第80話 玉座への道
魔王城の塀に囲われた前庭。
長い歩道の両脇に整列する魔族の衛兵たちが、ギデオンが率いる一行を見て、一斉に武器を下ろし、深く頭を垂れた。
ゼンは最後尾を歩く。胸の中で渦巻く、女神の言葉『あの方を探してあげて』
恐らくは、前世のイルの事だと思う。魔王軍のどこかにいる可能性が高い。
歩道の奥、王城の扉が見えた。
「ここからは同行いたしません」
ギデオンが一礼し、踵を返す。
一行が扉に手を伸ばしかけたその時、背後から、穏やかな声がかけられた。振り返ると、がっちりとした魔族が立っていた。
「皆様、ようこそ。私はヴォルド。魔王陛下の側近を務めております」
柔らかな笑み、丁寧な辞儀。
だが、その視線がエレーヌの上で止まった瞬間、空気の温度が落ちた。
「お久しぶり、と申し上げるべきか。あなたは私を覚えておられないでしょうが。三年前にワイドランドの丘の上で、杖を構えた姿を見ました」
エレーヌの杖が、指から滑り落ちる。
ヴォルドの言葉は穏やかに続いた。
「ワイドランドもロングケープも、もともと我が陛下の村でした。獣人と人間と魔族が共に暮らす、陛下の理想を体現した、私たちの誇りでした。そう、かつての共生村を再現したのです。侵略など、ありませんでした」
エレーヌの三年間が、音もなく崩れていく。横で彼女の喉が小さく鳴ったのが聞こえた。
「魔女殿。あなたを動かした手を、私は知りたい。だがその前に、あなたを吊るさねば、私の村の死者が浮かばれぬ」
ヴォルドの肌の下で、何かが軋む音がした。
まずい。
俺の脳裏で瞬時に盤面が組み上がる。だがその盤面の上に駒が一つもなかった。
エレーヌは杖を拾えない。レオンの剣の柄に置かれた手は震え、抜くことができていない。ノクトは石礫を握ろうとして、ここが魔王城の前庭であることに気づき動きを止めた。イリアの加護の詠唱はまだ三秒先だ。ガランはもう戦えない。さきほどの戦闘で肩から血を流している。
そして俺。懐の革袋は空だった。ギデオンに突きつけた真実はすべて出し切った。長老の日誌もフローラ王女の手記も王国軍の極秘経費記録も。手元に残っているのは痛む右脚と、削り取られた精神力、そしてただの言葉だけだった。
撃て、と自分に命じる。ありったけの言葉で、撃て。
「ヴォルド殿」
声を出した。掠れていた。一歩前に出る。
「お話を伺いたい。彼女は王国に命令されて——」
「勇者殿」
ヴォルドの声が俺を遮った。穏やかなままだったが、底なしの冷たさがあった。
「『命令された』。よく伺う言葉ですな。人間という種族は、自らの手で何を焼こうと、最後は必ずその言葉を口になさる」
息を呑んだ。
「王国に命令された。神官に命令された。上司に命令された。誰かに命令された剣だった。なるほど。では、杖を握り、魔法を出したのは誰の手でしたか」
ヴォルドの視線がエレーヌに移った。
「魔女殿。あなたは三年前、ワイドランドとロングケープに太陽を落としましたね」
エレーヌの肩が大きく跳ねた。
太陽、という単語の選び方で、俺は理解した。エレーヌが三年前に放った広域爆破魔法を、こいつは目撃している。光ではなく熱として、皮膚で記憶している。これは伝聞の怒りじゃない。
「私はあの日、ワイドランドにおりました。陛下と共に数日の旅程でした。空が暗くなって暫く経った頃、突然、真昼になりました」
ヴォルドの口調はまだ穏やかだった。だが先ほどよりも一段、低くなっていた。
「ごく普通に生活していた人達でした。井戸端に三歳の人間の子供がおりました。母親に抱き上げられて守られていましたが、母親ごと炭になりました。」
エレーヌの呼吸が止まっているのが、横にいる俺にもわかった。
「ワイドランドで千二百名。ロングケープで八百名。合わせて二千名。これは私たちが灰の中から名前を拾い直した数です。拾えなかった者は含まれておりません。家族ごと灰になった家は、誰が住んでいたか思い出してくれる人間が、村の外に誰もおりませんでした」
二千。
その数字を、俺は前世のニュースで知っている種類の数字として頭の中で展開してしまった。中規模の災害一回分。大学の学生数、大企業本社の社員数。脳が勝手に置き換えて理解しようとする。それくらいの、数字だ。
そして、その数字を目の前で頷いてしまった魔導士が、俺の隣にいる。
ヴォルドの瞼がゆっくり上がった。
「『侵略者の拠点を潰した』。そう、お考えでしたか?」
エレーヌの首がわずかに縦に動いた。動いてしまった。
動かすな、エレーヌ。声に出せない警告が俺の喉で詰まった。
ヴォルドの肩が内側から押されるようにぴくりと跳ねた。仕立てのいい外套の縫い目が見えない圧力に軋んだ。
「左様で、ございますか」
声音に冷たい笑みが混じった。
「拠点。なるほど。子を抱いた母親が井戸端で水を汲んでおりました。あれは拠点でしたか。三歳の子供は何の拠点でしたか。指揮系統の長でしたか、それとも兵站の要でしたか」
エレーヌの体が凍り付いた。
「お答えください、魔女殿。あなたが灰にした三歳の子供は、どこの、何の、拠点でしたか」
「ヴォルド殿」
