第75話 偽装難民
その夜、廃墟の片隅で焚き火を囲んだ。
崩れた石壁の影に風がよけて、小さく火を組むにはちょうどいい場所だった。煙は十五年前に焼け落ちた屋根の名残の上を抜けて、まだ星の出ていない空へ昇っていった。
俺は焚き火の傍らで、フローラの手記をもう一度開いた。
昼の集会所で見つけた署名のあと、また同じ手記を開く。
同じ頁がまったく違って見えた。
経費記録の頁をゆっくりとなぞる。
支出時期。共生村襲撃のちょうど一週間前。
輸送先「西部国境線・第三野営地」。
ノクトが地図を広げてくれた。
第三野営地からグランドールまで、徒歩三時間。
「歩いて半日もかからねえ」
ノクトが低く言った。
「ご丁寧に、ちょうどいい距離だな」
俺は頷いた。
襲撃の一週間前、五十名の人員が徒歩で半日の場所まで運ばれていた。そしてその村は、ちょうど一週間後の夜に滅んだ。
手記の余白に、フローラの細い字が書き添えられていた。
『ゼンさん。どうか、私には見えない真相を貴方が見届けてください』
彼女の指はいつもインクで黒く汚れていた。図書館の奥で誰にも気づかれないように頁を一枚ずつ書き写し続けてきた、その指で書いた一文だった。
彼女自身、何が真相かはわかっていない。
わからないまま半年以上、この手記を抱え続けてきた。
「フローラ様か」
ノクトが煙の向こうで呟いた。
「どこまでわかってて、これを寄越してきたんだろうな」
「わかっていない。だが、わからないまま誰かに見届けてほしいと願った人だ」
「それが、いちばん怖えよ」
彼の声には半分笑いが混じっていた。
けれど、目は笑っていなかった。
翌朝、夜明けと同時に俺たちは集会所の奥へ降りた。
石床の一角に、明らかに不自然な継ぎ目があった。火災のあとに誰かが急いで埋め戻したような、雑な石の組み方。
ガランが大盾を投げ出して、その石をひとつずつ持ち上げていく。彼の腕の力は、こういう仕事に向いていた。
崩落した地下倉庫が口を開けた。
降りていくと、湿った土と古い灰の匂いがした。十五年分の闇がまだそこに溜まっている。ノクトが蝋燭を掲げ、俺はレオンに肩を借りて慎重に足を運んだ。
地下の隅に鉄の箱があった。
錆びついた蓋を、ガランが両手でじりじりとこじ開けた。
中には革表紙の本が一冊。
乾いてはいたが、まだ読める状態だった。
鉄の箱が十五年、これを守っていた。
ノクトが慎重に頁を捲った。
日誌だった。最後に頁を埋めた者の手の癖が、最後の数枚にはっきりと残っていた。
「長老の日誌だ」
ノクトが低く言った。
「最後の頁を見るぞ」
俺は頷いた。
読みたくはなかった。だが、読まないわけにはいかなかった。
ノクトが、終わりの頁の数枚前を声に出して読み上げ始めた。
『今日、見慣れぬ獣人の一団が村に避難を求めてきた。隣国から戦火を逃れたと言う。男が十二人、女が四人。我らは規約に従い、彼らを受け入れた』
淡々とした村長らしい筆致だった。
俺はその文字を頭の中に刻んだ。男が十二人、女が四人。
ノクトが頁を捲る。
『あの獣人たちはよく働く。男たちは薪割りと畑の力仕事を、女たちは洗濯と縫い物を、自分から買って出る。村の誰とも、もう打ち解けている。長く居てくれそうだ』
ノクトの声がわずかに低くなった。
『──妙だ』
次の頁。たぶん、それが最後の記録だった。
『あの者たちの振る舞いに時折、村人ではない別の何かが覗く。誰かの指示で動く者の目だ。働きの早さも過剰に過ぎる。誰かに、こう振る舞え、と言いつけられている者の早さだ。私の思い過ごしならよい。明日、長老会で議論する』
ノクトが頁を捲ろうとした。
次の頁は白かった。
明日の頁はなかった。
襲撃はその夜に起きていた。
焚き火の煙の名残のような、低い静けさが地下に降りた。
俺はしばらく、その白い頁を見ていた。
書かれなかった「明日」の頁が目の前にあった。長老が「議論する」と書きつけた、明日。その明日に議論は開かれなかった。村は、その前の夜に潰されていた。
「……間違いねえ」
ノクトが絞り出すように言った。
「難民を装った獣人が村に潜り込んだ。働き者としてなじんで、誰の警戒も解いてから——内側から襲った。記録上は『獣人による襲撃』。だが、その獣人を国境線まで運んだのは——」
「王国軍だ」
俺は彼の言葉を引き取った。
フローラの経費記録。第三野営地への五十名の移送。難民受け入れ工作費の金貨三千。そして長老の日誌の、最後の十六人の獣人。
全てがひとつの真相を指していた。
地下から地上へ戻り、廃墟の中央の井戸の脇で、俺は仲間たちに、自分の組み上げた線を一度、口に出した。
「魔族領の記録に『獣人による襲撃』とだけ刻まれたのは、偶然じゃない。そう刻ませるために、王国はわざわざ獣人を選んだ。獣人を雇うか命じるか、何らかの方法で動かして難民として村に送り込んだ。村は規約に従って受け入れた。そして、その獣人たちの手で内側から滅ぼされた」
誰も口を挟まなかった。
