第69話 無くした物と得たもの
目を覚ましたとき、辺りはもう夜だった。
最初に感じたのは、焚き火のパチパチという音だった。次に、布のにおい。土のにおい。そしてその奥に、まだかすかに残る硫黄のにおい。
俺は、自分が天幕の中にいることを、ゆっくりと理解した。岩山のふもとに、野営地が張られたのだろう。あの戦いのあと、誰かが俺をここまで運んでくれたのだ。
体を少しだけ動かそうとして、やめた。
右半身に、布が何重にも巻かれていた。動かそうとすると、皮膚の下から鈍い痛みがじわりとせり上がってくる。
けれど、痛いということは、生きているということだ。俺は、まだ生きていた。
ただ、天幕の天井を見上げたとき、俺はすぐに気づいた。
視界が、半分しかない。
右目に、布が当てられていた。だが、布をどけたところで同じだろう。それはすぐにわかった。右目のあったあたりには、もう光も影も、何も映らない。ただ暗いだけだ。
あの業火を、正面から浴びた。喉は岩が庇った。けれど、岩の隙間から突き出していた右目は、庇いきれなかったのだ。
目という器官は繊細だ。腕や肩は、大きな傷でも時間をかければある程度は戻る。だが目は、焼かれてしまえばそれきりだった。
俺は、片目を失った。
そして、俺が本当に気づいたのは、そのすぐあとだった。
天幕の中で、イリアがこちらを見ていた。俺はなんとなく、彼女の頭の上を見た。
何も、なかった。
いつもなら、そこには文字が浮かんでいた。心配とか、安堵とか。淡い色をした、その人の心を映す文字。女神がこの世界に俺を送り出すとき、授けてくれたただひとつの力だ。
俺が初対面の相手の心の動きをひと目で読めたのは、それがあったからだった。初対面でも感情が見抜けたのも、戦場でエレーヌの困惑が誇りに変わる瞬間を捉えられたのも、全部あの文字のおかげだ。
その文字が、消えていた。
いくら目を凝らしても、イリアの頭上にはもう何も浮かばない。
業火に焼かれたのは、右目だけではなかったらしい。女神のスキルもまた、その右目に宿っていたのだろう。目が失われると同時に、力も消えた。
残ったのは、ただの左目ひとつ。文字を映さない、ふつうの人間の目だ。
不思議と、悲鳴のような動揺はこなかった。
ただ、胸の奥がすっと静かになった。その静けさの中で、俺はずいぶん遠くのことを思い出していた。
前世の、俺のことだ。
あの世界の俺は、人の気持ちがまるでわからない男だった。
相手が何を感じているか、何を言ってほしいのか、何を言われたら傷つくのか。そのごく当たり前のことが、どうしてもつかめなかった。だからいつも、正しいことばかりを口にした。正論はいつでも正しい。正しいのだから、言って何が悪い。そう思っていた。
その正論で、俺は何人の客を怒らせただろう。何度、打ち合わせの席を凍りつかせただろう。
やがて俺は、人と関わらなくて済む部署へと、静かに移された。誰のせいでもない、と言われた。けれど、それが体のいい厄介払いだということくらい、さすがの俺にもわかった。
人の心がわからない男に与えられた、人のいない場所。それが、前世の俺の行き着いた先だった。
女神のスキルは、たぶん、そんな俺への餞別のようなものだったのだ。
お前は人の心が読めないだろう。だから、これを持っていきなさい、と。頭の上に答えが浮かぶ。それを読めば、もう誰も怒らせずに済む。
補助輪だ。自分ではまっすぐ走れない子供に、つけてやる補助輪。
その補助輪が、今日、外れた。
俺は、もう一度イリアの顔を見た。
文字はない。彼女の頭上は空っぽだ。
それでも。
目の下の、うっすらとした隈。膝を抱えた腕の、力の入り方。俺がわずかに身じろぎした瞬間、ぴくりと動いた肩。
