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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第4章 魔族領

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第71話 魔族領進入

 関門をくぐってから半日が過ぎた。


 俺は荷車の御者台に座っていた。

 降りられなかったというのが正しい。右半身の火傷はまだ言うことをきかない。右目はもう何も映さないし、残った左目も朝からずっと薄い霧の向こうを見ているようにぼやけている。御者台に座っているだけで精一杯だった。

 馬はいないのでガランとレオンが引いてくれている。さすがにどこかで手に入れなければならない。

 俺がしているのはただ座っていることと、考えることだけだ。


 考えることならいくらでもあった。

 荷台の上には布をかぶせた巨大な塊がある。

 暴竜ヴェルザレードの首だ。皮も剥がず肉も落とさず、原型のまま運んでいる。仲間たちはこれを「魔王軍への手土産」だと思っている。間違ってはいない。三百年、魔王軍が果たせなかった悲願を人間が代わりに片づけてやった——その証として、これ以上のものはない。

 ただ、俺の頭の中では、この首の意味はもう少しだけ違っていた。


 国王は俺たちに魔王の討伐を命じた。レオンもガランもエレーヌもイリアも、そのつもりでこの旅をしている。魔王城へ行き、魔王を討つ。それが勇者一行の旅だ。

 だが、俺の目的は討伐ではない。

 俺は魔王に会いたい。会って話がしたい。

 この荷台の首はそのための切り札だ。剣を抜かずに魔王の前まで通してもらうための、たった一枚の交渉の札。仲間が『討つための作戦』と思っているものを、俺は『会うための作戦』として組み立てている。

 その、ずれ。

 俺はまだそれを誰にも打ち明けていなかった。前世のこともイルのこともガランとイリアには話した。だが『本当は、魔王を討つ気がない』とまでは、まだ言えていない。


 魔族領の道は思っていたよりもずっと普通だった。

 俺は正直、もっと荒れた土地を想像していた。骨の散らばった荒野とか煙の立ちのぼる岩場とか、王都の本で読んだようなそういうものを。だが実際の道はただの道だった。轍が深く刻まれていて、両脇には名前も知らない黄色い花が列になって咲いている。

 昼を少し過ぎたころ、その街は見えてきた。


「……着いた、みたいだな」


 手綱を握ったノクトがぽつりと言った。

 街の名前はエルバラというらしい。関門の魔族兵が通行証の代わりに渡してくれた木札にそう彫ってあった。

 ここは目的地ではない。魔王城へ向かう長い道のりのただの通り道だ。一晩、体を休めて水と食料を補給したらすぐにまた発つ。それだけの街——のはずだった。

 赤い瓦の屋根。白く塗られた壁。石を敷きつめた通り。

 俺はしばらくそれを見ていた。それから、自分の予想がまるごと外れていたことを認めた。レオンの予想もたぶん同じくらい外れていたはずだ。なぜならその街は——どこからどう見ても、人間の街と何ひとつ変わらなかったからだ。


 門には見張りはいたが、暴竜討伐の話が先に届いていたのだろう、俺たちの荷車を見ると何も言わずに通してくれた。

 街に入ってすぐの広場の隅に俺たちは荷車を停めた。

 荷台の暴竜の首はここから先、市場の細い通りにはとても入らない。それに、これは魔王に届けるための手土産だ。街の誰かに見せて回るものでも、預けてしまうものでもない。布をしっかりかけ直して、荷車はこの広場に置いていくことにした。

 見張りは街の守備兵が二人買って出てくれた。暴竜を討った一行の荷だと知ると、彼らはむしろ誇らしげに槍を持ち直して荷車の両脇に立った。盗む者などいないとは思うが、布の下が何かを知れば好奇心で覗きたがる者は出るだろう。見張りがいるに越したことはない。


 俺は御者台から降りた。

 降りるというほど立派なものではない。レオンが横から肩を貸してくれて、俺はそれに半分ぶら下がるようにしてようやく石畳に足をついた。情けない話だが、今の体ではこれが精一杯だった。

 関門では降りた瞬間に威圧が半減するなどと気を張っていた。だが、ここは関門ではない。ただの通りすがりの街だ。気を張る相手もいない。

 レオンに支えられて、俺はゆっくりと市場のほうへ歩き出した。


 街に入って最初に俺の耳をついたのは魚を売る声だった。

 市場だった。台の上に魚が並び、店の主人が値段を叫んでいる。隣のパン屋からは焼きたての匂いが風に乗って流れてくる。小麦と、油と、酵母の混じった匂い。

 歩いている者たちの頭には角があった。

 短いのや長いのやねじれたのや。形はさまざまだったが、とにかく角があった。

 違いといえば本当にそれだけだった。あとは何もかも人間の街と同じだ。買い物をして子供を叱って、井戸のそばで噂話をしている。


「……なんだ、これは」


 レオンの声だった。

 振り返ると、彼は街の真ん中で足を止めていた。聖剣の柄に手はかかっていない。ただ立ち尽くしている。


「なんだ、これは。聞いていた話と、違う」


 その少し後ろでエレーヌが杖を両手で握ったまま動けずにいた。彼女は魔族の街を焼く魔法をいくつも仕込んできた砲手だ。

「私たちが」と、彼女は言った。声が少し掠れていた。

「私たちが、焼き払えと命じられてきたのは……これ、なの」


 誰も答えなかった。

 答えられる者がいなかった。

 イリアは何も言わなかった。ただ市場の真ん中で鬼ごっこをしている子供たちをじっと見ていた。気づくと、その頬を涙がひとすじ伝っていた。彼女はそれを拭おうともしなかった。


