第78話 魔王軍幹部ギデオン(3)
俺が一歩、前に出た。だが、その肩を後ろから強い力で押し留められる。
振り返ると、そこにいたのはガランだった。
彼は愛用の大盾を、足元の石畳へと静かに置いた。国王から直々に授かったという、アダマンタイト製の国宝。戦場ではあれほど頼もしかった盾が、今はただの重い金属の塊のように地面に転がっている。
「ゼン。ここから先は、俺に譲ってくれないか」
ガランの声は低く、そして微かに震えていた。
俺は霞む視界を必死に凝らし、その横顔を見つめた。盾を構えながら、なぜガランはギデオンをあんなにも悲しげな目で見つめていたのか。元コンサルタントとしての観察眼が、彼の口元の歪みから、一つの泥臭い答えを導き出していく。
――そうか。そういうことだったのか。
俺はゆっくりと一歩、後ろに退いた。胸のポケットに入れたフローラの手記が、心なしか軽くなったような気がした。この手帳を突きつけるのは、今じゃない。もっと後だ。
ガランがギデオンへと歩み寄る。大盾も持たず、武器すら構えず、ただ無防備な一人の獣人として。対するギデオンの二本の腕には、まだ槍と湾曲刀が握られたままだ。けれど、おかしい。あの時間を飛び越える瞬間移動。憎悪だけを燃料にして駆動していたはずのその能力の揺らぎが、ガランが近づくにつれて、ぴたりと止まっていた。
やっぱり、感情と能力が直結している。冷徹な計算通りのはずなのに、何故か胸のざわつきが収まらない。
「将軍殿」
ガランの声には、もう戦士としての鋭さはなかった。
「お前が獣人を憎む理由は、共生村で仲間を失ったからだろう」
ギデオンの顔が、一瞬で怒りに染まる。
「貴様らに……何がわかる!」
突き出された槍の切っ先が、ガランの胸元を捉える。だけど、その動きは素人目の俺から見ても明らかに鈍かった。ガランは瞬き一つせず、ただお腹の底から絞り出すような声で、言葉を紡ぐ。
「あの村の名を、十五年もの間、怖くて口にできなかった男が……ここにもう一人いる」
その言葉が、重く冷たい石畳の上にぽつりと落ちた。
後ろで、エレーヌが息を呑む気配がした。イリアの唇からも、小さな掠れた音が漏れる。振り返らなくても分かった。視界の端に映るレオンの手が、聖剣の柄の上でガクガクと震えている。あいつ、思い出しているんだ。グランドールの廃墟で、ガランがただ無言で大盾を置き、見知らぬ死者たちへ誰よりも深く、長く頭を垂れていたあの異様な光景を。
俺自身の記憶も、あの日の光景へと引き戻されていた。
あの時感じた、胸の奥の小さなトゲ。ただの通りすがりの死者に対するものにしては、ガランの祈りは深すぎた。あの静寂の理由が、今、目の前で剥き出しにされていく。
「俺はエルナ郷を出た。妹を亡くして、自暴自棄になっていた頃だ。三年、あてもなく放浪した。誰も俺を知らない街を歩き、日雇いの仕事をして、夜が来るたびに自分の無力さを呪った」
ガランの太い指が、無意識に左肩の古傷に触れる。
「三年目の終わりに、グランドールへ辿り着いた。十六年前のことだ。種族の垣根なく、共に生きよう。そう刻まれた集会所の前で、人間の女が俺に冷たい水を一杯くれた。獣人だからって誰も怯えなかった。井戸の側で、子供たちが俺の毛皮を珍しがって、笑いかけてくれたんだ」
ガランの目元が、じわりと濡れていく。
「俺はその村に一年いた。……俺のしがない人生の中で、一番、穏やかな日々だった」
後ろで、ノクトが小さく声を詰まらせた。
ガランは構わず、昔話を続ける。
「そこで、一人の獣人のガキに会った。俺より十も若かった。剣の握り方も知らない、ただの生意気な子供だ。両親はいなくて、村の年寄りが交代で面倒を見ていた」
「そのガキが、なぜか俺の足元にまとわりついて離れなかった。獣人の大人が、珍しかったんだろうな。俺は何度も突き放した。どうせ俺はまたすぐにいなくなるって。だけど、あいつは頑固だった」
ガランの視線が、どこか遠い過去を彷徨う。
「半年も経つ頃には、俺が剣の素振りを教えていた。手の位置、踏み込みの足、呼吸のタイミング。あいつは筋がよかった。……妹なんかより、ずっと、覚えが早かったんだ」
