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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第5章 魔王城

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第79話 魔王軍幹部ギデオン(4)

 ギデオンの槍の切っ先は、ガランの喉元でぴたりと止まっていた。

 皮膚一枚弾ければ赤いものが溢れる距離。夕暮れの残光が、石畳の凹凸に薄暗い影を落としている。誰も動けない。動けば、その瞬間に何かが決壊する。ノクトの手は石礫のポーチから離れ、エレーヌの杖先で狂いかけていた魔力も消えていた。レオンの聖剣も、鞘の奥で息を潜めている。


 上着の内側、肋骨のあたりに革袋の重みが居座っている。この静寂を作ったのは、ガランだ。十五年凝り固まっていた重荷を、彼は今、石畳の上に吐き出したばかりだった。あの告白は二度は繰り返せない。彼は身体を削って役目を全うしたんだ。

 だったら、ここから先は俺の番だ。元コンサルタントなんて肩書きはこの世界じゃ役に立たないけれど。数字じゃ割り切れない泥臭い交渉なら、前世で嫌というほど叩き込まれた。


 右脚にぐっと体重を乗せる。焼かれた皮膚が、ドクドクと脈打ちを返した。一歩、銀色の刃に向かって踏み出す。視界の端がチカチカと霞んで、槍先が揺れて見えた。


「将軍殿」

 声を絞ると、喉の奥で火傷の痕が軋む。


「私は今、貴方の刃の前に無防備に立っている。これを読んですべてを信じろとは言いません。ですが――耳を傾けることくらいは、できるはずだ」


 ギデオンの凍りついた瞳が、ゆっくりと俺を捉えた。槍を握る指にじわりと力がこもる。けれど、刃は振り下ろされなかった。繋ぎ止めた、この数秒。それで十分だ。

 上着の内側から、三組の紙束を引き出す。共生村『グランドール』長老の日誌。フローラ殿下の手記。そして、あの夜について両国が都合よく書き換えた公的記録の写し。指先が、自覚以上に細かく震えていた。


 最初に、古びた長老の日誌を開く。最後の三頁。

「魔導歴四八二年第八月十一日。見慣れぬ獣人の一団、十五名。難民として、保護を求めてきた。長旅で消耗が激しく、子供も含まれている」


頁を捲る。

「同十二日。客人がたは、よく働かれる。井戸の修繕を半日で終わらせた。村の子らとも自然に馴染んでいる。明日、長老会で受け入れを正式に議論する」


もう一枚捲ろうとして、指が白紙の境界で止まる。


「第八月十三日。長老会は開かれていない。なぜなら、その夜のうちに、村が消えたからだ」


次に、フローラ殿下の手記を広げた。


「フローラ・グランゼル殿下。国王陛下の御息女、十六歳。『呪いの姫』と呼ばれ、王宮の奥底に幽閉同然に育った方です。殿下は、あの狭い塀の中でご自分にできる戦いをなさった。図書館で蔵書印の押された資料を、一字一字書き写された。私が王都を追われた日、殿下はそれを泥まみれの私の掌に押しつけてくださった」


手記の中ほどを開く。几帳面な筆跡で、二行だけが残されていた。

 『移送費。人員五十名分。行き先、非公開』」

 『難民受け入れ工作費、三千金貨』」


 ギデオンの槍の先が、わずかに下がった。


「十五年前の王国軍主計部の極秘経費記録です。日付は、長老の日誌が途絶える一週間前から、村が焼けた翌日まで」


 革袋の口を緩める。


「五十名分の移送費。だが、難民として村に入ったのは、日誌のとおり十五名。残りの三十五名は、どこへ消えた」


 ギデオンの喉が小さく上下した。


「難民受け入れ工作費。三ヶ月かけて辿り着いた意味があります。これは、流れてきた難民を『受け入れる』ための金じゃない。こちらから難民を送り込み、誰かに『受け入れさせる』ための資金だ。三千金貨は、獣人の衣服を纏い、難民のふりをして村に入った、十五人への報酬」


 槍を握る指から、一本ずつ緊張が抜けていく。


「残りの三十五名は、王国軍の特殊部隊だ。手引きされた十五人が二日かけて村の構造を調べ上げ、深夜、内側から城門の鍵を開けた。そして、牙を剥いた獣人と特殊部隊が、無抵抗の住人を、一人残らずなぶり殺した」


 最後に、二枚の薄っぺらい紙片を重ねる。


「同じ夜の惨劇について、二国が残した公的記録です。人間側は『偽装難民の侵入による襲撃』。魔族側は『獣人による襲撃』。それだけ。たった一行だ」


「人間側は『獣人』の種族名を削り、魔族側は『偽装』の二文字を握りつぶした。同じ事件の表と裏に、それぞれ都合のいい嘘を貼り付けた。短い記録ほど、悪意を隠すには好都合だからな」


