第5話 門番との対決
木箱の隙間から、チカチカと光が顔を照らす。
幌の向こうの景色が、いつの間にかすっかり様変わりしていた。
さっきまで両脇から押し潰してきそうだった森の影はない。
代わりに広がっているのは、ひび割れた乾いた土と、まばらに生えた雑草だけの平原。
ただ、一つだけ。
地平線の向こう側に、空を真っ二つに切り裂くような、バカでかい石の壁がそびえ立っていた。
「あれが、ルインの町?」
「そうだよ」
返ってきたリーシャの声に、さっきまでの温度はなかった。
氷みたいに硬くて、低い声。
「このあたりの荷物を一手に引き受けてる、南部最大の中継地。そして商人にとっては、天国か地獄かの分かれ目」
彼女は振り返らない。
御者台に座るその背中は、まるで石像みたいに強張っていた。
おかしい。
俺は無意識のうちに、意識のピントを彼女の背中へと合わせた。
ピンと張り詰めた肩のライン。手綱を握り込む指先は、血の気が引いて真っ白になっている。
浅くて早い呼吸の乱れ。
アイコンを見るまでもないが、彼女の頭上には【不安】と【緊張】が表示されている。
この町は、彼女にとっての『鬼門』だ。
ガタゴトと鳴っていた車輪の音が、やがてゴツゴツとした重い石畳の響きに変わる。
見上げるほど巨大な城門。
その威圧的な影の中に飲み込まれるようにして、馬車はゆっくりと停止した。
「止まれ。通行証と、積荷の目録を見せな」
革鎧を着た二人の衛兵。
そのうちの小太りの男が、槍の柄で石畳を叩きながら、だるそうに近づいてきた。
リーシャが、ギュッと唇を噛み締める。
懐から羊皮紙の束を取り出すその指先が、かすかに震えているのが見えた。
「南部街道の自営商人、リーシャです。積荷は香料と乾物、石鹸。目録通りです」
衛兵は、羊皮紙をひったくるように受け取ると、パラパラと雑にめくった。
本当に、ただめくっただけ。文字なんて一文字も追っていない。
次の瞬間、男の唇がニヤリと歪む。
乱暴な手つきで、荷台の幌が跳ね上げられた。
「あ?」
男の濁った瞳と、バッチリ目が合った。
「お前、なんだこいつは。行き倒れの浮浪者か」
黒光りする槍が、毛布にくるまった俺の鼻先ギリギリに突きつけられる。
鉄の匂い。ゾワリと、冷たい汗が背筋を滑り落ちた。
「違います! 道中で見つけた負傷者です。商人の良心として保護しただけで……!」
リーシャが悲鳴のような声を上げる。
でも衛兵は、面白そうに鼻を鳴らしただけだった。
「へえ、良心ねえ。この町にゃ『身元不明の浮浪者は入れてはならない』って鉄の掟があるんだ。怪しいな。お前、こいつと示し合わせて、町の中にヤバいもんでも持ち込む気じゃないだろうな?」
チンピラ紛いの難癖。
俺は毛布の中で息を殺し、男の顔をじっと観察した。
違和感。
目録を見ていた時間は、せいぜい二秒。あんなの、積荷の確認なんてできるわけがない。
それに、俺の鼻先に槍を突きつけておきながら、こいつの視線は俺を捉えていなかった。
男の目は、リーシャの腰元――揺れる小さな革の小銭入れに、ねっとりと吸い付いている。
男の頭上に浮かび上がる半透明のアイコン。
そこに【疑惑】の二文字はない。
浮かんでいるのは、脂ぎった【退屈】と、あからさまな【強欲】だけ。
なるほど。そういうことかよ。
頭の中で、散らばっていた情報がカチリと音を立てて噛み合った。
こいつは、俺たちを危険人物だなんて欠片も思っちゃいない。
ただ、退屈な仕事の暇つぶしに、後ろ盾のない女商人から『小遣い』をせびり取りたいだけだ。
「悪いが、この馬車は通せねえ。容疑が晴れるまで、二人とも衛兵所へ引っ立ててやる。……ま、もしどうしても急ぐってんなら、別の『解決方法』もあるがな?」
衛兵は下品に口角を吊り上げ、親指と人差し指をねちっこく擦り合わせた。
吐き気がするほど分かりやすい、賄賂の要求だ。
「なっ……! そんな、不当だわ! 目録も通行証も揃っているのに!」
リーシャが、血の気の引いた顔で声を荒らげる。
ダメだ。欲にまみれた豚に、正論なんて通じない。
むしろ「こいつらならもっと絞れる」と舐められるだけだ。
「リーシャ」
腹の底から、あえて低くドスを効かせた声を出す。
ビクッと肩を震わせた彼女を制し、俺はバラバラになりそうな骨と筋肉を無理やり動かす。
痛みを奥歯で噛み殺す。
ゆっくりと。あくまで、洗練された優雅な動作を意識して、立ち上がる。
「おい、動くなと言ったはずだぞ!」
槍の切っ先が、ブレる。
