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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第4章 魔族領

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第69話 無くした物と得たもの

 目を覚ましたとき、辺りはもう夜だった。


 最初に感じたのは、焚き火のパチパチという音だった。次に、布のにおい。土のにおい。そしてその奥に、まだかすかに残る硫黄のにおい。

 俺は、自分が天幕の中にいることを、ゆっくりと理解した。岩山のふもとに、野営地が張られたのだろう。あの戦いのあと、誰かが俺をここまで運んでくれたのだ。


 体を少しだけ動かそうとして、やめた。

 右半身に、布が何重にも巻かれていた。動かそうとすると、皮膚の下から鈍い痛みがじわりとせり上がってくる。

 けれど、痛いということは、生きているということだ。俺は、まだ生きていた。


 ただ、天幕の天井を見上げたとき、俺はすぐに気づいた。

 視界が、半分しかない。


 右目に、布が当てられていた。だが、布をどけたところで同じだろう。それはすぐにわかった。右目のあったあたりには、もう光も影も、何も映らない。ただ暗いだけだ。

 あの業火を、正面から浴びた。喉は岩が庇った。けれど、岩の隙間から突き出していた右目は、庇いきれなかったのだ。

 目という器官は繊細だ。腕や肩は、大きな傷でも時間をかければある程度は戻る。だが目は、焼かれてしまえばそれきりだった。


 俺は、片目を失った。


 そして、俺が本当に気づいたのは、そのすぐあとだった。

 天幕の中で、イリアがこちらを見ていた。俺はなんとなく、彼女の頭の上を見た。


 何も、なかった。


 いつもなら、そこには文字が浮かんでいた。心配とか、安堵とか。淡い色をした、その人の心を映す文字。女神がこの世界に俺を送り出すとき、授けてくれたただひとつの力だ。

 俺が初対面の相手の心の動きをひと目で読めたのは、それがあったからだった。初対面でも感情が見抜けたのも、戦場でエレーヌの困惑が誇りに変わる瞬間を捉えられたのも、全部あの文字のおかげだ。


 その文字が、消えていた。


 いくら目を凝らしても、イリアの頭上にはもう何も浮かばない。

 業火に焼かれたのは、右目だけではなかったらしい。女神のスキルもまた、その右目に宿っていたのだろう。目が失われると同時に、力も消えた。

 残ったのは、ただの左目ひとつ。文字を映さない、ふつうの人間の目だ。


 不思議と、悲鳴のような動揺はこなかった。

 ただ、胸の奥がすっと静かになった。その静けさの中で、俺はずいぶん遠くのことを思い出していた。


 前世の、俺のことだ。


 あの世界の俺は、人の気持ちがまるでわからない男だった。

 相手が何を感じているか、何を言ってほしいのか、何を言われたら傷つくのか。そのごく当たり前のことが、どうしてもつかめなかった。だからいつも、正しいことばかりを口にした。正論はいつでも正しい。正しいのだから、言って何が悪い。そう思っていた。

 その正論で、俺は何人の客を怒らせただろう。何度、打ち合わせの席を凍りつかせただろう。

 やがて俺は、人と関わらなくて済む部署へと、静かに移された。誰のせいでもない、と言われた。けれど、それが体のいい厄介払いだということくらい、さすがの俺にもわかった。

 人の心がわからない男に与えられた、人のいない場所。それが、前世の俺の行き着いた先だった。


 女神のスキルは、たぶん、そんな俺への餞別のようなものだったのだ。

 お前は人の心が読めないだろう。だから、これを持っていきなさい、と。頭の上に答えが浮かぶ。それを読めば、もう誰も怒らせずに済む。

 補助輪だ。自分ではまっすぐ走れない子供に、つけてやる補助輪。


 その補助輪が、今日、外れた。


 俺は、もう一度イリアの顔を見た。

 文字はない。彼女の頭上は空っぽだ。

 それでも。


 目の下の、うっすらとした隈。膝を抱えた腕の、力の入り方。俺がわずかに身じろぎした瞬間、ぴくりと動いた肩。

 この子はずっと眠っていない。俺が目を覚ますのを、怖さと祈りの両方を抱えて、ここで待っていた。

 わかった。文字なんかなくても、わかった。

 胸の奥の静けさの正体に、俺はそこでようやく気づいた。

 これは、何かを失った静けさじゃない。補助輪が外れて、それでも自転車が倒れなかった、その静けさだ。


「……起きたんですね」


 イリアの声で、我に返った。


「ああ」


 声を出すと、喉の奥がわずかに引きつった。あの戦いで、限界まで使いきった喉だ。完全には戻っていない。それでも、言葉はちゃんと出た。


「すまない。……二度も、お前に助けられた」


 イリアが、ゆっくりと首を横に振った。


「最初のときは」と、彼女は言った。「私はただ、必死だっただけです。目の前で人が死にそうで、それが怖くて、夢中で祈っただけ。助けたかった、というより……どうしていいか、わからなかった」