「……っ」

 ガランの口から、押し殺した呻きが漏れた。大盾の取っ手を握る指は、爪が刻印に食い込むほど強張っていた。

 もう一度、ギデオンの灰色の瞳をまっすぐに見据える。


「将軍殿。獣人がグランドールにいなかった、なんて綺麗な嘘は言いません。十五人は、確かにそこにいた。だが、彼らは王国の金で魂を売った裏切り者だ。村を地獄に変えた本当の元凶は、開かれた門から深夜に雪崩れ込んだ、王国軍の特殊部隊だ」


 ギデオンの目が見開かれた。そこにはもう激情の炎はなかった。ようやく十五年待ち続けた答えに手を伸ばしてしまった男の、酷く静かな絶望だった。

 夕暮れの風が、ぴたりと止んだ。槍を握る両手は、もう震えてさえいない。


「……書類を、寄越せ」


 地を這うような声だった。最初の冷徹な拒絶とは、中身がまるで違う。憎しみに満ちていた声は、今はただ空っぽだった。三組の紙束を、銀色の手にそっと委ねる。ギデオンは背を向け、槍を石畳に突き立てたまま、書類を胸に抱えて衛兵詰所へと歩いていった。ギィ、と重い扉が閉まる音が、夜の底に沈む。


「……軍師殿」


 沈黙を破ったのはレオンだった。聖剣の柄に手をかけながら、それを抜く気配はない。


「これで、勝ち、なのか」

「いや」


 首を振る。

「勝ちじゃない。あの男が自分の十五年を絞め殺すか、抱えて生きるか、それを決める長い夜が始まっただけだ」


 ガランが大盾をどさりと地面に下ろし、その上に崩れるように座り込んだ。泣くための気力さえ、もう彼には残っていない。


 イリアは頷き、ガランの隣に腰を下ろした。細い指がガランの左肩に触れる。彼女の手は、誰かの痛みを癒やすとき、いつもその苦痛の何割かを自分の身体に移し替えているような、切ない形をしていた。

 ノクトは城壁の上に顔を出した月を見上げていた。


「ゼン。俺、グランドールの噂はおとぎ話だと思ってた。獣人と人間と魔族が同じ井戸で笑い合うなんて、絵本の話だって」

「……」

「本当にあったんだな。短くても、確かに」


 応える言葉が出なかった。エレーヌは岩柱の影に佇んでいた。視線は靴先に落ちたまま動かない。鋭い勘が、何か決定的な違和感を捉えた気配があった。だが、彼女自身、まだその引っかかりに気づいていない。

 後で訊かなければならない。今夜じゃない。

 夜は、果てしなく長かった。


 夜半過ぎ、詰所の灯りがふっと消えた。しばらくして、また点る。霞む視界で、その明滅をただ見つめる。十五年支えだった憎悪が見当違いだと知らされ、呪うべき黒幕が別にいると突きつけられたとき、人の心はどう壊れ、どう繋ぎ止めるのか。答えなんて、出ない。

 カチャリ、と詰所の扉が開いた。


 姿を現したギデオンの皮膚は、銀色というよりまるで燃え尽きた灰のようだった。一晩で、彼の中の何かが完全に焼き尽くされたのだと、鈍くなった輪郭が物語っている。何度も繰られ、折り目を正された紙束を、彼は抱えていた。

 ギデオンはまっすぐ俺の前まで歩み、静かにその場で膝を折った。誰も、何も言えなかった。彼の沈黙の前に、言葉を挟む余地などどこにもない。

 やがて、ギデオンはゆっくりと頭を上げた。


「客人がたよ。我が陛下が、中でお待ちです」


 その声は昨夕よりずっと低く、どこまでも澄んでいた。彼は立ち上がり、自らの両腕を巨大な黒い石門にかける。ズズ、と重苦しい金属の軋みと、石が石を削る地鳴りが、朝の冷たい空気に染み渡っていく。

 十五年、外を拒絶し続けてきた魔王城の城門が、今、初めて奥底を曝け出した。扉の向こうに伸びていたのは、暗く長い歩道。


 革袋の中はもう空っぽ。三組の紙束は、今、ギデオンの胸の中にある。紙の剣は確かに振るわれた。けれど、ここから先で振るうべきものは、もう、そんな生易しいものじゃない。

 未だに鈍く痛む右脚に力を込め、後ろに控える仲間たちへ、静かに目で合図を送る。


 一歩、足を踏み出した。

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