第72話 センシュボウエイの掟
エルバラの中央広場に、俺たちは呼ばれた。
石を敷きつめた広い広場の真ん中で、一行の小柄な老人が俺たちを待っていた。この街の長老だという。
長老は俺たちを見ると、ゆっくりと腰を折って深く頭を下げた。
「暴竜ヴェルザレードを討っていただいたこと、エルバラの民を代表して礼を申し上げる」
その声は穏やかだった。芝居がかったところもなく、ただ本当に礼を言っている、という声だった。
俺は御者台ではなく、レオンに肩を借りて地面に立っていた。長老の前で座っているわけにはいかなかったからだ。
「礼には及ばない」
俺は掠れた喉で、それだけ返した。
「あれを討たねば、こちらが先に進めなかった。こちらの都合だ」
長老はふっと目を細めた。笑ったのだと、少し遅れて気づいた。
「正直な客人だ」
それから長老は軽く咳ばらいをして続けた。
「人間の客人がたよ。我らの街には、守っていただきたい掟がひとつある」
レオンの肩が、わずかにこわばったのがわかった。掟、という言葉に身構えたのだろう。魔族の街の掟。それが人間の俺たちに何を強いるのか。
だが、長老の口から出たのは、思いがけないものだった。
「『センシュボウエイの掟』、という」
「……センシュボウエイ?」
レオンが未知の呪文でも聞くように、その言葉をぎこちなく繰り返した。
「我らの言葉だ」
長老は言った。
「平たく言えば――我らは攻めぬ。守るだけだ、ということだ」
広場に風が抜けた。露店の天幕がぱたぱたと鳴った。
「人間がこの街に来ても、剣を抜かぬ限り我らも抜かぬ。それがこの街の掟であり、魔族領のどこへ行っても変わらぬ建前だ」
長老は皺だらけの手を、ゆっくりと持ち上げた。
「五年前、魔王イルミナ様が顕現された。そのイルミナ様が、まず最初に魔族領の全土へ向けて発布されたのが、この掟だった。――『攻めるな。守れ。攻めてくる者にはまず話せ。それでも刃を向ける者にだけ、刃を返せ』。我らはこの五年、その教えのとおりに生きてきた。おかげで戦いを、最小限にとどめてこられた」
レオンの顔から、すうっと血の気が引いていくのが横目に見えた。
「魔王が」
レオンの声が震えていた。
「魔王が――攻めるなと命じているのですか。魔族に」
「左様」
長老は、何でもないことのようにうなずいた。
その「左様」のあまりの軽さで、彼は何か言いかけて、言葉を見つけられずに口を閉じた。
代わりにエレーヌが進み出た。彼女は今まで多くの魔族の街を魔法で焼いてきた女だ。その彼女の声が、はっきりと震えていた。
「では……お尋ねします。この五年、王国軍と魔族軍とのあいだで戦闘は何度もありました。数えきれないほど。それは――」
「すべて、我らの領内で起きたものだ」
長老はエレーヌの言葉を、最後まで言わせなかった。言わせる必要がなかったのだろう。
「我らのほうから人間の領土へ攻め入った戦場は、この五年、ただのひとつもない。一度もない。我らはいつも、攻め込まれる側だった。そして、掟のとおり守ってきた」
広場が静まり返った。
露店の喧騒も、子供の声も、その一角だけ遠ざかったように聞こえた。
俺は仲間たちの背中を見ていた。
エレーヌの杖を持つ手が力なく下がり、イリアが息を呑む音だけが聞こえた。
レオンとガランは動かなかった。動けなかった、というほうが近い。
無理もない。彼らが王都で叩き込まれてきたものは、たったひとつの単純な命題だった。魔王は世界の脅威である。魔族は放っておけば人間を滅ぼす。だから討つ。勇者の旅は、そのためにある、と。
その命題が、たった今、長老の穏やかな声で根元から音を立てて折れた。
俺はその光景を、少し離れたところから見ていた。
そして正直に言えば、俺の頭は仲間たちとは、まったく別のものに奪われていた。
(センシュボウエイ……専守防衛、だと?)
