第6話 一つだけの条件
開かない。
まぶたの裏が、べっとりと糊付けられてるみたいだった。
無理やりこじ開ける。
視界にぼんやりと浮かび上がったのは、石造りの天井だった。
鼻をつく埃っぽさ。
いくら洗っても落ちきらないような、古い布の匂い。
窓の向こうからは、夜のざわめきが波のように寄せては返している。
ジョッキのぶつかる音。怒鳴り声のような低い笑い声。
(……ルインの町か)
どうやら、まだ生きているらしい。
「あ、気がついた?」
不意に上から声が降ってきた。
薄暗い部屋の入り口。
リーシャが壁に背中を預け、腕を組んで立っていた。
「あんた、関門を抜けた途端にいきなり倒れるんだもん。宿の若い衆にチップ弾んで、ここまで運ばせるの、どんっだけ大変だったか分かってる?」
「……悪い。本当に、助かった」
「別に。恩を着せるために拾ったわけじゃないし」
ふいっ、とリーシャは顔を背ける。
その瞬間だった。
ぐぅぅぅぅぅ。
俺の腹から部屋中に響き渡るような、情けない音が鳴り響いた。
限界まで縮んでいた胃袋が、自己主張を始めたらしい。
「呆れた。ほら、立てるなら下に行くよ。腹減りすぎて意識飛んだなんて、笑うに笑えないからね」
◇
軋む階段を下りた途端、むせ返るような熱気が肌にまとわりついた。
木製のジョッキが乱暴にぶつかり合う音。怒声スレスレの笑い声。
肉の焦げた匂いと、強烈なニンニクの匂いが混ざり合っている。
言われるまま、部屋の隅にある小さな卓に腰を下ろす。
目の前にドンと置かれたのは、縁の欠けた木皿になみなみと注がれた茶色のスープ。
それと、石みたいに硬そうな黒パンだった。
「ほらよ。南部の街道から来たんだってな。災難だったな」
スープを運んできた恰幅の良い宿の亭主が、気さくに声をかけてきた。
俺はスプーンを手に取りながら、愛想のいい笑みを浮かべて問い返す。
元の世界で染み付いた、無意識の「リサーチ」の癖だ。
「ああ、ありがとう。それにしても活気のある町だな。王都の貴族なんかもよく来るのか?」
「そりゃあ関所があるからな。上流階級の連中もよく通るぜ。あいつら見栄っ張りだから、南東部の湖畔地方で採れる水鳥の装飾品とか、珍しい香料なんかをやたらと有難がる。まあ、大商会が独占してるから俺たち平民には縁のない話だがな」
「南東部の水鳥、ね。……勉強になるよ」
俺が相槌を打つと、亭主は満足げに厨房へ戻っていった。
「食っていいのか」
「許可? ばかみたい。冷める前に食いなよ。死にかけだったんだからさ」
リーシャが呆れたように言う。
俺はスプーンを握った。
指先が、ガタガタと情けなく震えている。
スープを掬い上げ、口に流し込む。
あっつ。
久しぶりの温かい食い物が、空っぽの胃袋に雪崩れ込んでくる。
美味いとか、そういう次元じゃない。
死にかけていた細胞が、無理やりにひっぱたかれて叩き起こされるようだった。
息が詰まる。
向かいの席に誰かがいて、スープから立ち上る湯気の向こうで、俺を見ている。
ただ、それだけのことなのに。
鼻の奥が、じわりと痛んだ。
目の縁に熱いものが滲んでくる。こらえる。こらえた。
「……もしかして、泣きそう?」
「泣いてない」
掠れた声で返すのが精一杯だった。
「大げさな奴だね、まったく」
リーシャは手に持っていたフォークを止め、俺をじっと見ていた。
関門で見せた鋭い商人の顔じゃない。
年相応の、どう接していいか迷うような目。
だがその時、隣の席で飲んだくれていた男たちの声が、嫌でも耳に入ってきた。
『ラド商会の荷受けが、また値を下げやがった』
『あそこに逆らったら干されるからな。クソが』
その名を聞いた瞬間。
リーシャの指先が、ピクリと凍りついた。
パンをちぎるふりをしながら、無意識に左手の薬指の付け根を、親指の爪でぎゅうぎゅうと強く擦っている。
皮膚が赤く腫れるくらいに。
俺は視線を上げ、スキルを起動した。
彼女の頭上に、チカチカとノイズ混じりのアイコンが浮かび上がる。
【動揺】【意地】
「リーシャ」
喉の奥を鳴らす。
「あんたが一人で、そんなに意地を張ってる理由は……『ラド商会』か」
ビクンッ、とリーシャの肩が跳ねた。
持っていた黒パンが、皿の上に転がり落ちる。
周囲の騒音が、急に遠くの出来事みたいに遠のいた。
