第2話 もう、逃げない
雨粒が、容赦なくアスファルトを叩きつけていた。
けたたましいブレーキ音が鼓膜を突き破る。
体が宙に浮いた。
天地がひっくり返り、スローモーションのように街灯の滲んだ光が流れていく。
ドスッ、と鈍い衝撃。
肺から空気が全部絞り出されて、声が出ない。
喉の奥から、ねっとりとした鉄の匂いがせり上がってきた。
じわじわと冷たくなっていく指先を感じながら、ふと。
空っぽだった。
数字は得意だった。
人間が、怖かった。
ただそれだけで――二十五年は、終わった。
脳裏に浮かぶのは、あの青白いモニターの光だけだ。
深夜三時。イヤホンから流れるゲームの効果音。
俺の不器用な文章を、「ゆっくりで大丈夫だよ」とだけ言って、いつも待っていてくれた人。
あの夜。
画面の向こうのイルさんが、かすかなSOSを出していた。
踏み込めなかった。
怖かった。ただ、それだけだ。
誰にでも言えるような、薄っぺらい言葉を並べた。
『あんまり無理しないでね』
イルさんは『やさしいね』って返してくれた。
全然、やさしくなんてない。
向き合うことから、逃げ出したんだ。
そして今、何ひとつ取り戻せないまま、アスファルトの上で死にかけている。
(最高に、笑えない)
誰かが叫ぶ声が、水底から聞こえるみたいに遠ざかっていく。
ふと、財布に入れたままの臓器提供カードを思い出した。
生きてる間は、誰の心も救えなかった。
ならせめて、死んだ後に誰かのパーツとして使われるくらいが、相沢善一という空っぽの男にはお似合いだ。
そんな自虐的な思いが、最後だった。
◇
ハッと息を吸い込むと、肺に冷たい空気が流れ込んできた。
目をまたたかせる。
アスファルトの匂いは消え、見渡す限りの純白が広がっていた。
そして、目の前。
陽だまりみたいな金髪。湖より深い碧色の瞳。
絵本の中から抜け出してきたような『女神』が、静かにそこにいた。
……いや、なんだこれ。死ぬとこういうの出てくるのか?
「やっと、会えましたね」
透き通っていて、どうしようもなく胸の奥が締め付けられる声。
初めて会うはずなのに。
彼女は、まるでずっと待ち焦がれていた人を迎えるように微笑み……そのくせ、今にも泣き崩れてしまいそうなほど、ひどく傷ついた瞳をしていた。
「転生にあたり、一つだけ特典を与えます。剣の才、魔法の才、強靭な肉体……。あなたが望むままに」
虚空に浮かび上がったのは、誰もが憧れるようなスキルの数々だった。
だが、俺の目は一つも追わなかった。
まぶたの裏に、あの夜の画面が見えていた。
返信を打っては消した。打っては消した。最後に送ったのは、魂の抜けたコピペの言葉。
イルさんの「やさしいね」という一言が、何年経っても、まだ痛い。
「……能力」
掠れた声がこぼれる。
俺は震える手をぎゅっと握り込み、女神の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「人の……心を読み取って、ちゃんと、話せる能力がほしいです」
「えっ……?」
予想外の言葉だったのか、女神が小さく息を呑む。
「空気を読めて、相手の痛みがわかって……自分の本当の気持ちを、まっすぐ相手に届けられる。そんな、普通のやつ……です」
剣なんて要らない。魔法も要らない。
ただ。
逃げ出したあの夜の続きを、今度こそやり直すために。
喉の奥につかえて、二度と届けられなくなってしまった言葉を、次こそはちゃんと声にするために。
沈黙が落ちる。
やがて、女神の強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。
それから、まるで長年の重荷が解けたように、花が咲くような柔らかい笑みがこぼれた。
「ええ、わかりました。では、あなたに『人の心を汲み、言葉を届ける力』を授けましょう」
温かい光が、足元からゆっくりと包み込んでいく。
溶けていく意識の端で。
女神がそっと俺に寄り添い、祈るように囁いた。
『どうか、あの方を探してあげてくださいね』
誰のことか。
聞き返す間もなく、体は光の渦へと落ちていく。
目を閉じる。
今度こそ。
今度こそ絶対に、自分の弱さから逃げ出さない。
「会いたい」と。ただその一言を、一番伝えたい相手に届けるために。
ゼンとしての、二度目の人生が始まった。




