第77話 魔王軍幹部ギデオン(2)
第77話 魔王軍幹部ギデオン(2)
最初の二十秒で、俺たちは悟った。これは簡単に勝てる戦いではない、と。
ギデオンの巨体が視界から消え、エレーヌが「左!」と叫ぶ。その声に反射してレオンが剣を振るったが、その軌道が空を切るより早く、ギデオンの巨体はもう右側に立っていた。湾曲した刀身が横に薙がれ、聖剣がそれを受け止めた瞬間、レオンの身体は五メートル後方の岩柱まで吹き飛ばされていた。ズゴン、と岩が砕ける鈍い音が、夕暮れの石畳に響き渡る。
「テレポート、なの?」
エレーヌの叫びには、訓練された魔導士特有の計算と、剥き出しの恐怖が同居していた。彼女の杖の先には、すでに火炎弾が編まれていたが、撃ち出すべき対象が、そこにはいなかった。
「こんな続けざまの空間転移、見たことないわよ」
ギデオンの巨体が、その言葉を遮るように突然五メートル左にずれた。次の瞬間、そこからまた三メートル右に。慣性を完全に無視した、超短距離の瞬間移動。あいつは最初から、レオンの間合いを「踏んで」いないのだ。
エレーヌの魔法計算は、対象の位置と速度ベクトルを入力する形式で構築されている。だが、ギデオンには移動の経過が存在しない。『現在位置』と『次の位置』だけがあり、その間が欠落している。彼女の計算は、入力の段階ですでに破綻していた。
「ゼンさん、 あの動きは?」
イリアの悲鳴に近い声が、俺の背後から飛んだ。
だが俺は、眉一つ動かさず、ギデオンの動きをただ目で追っていた。
俺の脳内で、その現象は、別の何かとして処理され始めていた。霞んだ右目の奥に、別の世界の光景が、薄く重なる。前世の暗い部屋のモニター、深夜のオンラインゲーム、見知らぬ大陸の見知らぬ仲間たちと夜ごと挑んだ、何百回ものレイド戦。
「ラグだ」
俺は低く呟いた。
「極端なラグ。コマ落ち。回線の悪いプレイヤーがワープして見える、あの現象と同じだ」
レオンが、岩柱の影から這い出しながら振り返った。
「軍師殿、何を?」
「説明している暇はない 」
俺の声には、岩山の頂で四人の身体を動かしたあの硬度が、戻っていた。
前世のゲームで、何千時間も対戦してきた経験が、俺の身体には染みついている。回線の悪い相手は、こちらの予測を裏切る位置に、突然、現れる。だが、それでも勝てるプレイヤーはいた。なぜか。彼らは「相手の現在位置」を撃たない。『相手が次に現れる確率の高い位置』を、先に塞ぐのだ。
本来移動するはずの軌跡を、頭の中で点で繋いだ。五メートル左、三メートル右、ガランの真横。三点で、すでに一つの傾向が見えていた。あいつの転移は、自由じゃない。ギデオンは時間を飛ばしているんだ。未来に移動する場所にしか飛べない。そして、あいつは常に『攻撃の射程に入る位置』を選ぶ。つまり選択肢は、有限だ。
「エレーヌ」
俺の呼びかけに、彼女は杖を握り直した。
「対象位置で計算するな。あいつの『次に現れそうな位置』に、予め魔法を置け。当たらなくていい、退路を塞ぐだけでいい」
「置く?」
エレーヌの目が、わずかに広がった。
「攻撃用じゃなく、結界として使え。氷壁でいい、お前の精密さなら一秒で立てられる。あいつが瞬間移動した先で、選択肢が一つずつ削られる盤面を作る。座標は、俺が指示する」
エレーヌの頭上で、岩山の頂で生まれかけた何かが、戻った。
「了解。座標を指定して」
「ガランの右後方、三メートル。今すぐだ」
エレーヌの杖の先で青白い光が一瞬で凝集し、薄い氷の壁が空中に立ち上がった。攻撃の力など、籠っていない。ただ薄く、硬く、そこに『存在する』ためだけの結界。その直後、ギデオンが瞬間移動した——ガランの右後方、三メートル。寸分違わぬ、俺の予測通りの位置。ギデオンの背中が、エレーヌの氷壁に、ぶつかった。
「ウッ!」
ギデオンの口から、初めて戦闘以外の声が漏れた。それは驚愕に聞こえた。あいつの移動は確かに瞬間移動に見えるが、俺たちにそう見えるだけで、実際には移動している。現実的な制約は、持っていたのだ。
「エレーヌ、続けろ! 次はガランの左前、二メートル! 同時にレオンの背後にも一枚!」
「了解!」
二枚目、三枚目の氷壁が、俺の指示する座標に立ち上がっていく。ギデオンが瞬間移動するたびに、あいつの選択肢が一つずつ削られた。あいつは次第に、俺が『置きたい場所』へと、追い込まれていった。
レオンが、初めて、聖剣を構え直した。
「軍師殿、これは」
「まだ攻めるな。お前の役割は、奴の視線をガランから外させ続けることだ。一瞬でいい、奴の意識をお前に向けろ。深追いするな」
「了解!」
レオンが踏み込み、聖剣の白光がギデオンの視界の左端を掠める。ギデオンの両眼が瞬間的にレオンを捉えた。その隙にガランが大盾を立て直し、レオンが間合いを切って後退。
ノクトの石礫がギデオンの瞬間移動の着地点に先回りで投擲され、足元を乱す。
イリアの加護の光が、ガランの耐久力を上げる。戦況は勝利には程遠かった。だが、致命の一撃を回避し続ける。その盤面だけは、俺の手によって組み上がっていた。
だが、俺の集中力が奪われていく。岩山の頂で半身を焼かれた後遺症は、まだ抜け切っていない。視界の周辺が、また、霞み始めた。鼻血が、一筋、垂れるのがわかった。それでも、俺の声は、止まらなかった。
「エレーヌ、四枚目、ガランの真上!」
「ノクト、奴の利き腕側に礫を集中!」
「イリア、加護をレオンに移せ!」
ギデオンの腕は、それでも、規格外だった。瞬間移動の自由を奪われたぶん、あいつはその力を、腕の速度に転嫁していた。ガランは大盾以外にも攻撃を受けていた。イリアの加護で守られているが、ガランの呼吸は荒くなっている。
ガランは、ギデオンを睨んではいなかった。盾の上から見えるギデオンの顔。その二つの瞳に宿る憎悪の色を、ガランは、奇妙なほど悲しげな目で、見つめ続けていた。
俺は、その横顔を、視界の端で捉えていた。岩山の頂で、俺が読み切れなかったもの。ガランの目の震え。
〈お前、何を、知っている〉
その疑問符は、まだ、俺の脳裏に、灯ったままだった。
「ウゥッ!」
ついに、ガランが直撃を受けた。
俺は、その声を聞いた。それから、霞んだ視界の中で、しばらく、目を閉じた。
岩山の頂で組んだ盤面。あの時、四人を『一つの生き物』として動かす盤面。今日の盤面は、その延長ではない。延長では、足りない。今日、勝つために必要なのは、剣でも、魔法でも、石礫でも、加護でもない。懐の革袋の中で、フローラの手記が、肋骨の上で、わずかに鳴った気がした。
「ガラン!」
俺は、目を開けた。
「もう、十分耐えてくれた。次は俺の番だ」
ガランの大盾が、もう一度、ギデオンの一撃を受け止めた。表面の刻印が、白く、燃え尽きた。
俺は、一歩、前に出た。