息苦しいほどの静寂が、俺たちの間にだけ落ちている。
「二年前まで、あそこにいた」
地を這うような、低い声だった。
「十六のころから見習いで這い上がって、誰より働いた。 市場の動きを読んで、あそこをデカくしたのは私だ。 でも、上は違った。 ニコニコ笑って男を立てる、都合のいい飾りが欲しかっただけ。 ……『女が生意気だ』って笑われて、最後は帳簿をごまかしたって濡れ衣よ」
テーブルの端を掴む彼女の指。
力が入りすぎて、骨が白く透けて見えそうだった。
「親父も味方してくれなかった。 正論なんて、組織の前じゃ一瞬で握りつぶされる。 だから……私一人で、あいつらを叩きのめす」
顔を上げた彼女の瞳の奥。
そこには、ドロドロとした熱いものが渦巻いていた。
誰にも信じてもらえなかった痛みが、まだジュクジュクと血を流している。
「あんたはさ。 どうして、私をそんな目で見るの」
リーシャが俺をキッと睨みつける。
「ただ助かりたいだけなら、もっと卑屈にすがりつけばいい。 まるで……私の弱さを知ってるみたいに」
俺は、その痛々しい目から視線を外せなかった。
(似てるからだ)
元の世界での俺も、言葉を持っていなかった。
頭の中でどれだけ完璧な計画書を組み上げても、それを他人に届ける術がなかったから、誰にも響かなかった。
どれだけ歯を食いしばっても、正当に評価されない時間が、人間の心をどれほどボロボロに削り取っていくか。
――痛いほどわかる。
だからこそ、俺は声に出す代わりに、深く息を吸い込んだ。
「あんたがラド商会に求めたのは、金や地位じゃない。 自分の存在を、正当に認めてほしかっただけじゃないのか」
リーシャの息が止まった。
ピンと張り詰めていた彼女の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。
頭上でうるさく明滅していた【意地】のアイコンが、パリンと砕け散っていった。
「あんた、本当に。 嫌な奴だね」
リーシャは力なく笑い、うつむいた。
俺は身を乗り出し、彼女の目を真っ直ぐに覗き込む。
「あんたの品物の価値を証明するチャンスを、俺にくれ」
「チャンス……?」
「明日一日だけでいい。 あんたの商売を、俺に手伝わせてくれないか」
微かに潤んでいた彼女の瞳に、いつもの負けん気がわずかに戻る。
「見たところ、貴族のお坊ちゃんでも、やり手の商人ではないみたいだけど」
「経験はない。 だが、知識だけはある」
俺はさらにテーブルに身を寄せ、声を一段階落とした。
「荷台の奥にあった香料も乾物も、素人目に見ても分かる一級品だ。 あんたの仕入れの目は完璧だ。 でも、客にそれを伝える言葉が足りていない」
俺の知恵と、この口先。
「明日の売り上げを倍にしてやる。 もしダメだったら、静かに消える」
「……」
リーシャは口を閉じ、自分の両手をじっと見つめていた。
一人で重い荷馬車を引き、誰にも頼らずに泥水をすすってきた手。
「一つだけ」
やがて、絞り出すような、けれど一本の太い芯が通った声で、リーシャが顔を上げた。
その目は、強い光を放っている。
「一つだけ、条件がある。 私の『品物』にだけは、絶対にケチをつけないこと」
俺の心臓を射抜くような、真っ直ぐな視線。
「安売りも、誤魔化しもしない。 あの品物の価値を、本当に分かってくれる客にだけ売る。 それが守れるなら……一日だけ試させてあげる」
胸の奥が、ぎゅっと熱を持った。
馬鹿みたいにまっすぐで、不器用な商人の誇り。
思わず、口元が緩んでしまう。
「ああ。 約束する」
「それから! もしペテンだったら、あの門番にあんたの首差し出すからね。 覚悟しときなさいよ」
「十分すぎるほどにしてるよ」
リーシャはふっ、と自嘲するように笑い。
それから、ためらいがちに、俺に向けて手を差し出した。
あちこちにマメができていて、少しゴツゴツとした手。
俺はその指先を、しっかりと握り返す。
「よろしく頼む。 相棒」
「まだ相棒って決まったわけじゃないからね、この口だけ男」
憎まれ口を叩きながらも、俺を握り返す彼女の掌からは、確かな熱が伝わってきた。
理不尽だらけのこの世界で。
俺のたった一つの武器を使った初陣の幕が、今、上がろうとしていた。