俺はその四文字を、頭の中でもう一度転がした。
長老が口にした掟は、よく聞けば、ただのお題目ではなかった。きちんと段が組まれていた。攻めるな。守れ。攻めてくる者にはまず話せ。それでも刃を向ける者にだけ、刃を返せ。
四段だ。四段構えになっている。
まず、攻撃そのものを禁じる。次に、防衛だけを許す。さらに、防衛に入る前に対話の段を一段挟む。そして最後に対話が決裂し、相手が刃を抜いた、その時にだけ応戦を許す。
単語ひとつが、たまたま前世のものと似ていただけなら、偶然で片づけられる。「専守防衛」という熟語の響きが、たまたまこの世界の古語と一致した――そう思うことも、できなくはない。
だが、これは違う。
これは単語じゃない。完成された、ひとつの防衛思想だ。攻撃と防衛を分け、そのあいだに対話を一段、明確に置く。武力を最後の最後の手段として、何重もの段のいちばん底に封じ込める。こんな精密な思想が、この異世界の片隅の街で自然に生まれて、五年で全土に行き渡る――そんなことが、あるだろうか。
ない、と俺は思った。
これは生まれたものじゃない。持ち込まれたものだ。前世の、あの世界から。誰かが、まるごと運んできたものだ。
俺の中で、ばらばらだったものがひとつに繋がっていく。
市場の井戸端で見た、『ナマポ』、という看板。働けない者を共同体で食わせる決まり。あれも、この世界の言葉ではなかった。
関門を血を流さずに通れたこと。魔族領の道に花の列が咲いていたこと。子供が笑って鬼ごっこをしていたこと。
全部が、ひとつの方向を指していた。
魔族の中に、いる。
俺と同じ場所から来た者が。前世の知識を、この世界に運び込んだ者が。
そして、その思想を五年前、全土へ向けて発布できる立場にいた者は――ひとりしか、いない。
魔王イルミナ。
あれは、おそらく転生者だ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥が静かに熱を持っていた。イルへ続くかもしれない糸が、また一本、たしかな手応えで指に触れた気がした。
その時、ふと視界の端にガランが入った。
ガランは何も言わずに、長老の話を聞いていた。
俺は彼の横顔を見た。スキルは、もうない。彼の頭の上に心を映す文字は、もう浮かばない。
それでも俺には読み取れた。長老が掟を語るあいだ、ガランは何度も深くうなずいていた。その所作には嘘がなかった。伏せた目は静かで、固く結ばれた口元には、ある種の真剣さがあった。ガランは、この「攻めず、守る」という掟を心の底から、尊いものとして受け取っている。
だが、それだけではなかった。
うなずく合間に、ガランの眉が、ときおりわずかに寄った。掟の正しさを噛みしめる顔の、その下に別の何かが薄く覗いた。
案じている。
ガランは何かを恐れている。この穏やかな街の、この美しい掟の、その先にあるものを。
それが何なのか、俺にはまだわからなかった。問いただす場面でもなかった。俺は、ただ、その横顔を覚えておくことにした。
長老との話が終わり、俺たちは宿へ引き上げた。
その夜、俺が宿の廊下を通りかかると、屋根へ続く梯子の上にレオンの足が見えた。
屋根に、ひとりで座っていた。この姿を見るのは二度目だ。
俺は声をかけなかった。かけるべき夜ではなかった。
ただ、見上げた先で月の光が、彼の輪郭を白く縁取っていた。レオンは聖剣を、膝の上に横たえて乗せていた。鞘から抜きもせず、ただ膝に乗せて月を見上げて、長いあいだ動かなかった。
やがて、彼が聖剣を抱え直す気配がした。
鞘の中で、刃がかちりと鳴った。
その音が、いつもよりほんの少しだけ鈍く聞こえた。
俺はそれ以上、見ないことにして廊下を奥へ歩いた。