 彼女は、自分の手のひらを見つめた。


「でも今日は、違います。今日は、私が決めました。この人をつなぎとめる、って」


 その声には、迷いがなかった。

 けれど、その迷いのなさが、ふっと途切れた。彼女の視線が、俺の右目を覆う布の上で止まった。


「……ごめんなさい」


 イリアの声が、急に小さくなった。


「ゼンさんの命は、つなぎとめられました。火傷も、これから時間をかければ塞がっていきます。でも、右目だけは、私の祈りでもどうにもできませんでした。間に合わなかった。あの炎が、もう、目そのものを……」


 彼女はそこで、言葉に詰まった。膝の上で握られた手が、白くなるほど強く握りしめられている。

 俺は少しのあいだ、何と返すべきかを考えた。

 前世の俺なら、ここで何を言っただろう。たぶん、こうだ。「気にするな。目の一つや二つ、失ってもどうということはない。お前は最善を尽くした」。正論だ。一分の隙もない、正しい言葉。

 そしてその正しい言葉は、たぶん彼女をもっと追いつめた。最善を尽くしたと言われた人間が、それでも結果を出せなかったとき、逃げ場がどこにもなくなることを、前世の俺は知らなかった。

 今は、わかる。彼女が今、握りしめているものを、正しさで押し返してはいけない。


「イリア。顔を上げてくれ」


 彼女が、おずおずと視線を上げた。


「お前は、間に合わなかったんじゃない。間に合わせたんだ」


 イリアの目が、わずかに見開かれた。


「あの状況で、俺の心臓は止まる寸前だった。命の漏れる速さに、お前の祈りが追いつくかどうか。お前は、その勝負に勝った。俺が今こうしてお前と話せている。それが答えだ」


 俺は、左目だけでまっすぐに彼女を見た。


「目のことは、お前のせいじゃない。あれは、俺が自分の判断であの位置に立って、自分で背負った代償だ。お前が引き受けるものじゃない」


 イリアはしばらく、黙っていた。

 それから、握りしめていた手を、ゆっくりとほどいた。完全に、ではない。けれど、さっきよりは確かに、力が抜けていた。


「……はい」


 小さな声だった。けれどその声には、もう、さっきの震えはなかった。

 俺は、その横顔を見ていた。

 文字は見えない。それでも、彼女の中で強張っていた何かが、今、ほんの少しほどけたのがわかった。

 わかるということが、こんなにも静かで確かなことだとは、思わなかった。

 それから、ふと、別のことを思い出した。


 今日、あの岩山の上で。

 俺は半身を焼かれて、岩に挟まれて、声を出すたびに喉が裂けても、それでも仲間に指示を返し続けた。攻めろ、と。振り返るな、と。声が届くかぎり、俺は返事をし続けた。

 返事を、し続けられた。


 なのに、たった一度の、本当に大事な「便り」には、俺は返事をしそびれたまま終わったのだ。


 その思いが、胸の奥でちくりと痛んだ。

 補助輪を失った今だからこそ、はっきりと見えてしまったのかもしれない。

 あの読み落としは、忙しさのせいなんかじゃなかった。あれもまた、人の心がわからない男の犯した過ちだったのだ。


「……イリア」

「はい」

「ひとつだけ、聞いてほしい話がある」

「どうぞ」


 俺は、視線を天幕の天井へ移した。布の縫い目を目でたどりながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「前世の、話だ」


 イリアの肩が、ほんの少し動いた。

 驚いた、というよりは、その言葉の重さを静かに受け止めた、という動きだった。


 俺が「前世」という言葉を口にした相手は、ガランに続いて、彼女が二人目だった。

 ガランには、エルナ郷で、ぽつりと打ち明けた。あの無口な男は、振り返りもせず、ただ黙って聞いてくれた。

 一度、誰かに口に出してしまうと、二度目はずっと楽になる。


「俺がいた世界に、相棒がいた」


 俺は続けた。


「ただ、その相棒とは、一度も顔を合わせたことがなかった。声も知らない。どんな背格好なのかも、何も知らない」


「……顔を合わせずに?」


 イリアが、小さく首をかしげた。

 無理もない。この世界では、肩を並べて戦う相手の顔を知らないなんてことは、ありえないだろう。


「俺のいた世界には、遠く離れた相手と、文字だけを送り合える仕組みがあったんだ」


 俺は、できるだけわかりやすい言い方を探した。


「手紙のもっと速いやつ、とでも言えばいいか。書いた文字が、ほとんど時間をおかずに相手に届く。返事もすぐ来る。俺とその相棒は、その文字だけで何年も一緒に戦ってきた」


「……何年も、文字だけで」


「ああ。顔も声も知らないのに、不思議と、息はぴったり合った。イル、という名前だった」


 焚き火が、ぱちんとひとつ爆ぜた。


「女の相棒、ですか」

「ああ」


 俺はうなずいた。それから、いちばん言いにくい部分に差しかかった。


「ある日、そのイルが、俺に短い便りを寄越した。ほんの数行の文章だ。今になって思い返すと、あれは助けを求める便りだった」


 天井の縫い目をたどる視線が、止まる。


「あいつは何かに、ひどく追いつめられていた。その数行の中に、たしかにそれが滲んでいた。滲んでいたんだ。読める人間が読めば、わかるくらいには」


 俺は、一度言葉を切った。

 ここから先を言うのは、自分で思っていたよりも、ずっと苦しかった。


「でも、そのときの俺は、それを読み取れなかった。文字は目に入っていた。なのに、その奥にあるあいつの心は、まったく見えていなかった。人の気持ちがわからない男だったからだ。前世の俺は、ずっとそうだった。だからその一通も、後回しにした。返事をしないまま」


