第73話 紙の剣
ノクトが店先から戻ってきた。
その顔を見るだけで結果は分かった。
「駄目だ、ゼン」
彼は肩をすくめてみせた。
「王国の金貨を見せても誰も首を縦に振らねえ。仕舞いには『その硬貨、ここでは石ころと同じ価値だ』ってさ」
俺は御者台の上でふっと息を吐いた。予想どおりだ。
三百年もの間、人間と魔族の国は互いに関門を閉ざして暮らしてきた。その向こうから来た金貨を、こちらの商人が信用する理由など最初からない。通貨というのは結局、後ろに「保証してくれる国」が立っているから価値を持つ。後ろに何もなければ金貨もただの重い円盤だ。
俺たちは今、その重い円盤を革袋いっぱいに抱えた無一文の集団になりかけていた。
水も食料もまだ要る。それから馬だ。レオンとガランにいつまでも荷車を引かせるわけにはいかない。最低二頭、補給を済ませなければ街を出られない。
俺はいちばん奥の店——軒先に立派な天幕を張った、商人組合の長らしき男のいる店へ視線を向けた。恰幅のいい、立派な角を持つ男だ。値踏みするような目でこちらを見ている。
「あの男に話をさせてくれ」
「ゼン、もう一回突っ込んでも答えは同じだぞ」
「同じ提案をもう一度するつもりはない」
俺は痛む右半身を動かさないように、ゆっくりと懐から手帳とペンを取り出した。左目はまだ霞んでいる。右目はもう何も映さない。それでも頭の中の盤面はまだ動いていた。
商人の長はこちらが近づいていくと、ふんと鼻で笑った。
「客人、悪いがこの街では王国の金は通らぬ。一枚もだ」
「承知している」
俺は御者台から降りず、座ったまま長の目を見た。
「金で払うという話を hierarchy しに来たのではない」
長の片眉がわずかに上がった。
「ほう。では何で払うと?」
「俺たちの名で」
彼の眉がもう一度跳ねた。今度はさっきより深く。
「商品を先にいただきたい。代金は後で清算する。形は証書だ」
「……借用書のことか」
長の声にわずかな侮りが混じった。無理もない。借用書というのは要するに「踏み倒される前提の紙切れ」だ。三百年ぶりに現れた人間が、ろくな担保もなしに「あとで払う」と言ったところで信じる商人はいない。
俺は首を横に振った。
「お尋ねしたい、商会長。この街で商人同士が別の街の商人と取引をするとき——たとえば半月後に隣街で品物を受け取るような取引は、どのように決済しますか」
質問を変えた。商人の長は虚をつかれた顔をした。だが商人の本能は、こういう実務の問いには勝手に答えを出す。
「それは隣街に届けられた品物を向こうの商会が一度受け取り、その商会が私の名でこちらに引き取り証を発行する。私はその証をもって金を受け取る」
「では、その『引き取り証』に利息や期日の決まりは」
「期日はある。利息は商会の判断だ。不履行なら商人組合の判定にかけて相手の店をたたませる」
俺は頷いた。ここまで聞けば十分だった。「無からの提案」をするより、「既に使われている仕組みの上に乗った提案」をするほうがずっと話が早い。
俺は手帳の白い頁を開いてペンを走らせ始めた。書きながら長に続けて尋ねていく。
「この街の次に大きな商業都市は」
「西へ三日、ヴェルゲンだ。アゼル商会が最大手で、我らの組合とも長く取引がある」
俺はペンを止めず書き続けた。
第一条、商品の引き渡し場所——エルバラ。第二条、代金の清算場所——
長は俺の手元を覗き込んでいた。さっきまでの侮りの色はもう消えていた。
「……客人、それは」
「最後の条が肝心です」
俺はペンを止めずに続けた。
「この証書にはこちらの六名の署名が入る。レオン、ガラン、エレーヌ、イリア、ノクト、そして私。——暴竜ヴェルザレードを討った六名の名で」
長の喉がごくりと鳴った。
関門の話はもうこの街中に届いている。三百年、魔王軍が三度の討伐隊を全滅させられた怪物を、たまたまこちらが片づけた。その「六名の名」がいま、この紙切れの上に乗る。
もはやただの借用書ではない。不履行を起こせば、暴竜を討った六名の名が魔族領中に「契約破り」として広まる。そしてその紙を持つ商人にとっては、もし俺たちが踏み倒したとしても、商人組合に判定を委ねれば評価額の三倍が確実に手に入る。
いや、それだけじゃない。
「商会長。この証書、貴方のところで眠らせておく必要はありません」
「……というと?」
「貴方が次に仕入れをするとき、仕入れ先の商人へこの証書を代金の代わりに渡してもいい。受け取った商人はヴェルゲンのアゼル商会で確実に金に換えられる。証書そのものが金と同じように商人の間を流れていく」