「その結果、何が起きたか。魔族は人間よりも獣人を憎むようになった。共生村が滅びたのは『獣人のせい』だと、十五年信じ続けてきた。種族の共生の前例は、こうしてひとつ消えた。獣人と魔族のあいだには、十五年消えない溝が刻まれた。——それが、あの工作の本当の狙いだ」
ガランが井戸の縁に、左手を強く押し当てていた。指の関節が白くなっている。
俺は彼の方を見ないようにした。
「では、誰が」
レオンが聖剣の柄を握りしめながら、低く尋ねた。
「誰が、その工作を命じた」
俺は答えるのに一拍、迷った。
「経費は王国軍の支出だ。第三野営地は王国の管轄地。そしてそこまでの規模の極秘工作を、王の許可なしに動かせる人間は王都にはいない」
レオンの息が止まった。
「グランゼル三世——」
「ああ」
「俺たちが討伐に行かされた、その王だ」
レオンの聖剣の柄を握る手が震えていた。
俺はそれを見ていた。彼の中で何が崩れているのかは、たぶん彼自身にもまだ整理がついていない。それをこちらが先回りして言葉にしてやることは、しなかった。
「では」と、レオンが絞り出した。
「俺たちが信じてきた魔族との戦争史は——」
「お前が信じてきた歴史の相当の部分が、王国によって書き換えられている」
俺は淡々と返した。
「今日見つけたのは、その一頁にすぎない。だが、一頁を確かに掴めば、あとの頁がどこを書き換えられているかを、確かめていけるようになる」
レオンは長く息を吐いた。
俺はもうひとつの問いを、胸の奥にしまったままだった。
誰にも、まだ言わなかった。
共生村グランドールを起こしたのは、グランゼル三世その人だ。三つの種族の共生を自ら夢見て、自ら村を起こした王。
その同じ王が十五年前、自らの村をこうして滅ぼした。
ひとりの人間の中に、こんな二つの顔が同居できるものなのか。
俺の知らない何か大きなものが、王の身に起きたとしか思えなかった。
俺はすでに二回も、悪魔の影響を受けた人間を見た。
国王もまた悪魔の影響下にあることは否定できない。
悪魔につけ入れられる隙と考えられるのは、ひとつだ。
十六年前、フローラ殿下を産んで王妃が亡くなった。
あの聡明な王女を残して逝った、王の最愛の人。
それより一年あとに共生村は滅んだ。
時期が合いすぎていた。
心優しかった王が最愛の人を失い、別人のように変わってしまったのではないか——それが、俺のここまでで組める仮説の上限だった。
その先にはまだ踏み込まない。
踏み込むには材料が足りない。
仮説のままで胸の奥にしまっておく。
焚き火が夕方の風で、またぱちりと爆ぜた。
俺たちは廃墟の中央の広場に戻って、焚き火を組み直していた。
長い一日だった。地下から戻ってから、誰もほとんど飯を食わなかった。木の枝の先で湯を温めて、それを順に回し飲んでいた。
誰かが口を開かなければならなかった。
それはエレーヌだった。
「……ゼン」
彼女は自分の杯を両手で握っていた。
「この真相を。——どうするの」
その問いが、焚き火の音の中に静かに落ちた。
誰もすぐには答えなかった。
俺は答える前に一度、仲間の顔を見渡した。
レオンは聖剣を膝の上に乗せ、刃を見つめていた。
ガランは地面に下ろした大盾の表面を、太い指でゆっくりと撫でていた。獣人として今日この村の哀悼を捧げた手で、十五年前の同胞たちの汚名をこれからどうするのか、その手はたぶん考えていた。
イリアは両手を膝の上で組んで、こちらをじっと見ていた。彼女はいつもの祈りの形ではなく、ただふたつの手のひらを重ねていた。祈るためではなく、何かを支えるために。
ノクトは焚き火の向こう側で、片膝を立てて座っていた。
そして俺。
ここで先に答えを出してはいけなかった。
これは軍師ひとりが決める種類の問いではなかった。
「いくつか選び方がある」
俺はゆっくり言った。
「ひとつは、これを魔族の側に届ける。共生村が滅んだのは獣人のせいではなかった、と。十五年の誤解を解く。それは魔族と獣人のあいだの溝を、埋め直す材料になる」
ガランの手が大盾の表面で止まった。
「ふたつめは、この真相をまだ伏せておく。俺たちは魔王城を目指している。あちらに着いて、向こうの中枢と直接話す機会を得たうえで、もっとも効く瞬間に出す。札を強い場面まで取っておく」
レオンの指が聖剣の柄に置かれた。
「みっつめは、これを王都の側に突き返す。グランゼル三世に、こちらが何を知ったかを伝える。それが何を引き起こすかはわからない。だが、それを伝えること自体が、こちらの立ち位置をはっきりさせる」
俺は湯気の昇る杯を、両手で包んだ。
「どれを選ぶかで、これからの俺たちの旅がまったく違う形になる。決められるのは今夜じゃない。だが、ここで考え始めなければ、魔王城に着いた時にはもう手遅れだ」
誰も答えなかった。
夜風が、廃墟の崩れた壁の隙間を低く渡っていった。
焚き火を囲んだそれぞれの顔の上で、影がゆっくりと揺れていた。
俺は湯の杯をひとくちすすった。
答えはまだ、誰の口からも出てこなかった。
けれど、それでよかった。今夜は、それでよかった。
考え始めること自体が、ここから先のすべての盤面の最初の手になる。
星がようやく、廃墟の上に出ていた。




