第70話 手土産は竜の首
暴竜の血の臭いが、まだ微かに鼻腔の奥にこびりついている。
討伐から一夜明けた朝。岩山の中腹から、ノクトが一台の荷車を引いて戻ってきた。大人四、五人が寝そべっても余るほどの荷台。木枠には無骨な鉄の補強が打ち込まれ、屋根代わりの幌は半分が破れて垂れ下がっている。重い物を運ぶためだけに作られた車だ。
「岩山の北の窪みにあった。討伐隊の、野営の跡だ」
ノクトが轅を地面に下ろす。ああ、と俺は察した。魔王軍は過去三度、この暴竜に討伐隊を送り、三度とも全滅した。乗り手を失った運搬車が、打ち捨てられていたわけだ。
「幌は破れてるが、車軸は生きてる。……ちょうど、いいだろう」
ちょうどいい、の意味はわかっている。あの巨大な首を、これから運ぶ。
ガランが荷車の周囲を一周し、丸太のような指で枠の強度を確かめ、深く一度だけ頷いた。この男が頷いたなら、大丈夫だ。
暴竜の首は、皮も剥がず肉も削がず、原型のまま運ぶ。それは俺が決めたことだった。素材に解体すれば、ただの「高価な戦利品」に成り下がる。だが首を首のまま届ければ――三百年、誰一人討てなかった化け物を確かに屠ったという、ひと目で喉元に突きつけられる「証明」になる。
レオンとガランが二人がかりで首を荷台へ載せ、布で覆い隠した。
二日後の朝。俺たちは関門の前に立っていた。
黒い石を隙間なく積み上げた巨大な壁。人間の領土と魔族の領土を分かつ、最後の境目だ。門の上の物見の塔に、豆粒のような人影が蠢いている。
俺は荷車の御者台に座っていた。引くのは馬ではなく、レオンとガランだ。
正直、座っているのがやっとだった。暴竜の業火に焼かれた右半身は布の下で未だ熱を持ち、少し動かすだけで殴られるような痛みが走る。右目はもう光を拾わない。それでも、俺は降りなかった。満身創痍の男が御者台にまっすぐ座り、微動だにしない。相手の予測を外す底知れなさは、交渉において立派な武器になる。コンサル時代の経験から、それは骨の髄まで染み込んでいた。
「止まれ!!」
頭上から声が降ってきた。見上げて――俺はわずかに片眉を上げた。
そこに並んでいたのは、整然と弓を構えた精鋭ではなかった。サイズの合わない胴鎧を引っかけただけの者。継ぎの当たった農着のまま、震える手で槍を握る者。武器も不揃いで、弦を引く腕は細かく震えている。
――兵じゃない。三度の討伐で精鋭をすり減らした魔王軍に、辺境の関門まで正規兵を割く余力はないのだろう。駆り出されたのは、近隣の村の民だ。農具を持つ手に急ごしらえの弓を握らされた、ただの臨時の門番たち。
その中央に、年かさの男が一人。青みがかった灰色の肌に、深く刻まれた皺。周りがその指図を待っているのが、立ち位置だけでわかった。
「人間か……! 何用だ」
その声は冷たさとはほど遠く、疲れと警戒、隠しきれない怯えがにじんでいた。
「ここから先は魔族領だ。立ち去れ。……でなければ、撃つぞ」
撃つぞ、の語尾がわずかに上ずる。脅し慣れていない者の声だ。
俺は動かない。こういう時は言葉を重ねるより、現物を見せるに限る。
隣で、ノクトがひらりと荷台の屋根へよじ登った。破れた幌の上に立ち、両手を大きく広げる。
「お届け物だ! 開けろ! 見れば、わかる!」
俺はガランへ視線で合図を送った。ガランの太い手が布の端を掴み、ひと息に引き剥がす。
バサリと布が滑り落ちた、その瞬間――関門の上が、凍りついた。
荷台の上に、それは鎮座している。
《赤鱗のヴェルザレード》。
三百年この地に君臨し、討伐隊を三度全滅させた、生きた絶望。その巨大な首が、皮を剥がれることもなく朝の光にさらされていた。潰れた両目。剥がれ落ちた半分の鱗。喉の奥まで深々と斬り裂かれた致命の傷跡。
静寂が、長く続いた。
「……ヴェル、ザ……」
誰かの掠れた呟きが、ぽつりと落ちた。それが、合図だった。
「ヴェルザレードだ……!」
「あの化け物の首だ――!」
堰を切ったように声が爆ぜた。だがそれは、殺気のざわめきではなかった。
