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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第1章 「口だけ勇者」誕生

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第4話 行商人の女

 揺れている。

 規則的な、ひどく単調なリズムが、背中をコツコツと叩いていた。


 もう腐葉土の匂いはない。

 泥に体温を奪われる、あの冷たさも消えていた。

 代わりに背中に触れるのは、ゴツゴツとした硬い木の板。

 それに、微かにカビ臭いけれど……確かに人間の生活の匂いが染み付いた、毛布の重みだった。


 糊付けされたみたいに重いまぶたを、無理やり押し上げる。

 ピントが合わない視界。

 最初に飛び込んできたのは、頭上を覆うドーム状の天井と、無造作に転がる大小の木箱だった。


 生きてる。俺、生きてるのか?


 記憶の糸をたぐる。

 出口の見えない森を、泥まみれになって這いずり回った。

 視界が広がり、乾いた土の地面に顔から突っ込んだところまでは覚えている。

 そこから先は、すっぽりと抜け落ちていた。


「あ、起きた? 無理に動かない方がいいよ。あんた、ほとんど死にかけなんだから」


 ビクン、と。肩が大きく跳ねた。


 獣のうなり声じゃない。虫の羽音でもない。

 はっきりとした輪廓を持った、人間の声。


 軋む首の骨を鳴らしながら、声のした方へ顔を向ける。

 荷台の隙間。

 突き刺さるような太陽の光を背にして、こちらを見下ろす顔があった。

 赤茶色の髪を無造作にまとめた、若い女の人。

 ひどく、人間らしい目だった。


 ヒュッ、と気管が鳴った。

 視界が、ぐにゃりと歪む。

 瞬きをした途端、ポロポロと、自分でも引くくらいの熱い水滴がこぼれ落ちた。


 木板の上に、濃いシミが広がっていく。

 化け物みたいなスライムから逃げ惑った時も、泥水をすすった時も、泣き顔なんて作らなかったのに。

 ただ、自分と同じ『人』の形をした存在がそこにいて、言葉を投げてくれた。

 たったそれだけで、ピンと張り詰めていた心の糸が、音を立ててちぎれ飛んだ。


「えっ、ちょ、なんで泣くの!? 痛い? ご、ごめん、素人が適当に傷の手当てしたから……!」


 女の人が目を丸くして、手綱を放り出さんばかりの勢いで身を乗り出してくる。


 違う。痛いんじゃない。


「ちが……う、」


 砂を噛んだみたいなカラカラの喉から、声の欠片を絞り出す。


「言葉が、通じるのが……こんなに、嬉しくて」


「……はあ?」


 素っ頓狂な声が降ってきた。

 そりゃそうだろう。

 道端で死にかけていた薄汚い男が、目を覚ました途端に「言葉が通じて嬉しい」と号泣し始めるんだ。

 不気味の極みだ。


 でも、俺にとっては、この噛み合わない会話のキャッチボールすら奇跡みたいに愛おしかった。

 俺の言葉が届き、相手の声が意味を持って返ってくる。

 俺のコミュニケーション能力は、まだ完全に死んじゃいない。


「水、飲む?」


 呆れ顔のまま、それでも彼女は使い込まれた革の水袋を差し出してくれた。


 震える両手で受け取り、むさぼるように喉に流し込む。

 ぬるい。少し革の匂いが移っている。

 それでも、脳が痺れるほど甘かった。

 干からびた細胞の一つ一つが、音を立てて水分を吸い上げていく錯覚。

 半分ほど飲み干したところで、今度は胃袋が狂ったように暴れ出した。

 猛烈な空腹。


 だけど、その前にやるべきことがある。

 俺は毛布をかき集め、軋む体に鞭打って上体を起こした。

 そして、板張りの床に額をこすりつけるようにして、深く頭を下げる。


「ありがとう。君が通りかからなかったら、俺はあのまま二度と目覚めなかった」

