第3話 最弱のモンスター
青臭い、むせ返るような緑の匂い。
目を開けると、そこは大理石の神殿でも、村のふかふかなベッドでもなかった。
視界を埋め尽くすのは、見上げるほど巨大な木の幹。ぬかるんだ泥。
耳元を、羽音のうるさい虫が何度もかすめていく。
「嘘だろ……」
絶望の声が、湿った空気に吸い込まれた。
ポケットを探る。スマホもない。財布もない。初期装備の入った袋もない。
「ステータス、オープン」
虚空に向かって叫んでみる。当然、何も起きない。
俺がもらったのは『人の心を汲み、言葉を届ける力』だ。
人と繋がるための力。
でも、話し相手が一人もいないこの静かな森のど真ん中で、いったい誰と繋がれって言うんだ。
武器はない。食料もない。ただの運動不足な二十五歳の男が、丸腰で突っ立っているだけ。
葉の隙間からこぼれる頼りない光だけを道しるべに、俺は泥に足を取られながら進み出した。
それから十五分後。
俺は早くも、この世界の試練を受けることになる。
巨木の根元。
半透明の、青みがかったゼリー状の塊が、ぶるんぶるんと震えていた。バランスボールくらいの大きさのスライム。
いくらなんでも、あれくらいなら勝てる。
足元に落ちていた太い枝を拾い上げ、思い切り叩きつけた。
べしゃっ。
手応えがおかしい。枝はゼリーの中に沈み込んだまま、ピクリとも動かなくなった。
直後、シュゥゥゥと鼻を突く異臭が立ち昇った。
粘液に触れた木肌から、真っ白な煙が上がっている。強酸。
慌てて枝を手放す。
木はあっという間に黒く変色し、ドロドロに溶けていった。
もし素手で殴っていたら。ぞっと悪寒が背筋を駆け上がった。
物理攻撃は効かない。触れれば溶ける。
ゲームなら「最弱」の代名詞みたいなやつが、今の俺にとっては絶対的な「死」そのものだった。
「ひっ!」
喉の奥から情けない声が漏れた。
俺は大急ぎで、泥にまみれながら無様に逃げ出した。
◇
長い三日が過ぎた。
口にしたのは、小川の泥くさい水だけ。
巨大な猪の足音が響けば木の上で息を潜め、空を巨大な鳥が旋回すれば、全身に泥を塗りたくって倒木の陰に張り付いた。
コンサル時代に培ったロジックなんて何の役にも立たない。
全神経をすり減らす、文字通りの命がけの隠れんぼ。
限界だった。
視点が定まらず、ピントが合わない。足に力が入らない。
「あ……」
前のめりに倒れ込んだ。
冷たい泥が頬にへばりつく。体温が地面に吸い取られていく。
ああ、またこれか。
雨のアスファルトに叩きつけられた夜と、同じ感覚。
真っ白に飛んでいく意識の底で、灰色のオフィスではなく、あの青白いモニターの光が浮かんだ。
徹夜して、マップの端から端までくだらない雪だるまのオブジェクトを並べ続けた夜。
『馬鹿みたいだね』
『めちゃくちゃ馬鹿みたい』
まったく無意味な行為に二人して大笑いしたっけ。
数字と理屈しか武器がなかった俺を、『ゆっくりで大丈夫だよ』と待ってくれた、イルさんの不器用で優しいテキスト。
あの温もり。逃げ出してしまった俺の、たった一つの未練。
まだ、一言も伝えてない。
脳裏に、あの美しい女神の泣き出しそうな声が響く。
「どうか、あの方を探してあげてくださいね」
イルさん。
もし彼女が、この世界のどこかで俺を待っているとしたら。
「ふざけ、んなっ」
口の中に広がる血と泥の味を噛み砕き、無理やり首を持ち上げる。
チャンスをもらったんだ。
まだ、言葉の通じる相手にすら出会ってない。俺の二度目の人生は、一ミリだって始まってない。
足が動かないなら、腕で這う。
腕が千切れそうなら、指を泥に突き立ててでも進む。
人間のいる場所へ。言葉が生きている場所へ。
ずり這いで進むうち、ふと鼻先の空気が変わった。
薪の燃えるような、かすかな生活の匂い。
最後の力を振り絞ってシダの葉をかき分けると、頭上を塞いでいた暗い天井が途切れた。
目が潰れそうなほど強烈な太陽の光。
固く踏みならされた土。
馬車の車輪の跡が、どこまでも真っ直ぐに伸びている。
道だ。
そのまま道の真ん中へと身を乗り出し、頬がザラついた砂利に触れた瞬間。
カタン、カタン、カタン、カタン。
地面から、規則的な振動が伝わってきた。馬のいななき。
車輪が土を激しく削り、俺のすぐ顔の横でピタリと止まる。
「誰か倒れてる! ちょっと、しっかりして!」
頭上から降ってきたのは、若い女の人の声。
本物の、人間の声だ。
意味を持った、温かい言葉。
全身の強張りが、嘘みたいに解けていく。
俺の意識は、その声に包まれたまま、静かで深い暗闇へと落ちていった。