妹より、というその一言に、俺の心臓がどくりと跳ねた。ガラン自身、口にしてからハッとしたように唇を噛む。二十年前に失った最愛の妹。けれど、その妹よりも深く心に住み着いてしまった他人の子供がいた。それを誰にも言えず、ずっと胸に閉じ込めて生きてきたのだ。
俺の胸の奥が、ギリギリと痛む。あの岩山の頂で竜に焼かれた傷とは違う、もっと深い場所が疼く。前世のイル記憶。一年前、突然途切れてしまったあの声。形は違えど、ガランが今ここで吐き出しているドロドロとした未練は、俺が抱え続けているものと、痛いほど似ていた。
「襲撃の夜、俺は村にいなかった」
ガランの声が、急に温度を失う。
「傭兵の仕事で東の街へ行っていた。一週間後に戻ったら……村は、消えていた」
ぽつり、と石畳に何かが滴り、黒いシミを作った。汗なんかじゃない。俺にはそれが、何なのか分かってしまった。
「あいつの遺体は、村の外れで見つかった。俺は、獣人の偽装難民があの村を襲って、あいつを殺したんだと知った。誰にも言えなかった。あいつの名前を呼んだら、あいつが本当に死んだことを認めなきゃいけない気がして。だから、十五年黙り続けた」
ギデオンの、槍を握る右手の力がわずかに抜けた。
俺はその一瞬を見逃さなかった。銀色の手首に走る血管が、目に見えて小刻みに震えている。憎悪という名の駆動エネルギーが、確実に枯渇しかけていた。
「……貴様、何を、言っている」
ギデオンの声から、あの不気味な平坦さが消えていた。掠れて、ひび割れて、まるで十五年ぶりに自分の喉を使って喋ったかのような、生々しい人間の声。
確信が持てた。あれは『魔王軍幹部』の台詞じゃない。あの夜、大切な場所を奪われた瞬間に、絶望のまま凍りついてしまった、ただの子供の悲鳴だ。
「将軍殿」
ガランは、ただ静かに答えた。
「お前だけが、地獄にいたわけじゃない」
不意に、風が止んだ。
「あそこで流された血は、魔族のものだけじゃないんだ。獣人も、人間も、みんな同じ夜に、同じ奴らの手で殺された。お前が憎んだ相手と、俺が憎んだ相手は……もしかしたら同じで、そして、どちらも間違っていたのかもしれない」
ギデオンの身体を覆っていた空間の歪みが、完全に消滅する。彼の瞳は今、ガランの顔だけをじっと見つめていた。
目の前にいるのは、もう世界の敵ではない。十五年間、暗い檻に閉じ込められていた少年が、今、必死に外へ出ようともがいている。これを俺の勝利、なんて綺麗な言葉で片付けるには、あまりにも泥臭く、重すぎる真実が、そこに転がっていた。
能力は止まった。完全に、止まっている。
けれど、ここからが本当の瀬戸際だ。
ギデオンの心が、まだ現実を拒絶している。人生の拠り所だった『獣人への憎悪』という強固な柱が、目の前の男によって無惨に引き抜かれようとしているのだ。それが崩れたら、自分の十五年は一体何だったのか。彼の本能が、崩壊の恐怖に悲鳴を上げているのが分かった。
「嘘だ……」
ギデオンの声が、激しく震えた。
「獣人が、獣人を悼むはずがない。お前は私を揺さぶるために、そんな精巧な嘘を用意してきたんだ。騙されるものか!」
再び、槍が鳴る。
二本の腕が、ガランの首と胸元を容赦なく引き裂く軌道を描く。空間跳躍の異能はない。けれど、鍛え上げられた純粋な暴力が、ガランに襲いかかる。
それでも、ガランは一歩も動かなかった。
盾は足元に転がしたままで、剣を抜く素振りすら見せない。ただ、両腕をほんの少しだけ広げて、無防備な胸を晒した。その目には、死への恐怖なんて微塵もなかった。ただ、十五年分の呪縛を吐き出した男の、奇妙に澄んだ覚悟だけがあった。
俺の視界の中で、その光景が酷くゆっくりと流れていく。
――ガラン、まだだ。動くな。あと一拍。あと一拍で、あいつの刃は止まる。
俺は懐の革袋に触れ、フローラの手記の感触を確かめた。今これを投げ入れても、狂乱したギデオンに切り裂かれるだけだ。タイミングは、今じゃない。
ギデオンの槍の切っ先が、ガランの喉元、皮膚が裂ける寸前の距離まで迫る。
俺は霞む視界の中で、右手をじわりと外套の内側へと滑り込ませた。
革袋の紐に、指をかける。
最近、PVが増えてまいりました。
読んでいただき、ありがとうございます。
いよいよ第3章も大詰めです。この流れで激動の第4章に突入します。
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