レオンがようやく声を出した。剣の柄を握り直す。
「言いすぎだ。エレーヌは命令されただけだ。確かめる手段は彼女にはなかった——」
よせ、レオン。
俺の警告は、間に合わなかった。ヴォルドの視線がレオンに動いた。今度はゆっくりではなかった。
「勇者殿。あなたの剣は」
「……何だと?」
「あなたの剣は、これまで何を斬ってこられました」
レオンの口が止まった。
「あなたは王国の聖騎士です。陛下のもとへ向かう道中、魔族をどれだけ斬ってこられましたか。その魔族たちが何者であったか、一人ずつ、確認なさいましたか。あなたの剣もまた、誰かに『この道を進めば敵がいる』と教えられて振るわれたものではありませんか」
「俺は——」
レオンの顔から血が引いた。それは恐怖の色ではなかった。怒りに向かう前の、凍結の色だった。
「あなた方の『命令された』は、便利な毛布のようなものですな」
ヴォルドの口調はもう穏やかではなかった。皮を一枚剥がしたような、固い声だった。
「冷えてくると、皆さまそれを引き寄せて肩までお掛けになる。下の血は、毛布のおかげで見えなくなる」
ガランが低く唸った。
「ヴォルド殿。それは勇者殿への侮辱だ」
「侮辱?」
ヴォルドの口の端がわずかに歪んだ。
「侮辱は、皆さまが一度も二千名の名を聞こうとなさらなかったことです。私はいま、申し上げました。千二百と八百と。皆さまの中に、その内訳をお訊ねになった方は、おられましたか。魔族だけではなく、獣人も人間もいたのですよ」
誰も答えられなかった。
俺もだ。確かに俺は、その八百と千二百を、ただの数字として処理した。本社の社員数、と。
「魔女殿」
ヴォルドはエレーヌに向き直った。
「陛下は温和の方です。だがそれは陛下のご性質であって、ご義務ではない。二千名の灰の前では、陛下とて、温和であるか、あらぬかは、別の話でございます」
エレーヌの膝がわずかに崩れた。
「私は陛下の側近として五年お仕えしてまいりました。陛下が下した死刑判決を、私はこの目で三回、見届けました。陛下は静かに、丁寧に、しかし容赦なくお下しになります。あなたの場合、四回目になる可能性は、低くないと私は見ております」
死刑、四回。
俺の頭の中で別の警報が鳴った。それは魔王に対する、最初の警報だった。
俺はこれまで、魔王を『対話可能な人物』と見積もっていた。だがいま、その見積もりに修正が入った。三回、静かに、丁寧に、人を吊るしている王。
「ヴォルド殿」
俺は割って入った。
「彼女を玉座の間まで連れて行かせてください。陛下のご判断を、私たちは受け入れます。だがここで、あなたの判断で吊るすことだけは、お待ちいただきたい」
ヴォルドが俺を見た。長い、冷たい視線だった。
「勇者殿。あなたは大変、丁寧な方だ。だが、お伝えしておきます。私が彼女をここで吊るすか、玉座の間でお引き渡しするか。その差は、陛下にとって、それほど大きくはございません。陛下は、私の判断を、咎められない」
その一言が、俺の胸を冷やした。
陛下は咎めない。ヴォルドが目の前で人を裂いても、魔王はそれを罰しない。それが、この国の理だった。
(女神よ。あんたが俺に探させようとしている人は、本当に、この扉の向こうにいるのか)
ヴォルドの肩が内側から、もう一度押された。今度は明確に、外套の右肩の縫い目がぱつ、と弾けた。
「申し訳ございません」
ヴォルドが口元だけで笑った。
「私の中の血が急いでおります。できるだけ冷静でいようと思ったのですが、無理そうです」
ヴォルドの瞳孔の奥で何かがぐらりと揺れた。そこには抵抗の色がなかった。むしろ歓迎の色があった。
こいつは、自分の中の獣を、止める気がない。
「勇者殿。逃げようとはなさらないでください。逃げれば、私はあなた方を扉に届く前に追います。それは、私にとって、もはや選ばれた行いではない」
エレーヌが震える声で口を開いた。
ヴォルドの口の端が上がった。
その一言には、何の慰めもなかった。赦しもなかった。ただ、判決の正当化があった。
「総員、扉へ」
俺は鋭く指示を出した。
「レオン、エレーヌを支えろ。ガラン、ノクト、イリアは扉へ」
ガランの腕がエレーヌの腰を支え、半ば抱えるようにして扉へ向かう。痛む右脚を引きずって俺は最後尾につく。
扉まで五歩。
「勇者殿」
ヴォルドの声が追ってきた。もう一段、低くなっていた。
「申し上げましたでしょう。扉に届く前に、追います」
扉まで三歩。
その三歩を、俺たちは踏むことができなかった。
背後で布が大きく裂ける音がした。ヴォルドの外套が内側からはち切れたのだ。
俺は振り返ってしまった。
そこにはまだヴォルドが立っていた。穏やかな表情のまま、丁寧な姿勢のまま。だがその外套の下から覗く肌は、もはや人のそれではなかった。瞳孔の奥に縦の影が生まれかけていた。口元にはほんの少し、笑みが残っていた。
「私の同胞二千名分の挨拶を、これから、お返しいたします」
そして、その頭が上がりきる前に。
ヴォルドの喉から、人のものではない、低い、長い、唸り声が漏れ始めた。




