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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第5章 魔王城

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第76話 魔王軍幹部ギデオン(1)

 魔王城は、俺が想像していたものとはまるで違っていた。

 絵物語に描かれる魔王城は、鋭い尖塔を空に突き刺し、紅蓮の炎で縁取られているのが常だ。俺の前世の知識でも、王都で叩き込まれた教義でも、その姿は同じだった。


 だが、目の前にそびえる本物の城は、ただの巨大な箱。この世界のどの建物とも違っていた。

 黒い石を積み重ねた巨大な直方体。一切の装飾を排した城壁が、ほとんど神殿のように天を支えている。その手前に二重の塀で囲われた前庭があり、その入口に一対の門が据えられていた。鉄ではない。黒い、磨かれた石の門だった。重く、無口で、揺るがない。


 俺は馬車から降りた。

 右脚に体重を乗せた瞬間、火傷の痕が皮膚の下で鈍く脈打つ。岩山の頂で岩で足をつぶされかけ、半身を焼かれてから二十日、まだ歩く度に痛みは内側から這い上がってくる。イリアの治癒が間に合わなければ、俺はここに立てなかった。

 レオンとガランが周りを警戒している。エレーヌ、イリア、ノクトは無言で馬車から降り、それぞれの得物を改めて手にした。誰も口を開かない。王都を発った時に交わされていた軽口は、もうこの一行には残っていなかった。


 俺は門の前に一人の影を見た。

 身の丈二メートル。肌は鋼鉄を打ち延ばしたような銀色。頭部からは二本の角が真っ直ぐ天を突き、その奥の二つの瞳は、磨き上げた黒曜石のような冷たさを湛えている。


 魔王軍幹部、《不落のギデオン》将軍。

 間違いない。エルバラの長老の言ったとおりの姿だ。

 彼は武器を抜いていなかった。長大な槍を一本、足元の石畳に突き立て、その柄に両手を添えたまま、まるで番人の彫像のように、ただそこに立っていた。

 エレーヌが俺の背後で短く息を呑む音が聞こえ、ノクトの足音が半歩後ろへ下がった。


 俺は外套の内側に縫い込んだ革袋――その中の三点の書類の重みを、肋骨の上で確かめた。フローラの手記、共生村グランドール長老の日誌、王国軍の経費記録。十五年の嘘を解く、三枚の紙。


 剣で勝つ盤面ではない。

「進め。ただしゆっくり。武器に手をかけるな」

 俺は静かに言った。

 レオンがわずかに頷いた。彼の右手が聖剣の柄からゆっくりと離れていく。王都を発った時のレオンなら、絶対にしなかった動作だった。


 一行はギデオンの十五歩前で足を止めた。

 ギデオンの二つの瞳はまだ動かない。低く、地を傷つけるような声が、石畳を伝って届いた。


「人間どもよ。我らが掟は、汝らも聞き及んでおろう。攻めるな、まず話せ……」

 槍の柄を握る両手に力は入っていなかった。

「名乗れ。何用でここに来た」


 レオンが一歩、前に出た。彼の左手は剣の柄に添えられたままだが、右手は広く開かれ、敵意のない掌が宵闇の中で薄く光っている。

「我ら、人間勇者一行と、その同行者。代表、勇者レオン・グランハート。竜の首を持参し、魔王イルミナ陛下との、対話を求めて参りました」


「対話」

 ギデオンの口の中で、その単語が二度繰り返された。地下水脈を流れる水のように低く。

「ほう。聖剣を腰に下げた勇者が、対話と申すか」

「聖剣は抜きません。もし、抜く必要のない盤面が、ここで成立するならば」


 俺の目がわずかに動いた。「抜く必要のない盤面」……それは、俺が旅の間中、レオンの中に植え付けようとしてきた言葉だった。今、それがレオン自身の口から、独立した一文として発せられた。


 ギデオンの両眼が、初めてレオンの顔から動いた。一人ずつ、確かめるように。


 エレーヌの上で視線が止まる。彼女のローブの下には攻撃魔法の気配がない。ギデオンの目は、明らかにそれを読んでいた。魔導士が火を準備していない。それは戦士にとって、最も雄弁な意思表示だった。


 イリアの上で視線が止まる。彼女は祈りの形で指を組んでいたが、その祈りが白の女神に向けられたものなのかどうか。ギデオンの目は、そこでわずかに眉根を寄せた。神官の祈りの色が、彼の知るそれと違っていた。


 ノクトの上で視線が止まる。そして、止まったまましばらく動かなかった。


 ノクトには角がない。

 ギデオンの口元が微かに動いた。何か言いかけて、飲み込んだ。魔王軍幹部が、角のない魔族を見た時に何を思うのか。俺にはその表情の意味を完全には読み切れなかった。だがそこには、確かに「同類を見る目」の温度がわずかに含まれていた。それは戦闘前の硬直に、ほんの少しの隙間を作る温度だった。


