はもう叫びではなかった。喉から無理やり押し出された、形にならない音だった。
ギデオンは仰向けに倒れていた。胸甲は割れ、太腿の血だまりが石畳に広がっていく。彼はそれでも片手で槍を探していた。指先が二十センチ先の柄に届かない。
「……ヴォルド」
ギデオンの口から血と一緒に名前が漏れた。
「お前を止めてやれなかった」
その指が力なく石畳に落ちた。
バーサーカーはもうギデオンを見ていなかった。
縦長の瞳孔がゆっくりとエレーヌに戻った。
俺の足が痛む右脚を蹴って半歩前に出た。
革袋は空だった。
紙の剣はもうない。
それでも俺の番だった。




