第81話 バーサーカー ヴォルド(1)
ヴォルドの輪郭がぶれ始めた。
最初に変わったのは肌の色だった。穏やかな乳白色が内側から沈んでいく。煮詰めた血のような暗灰色。喉の表面に別の何かの呼吸が、皮膚を波打たせて走っていく。
「……三年間、待ち続けた日がやっときました」
声はもう二重でさえなかった。穏やかな声が剥がれ落ち、下に沈んでいた別の声だけが残った。低くて乾いていて、奇妙に礼儀正しい。それがよけいに悪い。
「申し訳申し上げる気は、ございません」
ヴォルドが口元だけで笑った。
「この日のために、抑えずに待っておりました。そちらから来てくれるとは……」
ヴォルドの背骨がごき、と音を立てて伸びた。外套の縫い目が肩、背、脇、と次々に裂けていく。骨格そのものが内側から組み直されていく。
「魔女殿」
ヴォルドは穏やかな笑みのままエレーヌを見据えた。瞳孔の縦の影が虹彩を完全に飲み込んだ。
「あなたが灰にした三歳の子供分から、お返しいたします。順番に丁寧に、ひと方ずつ。お逃げになっても構いません。必ず追いかけます」
それがヴォルドとしての最後の言葉だった。
俺の隣でイリアの足が、根を張ったように動かなくなった。指は祈りの形を組もうとして震えるだけで組めない。
「イリア!」
俺が呼んでも彼女は答えなかった。視線は俺でもヴォルドでもなく、もっと遠い場所を見ていた。
俺は瞬時に察した。イリアは以前のバーサーカーと対峙した孤児院、そしてラスの競技場の記憶に捉えられている。
俺は盤面を読もうとした。読もうとして失敗した。
理性のある敵なら動機を読める。優先順位を読める。次の一手の選択肢が三本くらいに絞れる。だがヴォルドだったものの選択肢はいま、ひとつしかなかった。「あれを殺す」。「あれ」とはエレーヌだ。「殺す」までの過程に戦術というものが入る余地がなかった。
俺の戦術知識がまったく刺さらない相手、勇者一行が一度も勝ったことがない相手。
レオンが聖剣の柄を握り直した。だが白い指の関節が震えていた。いくら斬っても倒せなかったという記憶。二度の敗北の記憶。
ガランが大盾を構えようとして肩の傷に呻いた。さきほどの戦闘で切られた肩は、もう本来の重さを支えられない。盾は構えたが、ヴォルドだったものの間合いに踏み込む足が半歩足りない。
「同胞よ!」
ノクトが叫んだ。
「俺は同じ魔族だ。戻れ、ヴォルド! 陛下の御前だぞ」
ヴォルドだったものの目がノクトを見た。ほんの一拍だけ。
何も映さなかった。魔族という単語も陛下という単語も、ノクトという存在さえ、虹彩の縦の影は何も拾わなかった。
ノクトの呼びかけが空気に吸われた。もはや人の心を持たない化け物に変わってしまった。
ヴォルドだったものがゆっくりとエレーヌを見据えた。
獣の唸りに似た長い低い息。一切の躊躇のない半歩の踏み込み。
エレーヌは動けなかった。
それは罪を告げられた者の動けなさだった。
膝が崩れているわけではない。意識がないわけでもない。彼女の脳はいま、はっきりと目の前の現実を理解していた。理解した上で、その現実から逃げる権利を自分自身に対して認めていなかった。
走れ、エレーヌ。
俺は叫ぼうとして声が出なかった。
走れ。生きろ。お前の三年は、お前を吊るすために生かされてきたんじゃない。
俺の足は痛む右脚で地面を蹴ろうとしていた。だが距離が遠かった。
ヴォルドだったものの指先の爪が伸びていく。爪自体が鋭い剣になっていく。。
それは剣ではなかったが、剣よりもずっと確実だった。
刀身の白さに夕陽が映って青く反射した。
ヴォルドだったバーサーカーの肩が、その刃をゆっくりと持ち上げた。
「エレーヌ!」
俺の喉からようやく彼女の名前が出た。
だがそれは警告に間に合う種類の声ではなかった。
レオンがようやく聖剣を抜いた。
抜いた瞬間にレオンの体が二歩遅れているのがわかった。剣を抜くまでの逡巡が、その二歩を奪っていた。
ガランの盾が半歩踏み込んだ。届かなかった。
俺の手がエレーヌに向かって伸びた。
伸びて、届かなかった。
イリアの足はまだ動いていなかった。
エレーヌは目を閉じなかった。
バーサーカーの刃が、エレーヌに向かって振り下ろされる。