「……」


「返事をしないまま、俺は死んだ。そして、この世界に来た」


 天幕の中が、しんと静まった。焚き火の音だけが、小さく続いている。


「あいつがあのあとどうなったのか、俺は知らない。知る方法も、もうない」


 俺は、左手で布の巻かれた右腕にそっと触れた。


「女神は、この世界に俺を送るとき、ひとつだけ力をくれた。人の心が、文字になって見える力だ。たぶんあれは、憐れみだったんだと思う。人の気持ちがわからないお前には、これがないと無理だろう、という。補助輪だ。俺みたいな人間が、人の中で生きていくための」


 俺は、ふっと息を吐いた。


「その力が、今日、右目と一緒に消えた」


 イリアが、息をのんだ。


「……消えた? ゼンさんの、女神さまのお力が?」

「ああ。もう、誰の心も、文字では読めない」


 彼女の顔に、はっきりと痛ましさが走った。文字がなくても、それはよくわかった。

 けれど、俺は首を横に振ってみせた。


「いや、そういう顔をしなくていい。さっきからな、イリア。俺は、お前の心がちゃんとわかっているんだ」


 イリアが、まばたきをした。


「文字は見えない。なのに、わかる。お前が眠らずに俺を待っていたことも。右目のことで自分を責めていたことも。今、俺のスキルが消えたと聞いて、俺のために痛ましいと感じていることも。全部、お前の顔と、声と、手の動きからわかった」


 俺は、左目だけで彼女を見た。


「補助輪が外れたんだ。それでも、俺は倒れなかった。たぶん、いつの間にか漕げるようになっていた」


 声が、自分でも少し揺れた。


「お前たちと過ごした時間が、俺にそれを教えた。前世の俺が、何十年かかってもできなかったことを。女神の力じゃない。お前たちと一緒にいて、覚えたんだ。人の心の、読み方を」


 イリアはしばらく、何も言わなかった。

 それから、ゆっくりと手を伸ばして、俺の左手に自分の手をそっと重ねた。その手は、戦場で俺の命をつなぎとめたときよりも、ほんの少しだけ近くにあった。


「……それなら」と、彼女は静かに言った。「イルさんへの便りも、きっと、今のゼンさんなら読めます」


 俺は、彼女の顔を見た。


「今のあなたなら、あの数行の奥にある『助けて』に、ちゃんと気づけます。読み落とさない。後回しにもしない。あなたは、もう、そういう人です」


 胸の奥が、熱くなった。

 前世で、誰にも言われたことのない言葉だった。


「だから」と、イリアは続けた。「もし、いつかその人に会えたら。そのときは、ちゃんと伝えてください。今度こそ」


「……何を、伝えればいい」


 自分でも、不思議だった。

 伝えたい言葉なら、ずっと胸の中にあったはずだ。なのに俺は、それをイリアに聞いていた。彼女になら、教えてもらいたかった。


 イリアは少し考えて、それから、やわらかく微笑んだ。


「『あのとき、気づけなくて、ごめん』。それと、『今は、ちゃんと聞けるよ』。それで十分だと思います」


 俺は、その言葉を胸の中でそっと繰り返した。

 あのとき、気づけなくて、ごめん。

 今は、ちゃんと聞けるよ。


「……ああ」


 俺はうなずいた。

 うまく笑えていたかはわからない。けれど、笑おうとした。


 焚き火が、また、ぱちんと爆ぜた。


 天幕の外から、いろんな音が聞こえてくる。

 ガランの低いいびき。レオンが寝返りを打つ気配。エレーヌの規則正しい寝息。ノクトはたぶん、見張りでどこかの岩の上にいるのだろう。

 みんな、生きている。今日、誰ひとり欠けなかった。


 俺はもう、彼らの頭の上の文字を見ることはできない。

 けれど、それでいい。

 いびきの深さで、レオンの寝返りの気配で、エレーヌの寝息のリズムで。あいつらが今、安心して眠っていることくらい、文字がなくてもちゃんとわかる。


 イリアの手は、俺の左手の上にまだ置かれたままだった。

 彼女がその手を自分から引っこめる様子はなかった。俺も、その手を振りほどこうとは思わなかった。


 右目を失った。女神の力も失った。

 届かなかった便りは、たぶん、これからも忘れないだろう。


 それでも、失ったもののずっと向こう側で、俺はひとつ、手に入れていた。

 前世のあの部屋で、たったひとりだった男が、何十年もどうしても掴めなかったもの。

 すぐ隣にあるこの手の温度を、ちゃんと温かいと感じられる、心。


 長い戦いのその夜は、ただ静かに更けていった。

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