「……失礼いたしました」
俺は口角だけを引き上げ、冷ややかな微笑を顔に貼り付けた。
「その威風堂々たる立ち振る舞い。そして、この強固な城門を隙なく守る鋭い眼力。てっきり、王都からお忍びで視察にいらした、高名な騎士団の方かとお見受けしました」
自分でも引くくらい、滑らかな舌の回りだった。
元の世界じゃ、上司に「おはようございます」の一言を投げかけるタイミングすら測りかねていたのに。
脳が弾き出した最適解のテキストが、自動的によどみない音声となってこの場の空気を塗り替えていく。
「あ? なんだ、浮浪者の分際で。騎士じゃねえ、ただの衛兵だ」
「おお、これは大変失礼を」
俺はわざとらしく目を見開き、芝居がかった手つきで額を押さえてみせる。
「しかし、衛兵様でいらしたとは。失礼どころか、むしろ恐れ入ります。この最重要拠点を直接守る衛兵様こそ、王都でふんぞり返るだけの飾り物の騎士団よりも、よほど重く気高い責務を担われているのですから」
衛兵の動きが、ピタリと止まった。
「なんだこいつ」と毒づこうとしていた下品な口が、だらしない半開きのまま固まっている。
俺は、一気に畳み掛ける。
「恐縮です。実は私、隣国の伯爵家に仕えておりまして。あいにく道中で山賊の襲撃に遭い、旅装も身分証も全て失ってしまいましたが。……こちらの親切な商人の方には、その義務感と慈悲の心に免じて、特別に保護していただいたのです」
思い付きの嘘だ。純度一〇〇パーセントの、でまかせのハッタリ。
だけど、このボロボロのなりであえて相手を見下さず、貴族特有の面倒くさい言い回しを使うのは、バカな男に強烈な印象を植え付ける。
こいつ、ただの浮浪者じゃないのでは? と。
「伯爵家、だとぉ?」
「ええ」
俺はゆっくりと、一歩だけ前へ出る。
男の手がわずかに緩み、槍の穂先がスッと下がった。見逃さない。
「今回は、極秘の視察中の不慮の事故でございまして。……衛兵様。もし今、ここで私を不当に拘束し、公式な記録としてその名が衛兵本部へ上がってしまえば」
すうっと声を潜める。
首筋に冷たい刃を当てるように、静かに囁いた。
「あなたの名は、いずれ我が主君の耳にも『伯爵家一族を不当に嘲笑った無礼者』として伝わることになります。……あ、いえ。あなたほど聡明な方なら、そんな危険な真似は、言われるまでもなく避けるでしょうが」
沈黙。
衛兵の額から、じわりと汗が滲み出すのが見えた。
さっきまでニヤついていた唇がヒクヒクと引きつり、指を擦り合わせていた右手が、今度は不自然なくらい強く槍の柄を握りしめている。
目が、泳いでいる。
俺の嘘を疑っているんじゃない。自分の『万が一の判断ミス』に、勝手に怯え始めている目だ。
【権力への恐怖】
頭上に浮かんだそのアイコンが、ボウッと炎のように頼りなく明滅している。
……勝った。
「ちっ……!」
衛兵は思い切り舌打ちをすると、逃げるように俺から目をそらした。
「……まあ、身なりの汚さは山賊の仕業だと言われりゃ、そう見えなくもねえな。おい! 目録は受理する。さっさと通れ。後ろがつかえてんだよ!」
唾を吐き捨てるように怒鳴り散らし、乱暴な手つきで門を開ける合図を出した。
「ありがとうございます、衛兵様。その賢明なご判断……いずれ必ず、形にしてお返しさせていただきます」
俺はピンと背筋を伸ばしたまま、首だけで薄く、意味深な会釈を落とした。
◇
ガタ、ゴト。
車輪が重厚な石のアーチをくぐり抜けた、その瞬間。
森の静けさになれた耳には、途方もない喧騒だ。
むせ返るような人の熱気。焦げた肉の匂い。
馬の糞と、ツンと鼻を刺す香辛料が混ざり合った、圧倒的な生活の匂いが一気に顔面を殴りつけてきた。
「あんた……今の。何?」
馬車が人波に紛れ込むなり、御者台のリーシャが幽霊でも見たような顔で振り返った。
彼女の頭上。
さっきまでの恐怖を完全に上書きするほどの【驚愕】。
そして「こいつ、ヤバい奴なんじゃないか」という強烈な【警戒】の文字が、チカチカとうるさく点滅している。
「何って……ただの、交渉だろ」
プツン。
限界だった。
アドレナリンが切れた瞬間、全身の血が一気に足元へと抜け落ちていく。
俺のスキルは無償で使い放題ではなかった。明らかに生命力が削られている。
視界が、ぐらりと傾く。
「疲れた。少し、落ちる」
俺の意識は、夕暮れに染まりゆく異世界の街並みを目に焼き付ける暇もなく、再び深い暗闇の底へと真っ逆さまに墜落していった。