「……子供たちが、笑ってます」


 やっとそれだけ言った。

 俺は御者台の上からその光景を見ていた。

 胸の中に何か言葉にすべきものがある気はした。だが、うまく形にならなかった。ただ王都で配られていた地図のことを思い出していた。魔族領はまっさらな赤い色で塗りつぶされていた。地名も川も何も書かれていなかった。あの赤は、こういう街を丸ごと一色で塗りつぶした色だったのだ。


 あとになって俺はこの街の成り立ちを知ることになる。エルバラは、かつてこのあたりで栄えた『共生村』という村の生き残りを多く受け入れた街なのだという。だから種族の違いで人を分けない。それがこの街の当たり前だった。


 すれ違う魔族たちがガランの姿を見るとわずかに足を速めるのだ。

 あからさまではない。露骨に逃げるわけでも何かを言うわけでもない。ただ、子を連れた親が子供の肩にそっと手を回して自分の体の後ろへ移す。立ち話をしていた者が会話を続けたまま、半歩ガランから遠ざかる。その程度の小さな動きだ。だが、小さいからこそそれが彼らの体にしみついた反応なのだということがよくわかった。

 ガランは獣人だ。


 角のない魔族にも人間にもこれだけ何でもなく接するこの街が——獣人にだけは薄い、けれど確かな壁を立てていた。怯えのような恨みのような、古くて冷たい何か。それがガランの周りの空気にだけ貼りついていた。

 ガランは何も言わなかった。

 ただ歩く速さを少しずつ落として列のいちばん後ろに下がった。自分の大きな体が誰かを怯えさせる、そのことにもう慣れきっている者の動きだった。文句も悲しそうな顔も何もない。それがかえって見ているこちらの胸を重くした。


 なぜ獣人だけが。

 俺にはわからなかった。暴竜を討った英雄の一行という肩書きはガランにとっても他の四人と同じはずだ。なのに、その肩書きがガランにだけは効いていない。


 あとで俺は知ることになる。これが、かつてこのあたりにあった共生村で起きたある出来事に根を持つものだということを。だが、このときの俺はまだ何も知らなかった。知らないまま、ただガランの広い背中がいつもよりほんの少し丸まって見えた。


 市場の途中でレオンが武具を扱う店の前で足を止めた。

 砥石を手に取っている。聖剣の刃を研ぎ直すつもりなのだろう。

 次の戦いの支度をしている。

 魔王城へ行き、魔王を討つ。そのための買い物だった。


 俺はその様子をレオンの肩を借りたまま黙って見ていた。

 仲間が研いでいる刃を俺は使わせるつもりがない。俺は魔王にぶつけさせるつもりがない。

 俺が荷台に積んでいるのは剣ではなく暴竜の首だ。あれは斬るための道具ではなく「会わせてくれ」と言うための交渉の札だ。

 みんなは討つための支度をしている。俺は会うための支度をしている。同じ街を同じ歩幅で歩きながら、向いている先が俺だけ違う。

 いつかは言わなければならない。だがそれは今日ではなかった。今日のところは自分の中だけにしまっておく。


 市場を抜けるあいだ、俺は手帳を取り出していた。


 霞む左目をときどき指で擦りながら、商品の値段、店の並び、人の流れを書き留めていく。役に立つかどうかはわからない。ただの癖だ。前世から続くどうしようもない癖。情報を見ると書かずにいられない。書いて、並べて、眺めずにいられない。

 その手がふと止まった。


 市場の片隅、共同の井戸の脇に小さな木の看板が立てかけてあった。

 何の気なしに、俺はそこに彫られた文字を目で追った。


『ナマポ 怪我や病による就労不能者には、共同体より食糧を支給するものとする』


 俺はその一行を二度読んだ。

 それからもう一度。

 書いてある内容はわかる。働けなくなった者を村ぐるみで食わせるという決まりだ。立派な決まりだと思う。だが、俺の呼吸を浅くしたのは内容のほうじゃなかった。


 頭の一語だ。

 ナマポ。


 その三文字を俺は知っていた。

 この世界の言葉じゃない。エルバラの言葉でも人間の王都の言葉でもない。あれは——前世の、俺のいたあの世界のネットの隅で使われていた、ただの俗な略語だ。生活保護を誰かがどこかで縮めてそう呼びはじめた、画面の中だけの軽い言葉。


 そんな言葉がなぜ。

 角のある者とない者と人間とが当たり前に暮らす、こんな街の井戸端の古びた看板に。

 午後の風がまたパンの匂いを運んできた。

 俺は手帳を持つ手を下ろしたまま、しばらくその看板の前から動けなかった。

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