長の手がぴたりと止めた。
彼は紙を持ち上げて明かりに透かすようにしばらく見つめていた。一度、二度、三度。
読み返すたびに彼の目の色が変わっていった。最初は半分疑いの目。次は戸惑い。そして三度目には——商人の目になった。値踏みする目ではない。商売を見つけた目だ。
「客人」
「はい」
「あなたは——商人だな」
俺は霞んだ左目だけでほんの少し笑った。
「今は軍師ですが、もともとは商人です」
「いいだろう。この紙、買わせてもらう」
彼は店の奥へ振り向き、若い店員に向かって二、三、短く指示を出した。
水、乾燥肉、麦と豆、塩、布。そして——荷役の馬が二頭。
話はそれで終わりだった。
俺たちの荷車のすぐ脇に、毛並みのいい馬が二頭引かれてきた。鼻先で軽く荷車を嗅ぎ、それからおとなしく轅のそばに立った。
王国の金貨は革袋から一枚も出ていない。
離れたところでエレーヌが、杖の握りをきつくしたままこちらを見ていた。
「ゼン、今のは——……お金、ひとつも動いてないわよ?」
彼女の声には感心と警戒と、それからほんの少しの面白がりが混じっていた。
「動いていない。動かしたのは約束だ」
エレーヌは唇の端だけでふと笑った。
「……魔法よりよっぽど怖いわね、それ」
それから彼女はすぐに真顔に戻った。
「で、ゼン。いずれは払うのよね、これ。金貨でないとしても」
いい質問だ。借りたものは返さなければ次がない。
俺は御者台の上で左目だけを彼女に向けた。
「魔王城だ」
「……は?」
「俺たちの荷台には暴竜の首がある。魔王軍が三度の討伐隊を全滅させられた相手だ。その首を魔王の足元に置けば——あれを片づけたという功績に、相応の報酬は必ず出る。その報酬でヴェルゲンの清算に充てる」
「……それ、最初から計算してたの? 暴竜を討った時から」
「あれを討つかどうか、最初に考えた時からだ」
エレーヌはしばらくこちらを見ていた。それからふと長く息を吐いて肩の力を抜いた。
「……魔導士の私が言うのも何だけど。ゼン、その頭の中はちょっと怖いわよ」
「褒め言葉として受け取っておく」
その横でレオンが何度かまばたきをした。彼の頭の中でばらばらだった駒が、たった今ひとつの線で繋がったのが見ていて分かった。
「軍師殿」とレオンは言った。「暴竜の首は——」
「魔王を引っ張り出すための札でもある」
俺は頷いてみせた。ここから先は慎重に選んで話す必要があった。
「あれを差し出せば魔王本人が出てくる。三百年の悲願を片づけた相手を、使いの者に応対させるような真真似は向こうもしないはずだ。——そこから先はお前たちの役目だろう」
レオンの手がゆっくりと聖剣の柄に戻った。さっき馬の轅を握り直すために離したその手が、また勇者の柄の上に置かれた。
「……つまり暴竜の首は、魔王城の門をこちらから開けさせる鍵だと」
「そういうことだ」
「そしてその鍵を運ぶ路銀は、鍵を引き渡した時の報酬で後払いする」
「そういうことだ」
レオンが軽く息を吐いた。それは感嘆の息だった。
「軍師殿は……魔王を討つ段取りまで、財布の中身込みで考え抜いているのだな」
俺は答えなかった。
答えなくてもレオンは自分で勝手に納得した顔で頷いた。彼にとってゼンが組んだ作戦はこう見えている——竜の首を差し出して魔王本人を引きずり出し、聖剣で討つ。報酬で補給の清算もつく。一石で二鳥どころか三鳥が落ちる。
それは嘘ではない。
ただ、俺の頭の中の盤面ではその同じ駒が別の意味を持っている。俺は魔王を討つつもりがない。俺が欲しいのは、魔王のもとにいるかもしれないもうひとりの転生者の手がかりだ。
仲間は「討つための札」と思っている。俺は「会うための札」と思っている。同じ首が同じ瞬間に二つの意味を持ったまま荷台の上に乗っている。
俺はそのずれをまだ誰にも明かさなかった。明かす時ではなかった。
その横でレオンが、引かれてきた二頭の馬をじっと見ていた。彼の手はもう聖剣の柄から離れて、馬をゆっくりと撫でていた。馬はおとなしくその手を受け入れていた。
「……行こう、軍師殿。次の街まではまだ遠い」
彼の声はいつもより少しだけ低かった。
俺は頷いた。
軋む車輪の音とともに荷車がゆっくりと動き出す。俺は手帳を懐にしまった。
聖剣の通らない場所でもこちらには紙の剣がある。そしてその紙の剣の先に、もうひとつだけ誰にも見えない刃が——「対話」という名の刃が——薄く隠れている。
それを抜く時が来るまで、俺はただの軍師の顔をして御者台に座っていればいい。
馬の蹄の音が石畳の上をゆっくりと刻んでいった。




