第7話 価値の翻訳と手品
太陽が真上に昇り切る頃、市場の空気が一変した。
町人たちの姿がまばらになり、代わりに傷だらけの革鎧や泥まみれのマントを羽織った冒険者たちが通りを我が物顔で歩き始めた。
「リーシャ。俺の斜め後ろで、商品を整理してるふりをしててくれ」
視界の端に三人組の冒険者を捉える。
先頭の熊のような大柄な男が、右足をわずかに引きずりながら顔の周りを飛び回る羽虫を苛立たしげに払っていた。
すれ違いざま、俺はスキルを全開にした。
男の頭上に【苛立ち】【疲労】の半透明アイコンが浮かび上がる。
その瞬間、脳にノイズが走った。
「血の臭いと数日分の汗……魔物の嗅覚を舐めると命取りだな」
男のブーツがピタリと止まった。
殺気のこもった眼光が俺を射抜く。
「てめえ、俺たちに言ったのか?」
「おや、失礼。つい職業柄の独り言です。何日も迷宮探索、お疲れ様です」
営業スマイルを貼り付け、ひな壇から深緑色の石鹸を手に取る。
アイコンを読みながら、言葉のトーンを男の心理の隙間にねじ込む。
「その傷、感染症を起こせば命がけの稼ぎが治療費で消えます。甘い香りの石鹸なんて勧めません。これは強力な殺菌と防臭効果を持つ『実戦用』です。迷宮を潜るプロにこそ使ってほしい一品ですよ」
ハッタリだ。薬草のキツい匂いを即興で「実戦用」に仕立てただけ。
男の頭上に【警戒】のアイコンがチカチカと明滅した。
俺はさらに言葉を重ね、アイコンが【興味】に変わるのを確認する。
「……『実戦用』だと?」
ひったくるように石鹸を受け取り、鼻を近づける。
ツンとくる薬草の香り。リーシャが血眼になって選んだ本物の品質が、ハッタリを事実へと変えた。
「悪くねえ。おい、在庫全部出せ。今夜はパーティー全員で泥と臭いを落とすぞ」
値切り交渉すらなく、言い値の硬貨が卓に叩きつけられた。
男たちは石鹸を抱えて去っていく。
背後でリーシャが目を丸くして固まっていた。
「……嘘でしょ。私が三日かけても売れなかった額が、言葉を変えただけで……」
「これが価値の『翻訳』だ。次、行くぞ」
俺は軽く頭を振った。
すでに視界の端が白く明滅し始めていた。
◇
午後になり、スキルの連続使用により、頭痛が限界を超えていた。
行き交う群衆全員の感情アイコンがノイズとなって網膜にへばりつき、脳が焼き切れそうな熱を持つ。
鼻からポタポタと鼻血が垂れた。手の甲で乱暴に拭う。
次の標的は、向かいの大商会から不満げに出てきた貴族の奥方。
頭上に【退屈】のアイコンが浮かんでいる。
襟元の銀のブローチ――南東部の水鳥デザイン――が目に入った。
俺は夫人の進路に先回りし、聞こえるように独り言を落とした。
「南東部の湖畔香料は、薫りが段違いだな。このルインじゃ大味な量産品ばかりで口惜しい」
夫人の足が止まった。
「あなた、私の故郷の香りが分かるの?」
【退屈】のアイコンが【興味】に変わるのを視界で捉えながら、俺は即座に言葉を重ねる。
脳の負担がさらに跳ね上がった。
「おや、奥様。そのブローチ……道理で。私が今整理していた香料も南東部産です。大商会には出回らない、特別ルートの希少品ですよ。故郷の本当の香りを、今日の食卓にいかがですか」
木箱を傾け、ふわりと香りを立たせる。
夫人の頭上が【歓喜】【優越感】のアイコンで埋め尽くされた。
大商会で妥協するのではなく、自分のセンスで逸品を見つけた満足感が、財布の紐を解いた。
「これ、二箱ちょうだい」
夫人が去った後、俺は木箱に手をついてぐらつく足を必死に支えた。
激痛と吐き気が襲ってくる。
無骨な商人の護衛には「玄人好みの本物の乾物」を。
夕飯の支度に追われる主婦には「今日限りの希少在庫」を。
相手を変え、言葉を変え、感情アイコンを読み取り、その瞬間に最も刺さる言葉を撃ち込み続ける。
売り上げは爆発的に伸びた。飛ぶように品物がなくなっていく。
だが、俺の胸にあったのは達成感ではなく、深い焦燥だった。
これはビジネスじゃない。
俺のスキルにより、感情のアイコンを視て、心をハッキングしているだけの、手品だ。
アイコンを表示させるたびに脳が削られる。このままでは俺が先に壊れる。
このままでは破綻は時間の問題だ。
◇
西の空が赤黒く染まる頃、俺は空になった木箱の上に崩れ落ちた。
「ゼン、大丈夫!? 顔、真っ青だよ!」
リーシャが血相を変えて駆け寄り、水筒を押し付けてくる。
一気に飲み干し、荒い息を整える。
「……悪い。頭がもう回らない」
リーシャは影の落ちた露店の机を見つめていた。
木箱も麻袋も石鹸も、何も残っていない。
ただ一つ、売上金の詰まった革袋だけが、チャリンと静かな音を立てていた。
「あいつら……ラド商会の連中は、いつも私を笑ってた。女が生意気だって」
リーシャの声が震え始めた。
二年間、たった一人で意地を張り続けた孤独な戦い。
今日、初めて結果で「正しかった」と証明された。
「間違ってなかった……私の選んだものは、間違ってなかった……っ」
ぽたり、と革袋の上に涙が落ちた。
それでも彼女は泣き崩れず、そっと目元を拭って誇らしげな笑みを浮かべた。
「言っただろ。君の品物は本物だって」
俺は荒い息のまま、精一杯の穏やかな笑みを返した。
だが、心の中では強く唇を噛み締めていた。
(今日は勝ったんじゃない。破滅を先延ばしにしただけだ)
リーシャの眼の正しさを、市場に認めさせたわけじゃない。
俺が感情アイコンを読み取り、口先で騙し売っただけ。
こんなスキル依存の商売は長続きしない。
俺は腹の底で、冷たく誓った。
次は絶対に、俺のスキルになんか依存させない。
アイコンを表示させなくても、商品自体が価値を発信して客が群がってくる――
本物の「仕組み」を構築してやる。