塔の上で、女が両手で口を覆い、その場に崩れ落ちた。若い男が弓を取り落とし、顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した。腰の曲がった年寄りが、震える指で何度も荷台の首を指さしている。歓声と嗚咽と、信じられないという叫びが入り混じって、朝の平原に降りそそいだ。
――そうか、と俺は思った。
あの暴竜は、三百年のあいだ幾度も里へ降りてきたのだ。畑を焼き、家を踏み潰し、人を喰らった。ここに並ぶ者たちは、一人残らず、あれに何かを奪われている。俺が運んできたのは、軍に突きつける証明などではなかった。この者たちにとっては――三百年続いた悪夢が、ようやく終わったという知らせそのものだった。
取りまとめ役の男は、構えていた弓をゆっくりと下ろした。下ろした腕が、小刻みに震えている。皺の刻まれた頬を、一筋、流れ落ちるものがあった。
「……三年前だ」
男の声は、ひどく掠れていた。
「三年前、あれが里へ降りてきた。畑も家も焼かれた。俺の女房も、孫も、あれに喰われた。ここにいる連中は、みんな同じだ。みんな、あれに、誰かを」
その先は、言葉にならなかった。
俺は浅く息を吸い込んだ。用意していた口上が、喉の奥でほどけて消えていく。損得を並べた交渉の言葉。
それは、兵に向けるものだった。ここに並んでいるのは、畑を奪われた、ただの百姓たちだ。
「……討った」
あの戦いで使いきった、ひどい声だった。それでも言葉はブレることなく、平原をまっすぐ渡っていく。
「もう来ない。二度と、誰の畑も焼かない。誰も、喰わせない」
俺は一呼吸、間を置いた。
「通行の許可をいただきたい。それだけだ」
以前の俺なら、男の沈黙を損得を秤にかける時間と読んだだろう。だが、ここに天秤にかけるものなど、何一つなかった。
男は荷台の首を見上げたまま、背後の門番たちへ震える声で何かを命じた。
ズズン、と重い鉄の音が響く。関門の巨大な門扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。何年も、人間に対しては決して開かれることのなかった門だ。
荷車が重々しい音を立て、動き出す。一兵の血も流れず、矢の一本も放たれることなく、人間の一行が魔族領の関門をくぐり抜けていく。
石のアーチの下を進みながら、俺はふと隣のレオンを見た。
レオンは剣の柄から手を放し、ただ関門の上を見上げていた。泣いている魔族たちを。弓を取り落として泣きじゃくる若者。腰を抜かした女。孫の名を呼びながら荷台の首に頭を下げ続ける老人。
そこにいたのは戦士ではなかった。畑を焼かれ、家を失い、家族を喰われた、ただの農夫たちだった。王都で「守るのだ」と教え込まれてきた、あの村人たちと何ひとつ変わらない。
レオンは何も言わない。けれど、俺には痛いほどわかった。
魔族は絶対の悪であり、問答無用で討滅すべき邪悪な軍勢――王都で塗り固められた絶対の真理に、いま決定的なひびが入ったのだ。邪悪な軍勢に、焼かれて泣く畑などない。喰われた孫の名を呼んで泣き崩れたりはしない。彼が与えられてきたシナリオの世界に、いるはずのなかった者たちだ。
軋むべきものは、軋めばいい。痛みを伴って古い枠がいちど壊れなければ、新しいものは決して入ってこない。俺は声をかけて止めようとは思わなかった。
荷車の車輪が、ついに魔族領の土を踏みしめた。硫黄でも血でもない、乾いた新しい土の匂いが鼻腔をかすめる。
ここから先は、誰も正解の地図を持っていない。俺の知らない、未知の盤面だ。
それでも、と俺は思い、白く霞む左目をまっすぐ前へ向けた。
駒は、五つとも無事に盤上に生き残っている。プレイヤーである軍師は片目を失い、半身を焼かれた。けれど、まだ席に座っている。
なら、次の盤面も、きっと組めるはずだ。
軋む車輪の音が、未知の領土への始まりを告げながら、ゆっくりと前へ進んでいった。