「別に、いいよ、そんなの。ただ、あんたを拾ったせいで、今日の予定がパーになっちゃったじゃない」


 ふん、と彼女は顔を背けた。

 冷ややかな声のトーン。


 ――その時だった。


 視界の端で、何かが『チカッ』と明滅した。

 いや、違う。

 膝の上に置かれた彼女の指先が、布をトントンと落ち着きなく叩く微かなリズム。

 声の裏側に張り付いた摩擦音。視線の泳ぎ。


 今までなら見落としていた無数の『情報』が、濁流のように脳内へ叩き込まれる。

 息が詰まる。情報量が多すぎる。


 次の瞬間。

 彼女の頭上に、ぼんやりと光る半透明の文字が浮かび上がった。


【焦り】【警戒】【諦め】


 ……ステータス画面?

 いや、これは。

 感情の、アイコン化。


 予定が遅れることへの『焦り』。

 素性の知れない俺に対する、当然の『警戒』。

 それでも見捨てられなかった、自分のお人好し加減に対する『諦め』。


 本来なら整理されることのない生々しい感情の渦が、ゲームのUIみたいに、俺の網膜に直接焼き付けられている。


 なるほど。

 女神がくれた『心を汲み取る力』。この世界をこういう風に「視る」のか。

 今までどうしてもできなかった、人の感情を読むことが簡単にできる。


 助けてくれた相手の無防備な内面を、土足で覗き見しているような、しようのない罪悪感が胸を刺す。

 だが今は、感傷に浸っている場合じゃない。

 彼女が俺を拾ったせいで生じたロスを、俺の頭脳で取り返す。

 それが、命を繋いでくれた彼女への、せめてもの誠意だ。


「君は、行商人?」


 木箱の隙間から漂う、乾いたハーブの匂い。それをヒントに、探りを入れる。


「そうだよ。私はリーシャ。王都に商品を卸しに行く途中。……で? あんたは何者? 剣の一振りも持たずに『魔の森』の傍をうろついてるなんて、まともじゃないよ」


 リーシャの鋭い視線が、俺を射抜く。

 同時に、頭上の【警戒】が、ジリッと明滅した。


 ゆっくりと息を吸い込む。

 勝負はここからだ。

 第一印象で、いかに俺の『無害さ』を信じ込ませるか。


「俺は、ゼン。情けない話なんだが、山賊に襲われて何もかも奪われたんだ。必死で逃げ込んだ先が、あの森で」


 言葉を切り、わざと唇を歪めて自嘲の笑みを浮かべる。


「三日間、ひたすら逃げた。気づいたら、あそこでぶっ倒れていたらしい」

「三日!? 丸腰で、あの森を?」


 リーシャの目が、限界まで見開かれた。

 よし。


 頭上の【警戒】の文字が、ガラス細工のように脆くパリンと砕け散る。

 代わりに、淡い光とともに【同情】という文字が浮かび上がった。


「あんた、見た目以上に悪運が強いね。ちょっと待ってな、硬い干し肉と黒パンくらいなら残ってるから」


 リーシャはやれやれと言う様子で、御者台の脇から薄汚れた布包みを引っ張り出した。


「も、もらって……いいのか?」

「いいよ、助けた相手から身ぐるみ剥ぐような趣味はないって。というか、今のあんたからは絞れる金もないでしょ」


 チクリと刺さる皮肉に、俺も釣られて小さく笑い返す。


 手渡された干し肉を、前歯で噛みちぎる。

 硬い。ゴムを噛んでるんじゃないかってくらい硬くて、ひどく塩辛い。

 顎の関節が痛む。

 だけど、噛み締めるたびに、胃袋の底から熱が広がっていった。


 生きてる。

 俺は、ここで生きている。


 ガタゴトと、車輪が不器用なリズムを刻みながら土を蹴る。

 揺れる幌の隙間から切り取られた、どこまでも高い青空。

 熱を持った頬を、異世界の風が撫でていく。


 美味くもない干し肉を噛みながら、誰かと目を合わせて笑う。

 たったそれだけのことが、今の俺には、どうしようもないほどの『救い』だった。


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