 そして、ギデオンの視線が最後の一人、ガランの上に移った。

 その瞬間、空気が変わった。


 俺はそれを音として聞き取ったような錯覚を覚えた。城壁の上を撫でていた夕方の風が止まり、石畳の隙間から立ち上っていた微かな砂塵が、宙で凍りついたように見えた。

 ギデオンの二つの瞳が、初めて温度を持った。憎悪の温度を。


「……獣人」

 その一語が地面に落ちた。


 ガランは動かなかった。視線を逸らさなかった。彼の手は大盾の取っ手にかかっていたが、それを掲げる動作には移らなかった。


「将軍殿」

 ガランは静かに応えた。

「俺の名はガラン。エルナ郷の出だ」

「貴様の名など聞いていない」


 ギデオンの声はほとんど囁きに近かった。

「貴様がここに在ること、それ自体を、私は問題にしている」


 槍の柄を握る両手に、初めて力が入った。銀色の肌に筋が浮き立つように細く走った。

 俺はギデオンの足元を見ていた。地面に突き立てられた槍。あれは、五年前に魔王イルミナが発布した『センシュボウエイの掟』の象徴だった。攻めるな、まず話せ、それでも刃を向ける者にだけ刃を返せ。その四段構えの中で、ギデオンは「まだ二段目」に留まっていた。刃を向ける者が、まだ現れていないからだ。


 その自制が、揺らいでいる。

 ここで……彼自身に、それを破らせてはいけない。


 俺が口を開きかけたその時、ギデオンが自分の手で槍を地面から引き抜いた。

 低く湿った音が石畳の隙間から鳴った。掟を体現してきた魔王軍幹部が、自らの手で、自らの掟を破った瞬間だった。


「将軍!」

 声を上げたのはノクトだった。彼は両手を広げ、半歩、前に出ていた。

「我々はまだ刃を向けていない! あんたの掟は、まだ……」

「掟は知っている」


 ギデオンの声は平坦だった。怒りも興奮もそこにはない。ただ、十五年磨かれた憎悪が、その平坦さの中で結晶のように冷たく光っていた。

「だが、貴様らが連れているそれは、掟の埒外にある」

 槍の切っ先がガランの方を向いた。

「獣人を伴う一行は、対話の対象たり得ぬ。私はその例外を認めない」


「将軍殿」

 ノクトの声がわずかに震えた。

「あんたは自分が今、何を言っているか分かっているのか。掟を破るのはあんた自身だ。エルバラの民は、あんたを魔王軍幹部で最も掟に厳しい男だと」

「だから、私が決める」

 ギデオンのもう一方の腕が、背中の鞘から別の形状の武器を抜いた。湾曲した肉厚の刀身。槍とは別の理で振るう武器だった。二つの異なる武器を構えた。

「掟は私が守る。掟は私が破る。それだけのことだ」


 ガランが初めて大盾を肩から下ろした。だが構えなかった。盾の縁を足元の石畳に静かに当てた。

「将軍殿。一つだけ聞いてくれ」

「聞かぬ」

「俺は、お前の話を知っている」


 ギデオンの動きがわずかに止まった。ガランの声は低く、しかしよく通った。

「お前の仲間が、共生村グランドールで死んだことを、俺は、知っている」

「……」

 ギデオンの槍を握る手の、銀色の筋が震えた。


 それは怒りの震えだった。だが、その震えの奥には別の何かが確かに含まれていた。俺の目にはそれが見えた。十五年、誰にも触れさせてこなかった場所に、たった今、見知らぬ獣人の声が無遠慮に触れた――その動揺だった。


 ギデオンの巨体が消えた。予兆も慣性もなかった。

 彼は十五歩離れた場所から、ガランの真上、一歩の距離に、唐突に存在していた。


 槍の切っ先がガランの大盾の上縁を掠めた。ガランの反応は辛うじて間に合った。だが、ギデオンのもう片方の腕、湾曲した刀身は、すでに別の角度からガランの肩を狙っていた。


「散開!」

 俺の声が夕暮れの石畳を横に切り裂いた。


 四人の身体が考えるより先に動いた。岩山の頂で、その声に従って暴竜の業火を生き延びた反射が、まだ彼らの身体の中に生きていた。

 ガランが後方へ大盾ごと跳ぶ。エレーヌが左へ、レオンが右へ、イリアが詠唱の姿勢で岩柱の影へ。ノクトは、既に石礫を一個、ポーチから抜いていた。


 石畳の上で火花が散った。

 ギデオンの湾曲刀が、ガランの大盾の表面を深く抉った。火花の中で銀色の腕が翻る。十五年の憎悪を、十五歩の距離に込めた一撃だった。


 俺はその光景を、霞んだ視界の中で見ていた。

 懐の中で、フローラの手記が肋骨の上でわずかに鳴った気がした。十五年の嘘を解く三枚の紙。だが今、それを差し出してもギデオンは読まない。憎悪に駆動された眼は、文字を読まない。

 心が動く瞬間を作らねばならない。


 俺は痛む右脚に体重を乗せ直し、一歩、前に出た。

「全員、聞け」

 その声は、暴竜と戦った時のものより一段低かった。

「これより、武力で勝つ盤面はない」

 四人の動きが一瞬止まった。

「だが、生き延びる盤面はある。守れ。攻めるな。私が指示するまで、誰も致命の一撃を試みるな」


 レオンが聖剣の柄を握り直しながら、唇だけで応えた。

「了解、軍師殿」


 ガランの大盾が地面を擦るような低い音と共に構え直された。だが、その目はギデオンを睨んではいなかった。ガランの目は、なぜか震えていた。怯えではなく、何か別の感情で。

 俺はその横顔を視界の端で捉えた。

(ガラン……お前、何を、知っている)


 夕暮れの最後の光が、城壁の上端を赤く染めていた。

 魔王城門前の戦端は、こうして開かれた。

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