第8話 パートナー契約
ドスン。
使い込まれた宿屋の丸テーブルに、ずっしりとした重みを持つ革袋が落とされた。
銀貨と、わずかな金貨がぶつかり合う、鈍くて生々しい音。
今日一日、ただ『言葉』という武器だけで、この理不尽な世界から奪い取った確かな重さだった。
「信じられない。宿代も、馬の餌代も。全部払って、まだこんなに残るなんて」
リーシャの指先が、おそるおそる革袋の紐をなぞっている。
テーブルの上には、酸味の強い安酒の木杯と、今日だけ特別に頼んだ少し分厚い肉料理。
「言っただろ、リーシャ。あんたの品物は本物だ。俺はただ、それを欲しがっている相手に、言葉を届けただけだ」
温かいスープを喉へ流し込む。
焼け焦げたように熱かった。
こめかみの奥がガンガンと鳴り続けている。
一日中、他人の心を覗き込み、最適解を選び続けた代償だ。
ふと、視界の端。
ランプの灯りに照らされたリーシャの頭上に浮かぶ【好意】のアイコン。
夕焼けみたいなオレンジ色の光の中で、そのアイコンは、昼間の市場で見せていた闘争心とは、まるで違う色を帯びていた。
(……参ったな)
他人の感情を可視化するこの理不尽なスキルは、時として、知りたくもない真実まで容赦なく眼球に焼き付けてくる。
ただの恩人や、一時的な相棒に向けるものじゃない。
その枠を越えようとする、生々しい熱。
「ねえ、ゼン」
不意に、リーシャが顔を上げた。
揺れるランプの火が、彼女のまっすぐな橙色の瞳の中でチロチロと燃えている。
「あんた、この後どうするつもり? 行く当ても、目的もないって言ってたわよね」
「ああ。あの森で遭難して死にかけていたところを拾われたのが、俺のゼロ地点だからな」
「なら……」
リーシャが、グッと身を乗り出してきた。
「これからも、私と一緒にやらない? 二人で、『商会』としてさ」
彼女の頭上で、アイコンが激しく明滅している。
テーブルに置かれた指先が、かすかに震えていた。
ずっと一人で、誰にも頼らずに牙を剥いてきた誇り高き商人が、自ら差し出してくれた言葉。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
でも、それと同時に。
足元の床板が、一気に崩れ落ちるような悪寒が背筋を駆け上がった。
深く踏み込めば、いつか必ず壊れる。
脳裏をかすめるのは、顔も本名も知らない、ネットの向こう側の『イル』さん。
あんなに温かかったのに、いざ現実の痛みに触れようとした瞬間、俺は逃げ出し、すべてを失った。
向けられた熱が、冷たい目へと変わる瞬間。
それを見るのが、たまらなく恐ろしい。
「……いいのか? 俺は見ての通り、剣も振れないし魔法も使えない、ただの『口だけ』の男だぞ」
わざと、自嘲気味に笑ってみせる。
「馬鹿ね」
リーシャが、ふっと吹き出した。
「その『口だけ』が、在庫の山を消し去ったんじゃない。私は、あんたのあり得ないくらいの『ペテン』を信じるって決めたの」
計算なんかじゃ出せないくらい、ただひたすらに人間らしい笑顔だった。
息を、細く吐き出す。
震えそうになる指先を、テーブルの下で強く握り込んだ。
「……分かった。ただし、契約条件がある」
「条件? また性格の悪いやつ?」
「ああ。俺のペテンに、最後まで騙されてくれ」
リーシャは一瞬、きょとんとした顔をした。
だがすぐに納得したように、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「望むところよ。あんたのペテン、嫌いじゃないし」
俺は椅子から立ち上がり、今度は自分から、右手を差し出した。
「よろしく頼む。一攫千金を約束しよう。俺の、優秀なビジネスパートナー」
差し出された少しマメのある手を、しっかりと握り返す。
確かな血の通った熱が、掌から伝わってきた。
「ところで……俺たち、名前がないな」
「名前?」
「ああ。二人でラド商会さえひっくり返す、俺たちの商会の名前だ」
リーシャは少し考え込み、ランプの灯りを見つめて言った。
「今はまだ小さな星だけど、いつかこの世界の中心で輝くような……『新星商会』なんて、どう?」
「新星。……いいな。最高のハッタリだ」
視界の端。
彼女の頭上で光る【好意】と、その横で静かに燃えている【野心】のアイコン。
俺はそれを半分だけ受け取り、もう半分は、見なかったことにしてそっと視界から消し去った。
一番奥にある領域には、まだ踏み込まない。
最高の『ハッタリ』を演じ切ること。
それが、臆病な俺がこの理不尽な世界で、相棒と歩むために選んだ、不器用な距離の測り方だった。