この子はずっと眠っていない。俺が目を覚ますのを、怖さと祈りの両方を抱えて、ここで待っていた。
わかった。文字なんかなくても、わかった。
胸の奥の静けさの正体に、俺はそこでようやく気づいた。
これは、何かを失った静けさじゃない。補助輪が外れて、それでも自転車が倒れなかった、その静けさだ。
「……起きたんですね」
イリアの声で、我に返った。
「ああ」
声を出すと、喉の奥がわずかに引きつった。あの戦いで、限界まで使いきった喉だ。完全には戻っていない。それでも、言葉はちゃんと出た。
「すまない。……二度も、お前に助けられた」
イリアが、ゆっくりと首を横に振った。
「最初のときは」と、彼女は言った。「私はただ、必死だっただけです。目の前で人が死にそうで、それが怖くて、夢中で祈っただけ。助けたかった、というより……どうしていいか、わからなかった」
彼女は、自分の手のひらを見つめた。
「でも今日は、違います。今日は、私が決めました。この人をつなぎとめる、って」
その声には、迷いがなかった。
けれど、その迷いのなさが、ふっと途切れた。彼女の視線が、俺の右目を覆う布の上で止まった。
「……ごめんなさい」
イリアの声が、急に小さくなった。
「ゼンさんの命は、つなぎとめられました。火傷も、これから時間をかければ塞がっていきます。でも、右目だけは、私の祈りでもどうにもできませんでした。間に合わなかった。あの炎が、もう、目そのものを……」
彼女はそこで、言葉に詰まった。膝の上で握られた手が、白くなるほど強く握りしめられている。
俺は少しのあいだ、何と返すべきかを考えた。
前世の俺なら、ここで何を言っただろう。たぶん、こうだ。「気にするな。目の一つや二つ、失ってもどうということはない。お前は最善を尽くした」。正論だ。一分の隙もない、正しい言葉。
そしてその正しい言葉は、たぶん彼女をもっと追いつめた。最善を尽くしたと言われた人間が、それでも結果を出せなかったとき、逃げ場がどこにもなくなることを、前世の俺は知らなかった。
今は、わかる。彼女が今、握りしめているものを、正しさで押し返してはいけない。
「イリア。顔を上げてくれ」
彼女が、おずおずと視線を上げた。
「お前は、間に合わなかったんじゃない。間に合わせたんだ」
イリアの目が、わずかに見開かれた。
「あの状況で、俺の心臓は止まる寸前だった。命の漏れる速さに、お前の祈りが追いつくかどうか。お前は、その勝負に勝った。俺が今こうしてお前と話せている。それが答えだ」
俺は、左目だけでまっすぐに彼女を見た。
「目のことは、お前のせいじゃない。あれは、俺が自分の判断であの位置に立って、自分で背負った代償だ。お前が引き受けるものじゃない」
イリアはしばらく、黙っていた。
それから、握りしめていた手を、ゆっくりとほどいた。完全に、ではない。けれど、さっきよりは確かに、力が抜けていた。
「……はい」
小さな声だった。けれどその声には、もう、さっきの震えはなかった。
俺は、その横顔を見ていた。
文字は見えない。それでも、彼女の中で強張っていた何かが、今、ほんの少しほどけたのがわかった。
わかるということが、こんなにも静かで確かなことだとは、思わなかった。
それから、ふと、別のことを思い出した。
今日、あの岩山の上で。
俺は半身を焼かれて、岩に挟まれて、声を出すたびに喉が裂けても、それでも仲間に指示を返し続けた。攻めろ、と。振り返るな、と。声が届くかぎり、俺は返事をし続けた。
返事を、し続けられた。
なのに、たった一度の、本当に大事な「便り」には、俺は返事をしそびれたまま終わったのだ。
その思いが、胸の奥でちくりと痛んだ。
補助輪を失った今だからこそ、はっきりと見えてしまったのかもしれない。
あの読み落としは、忙しさのせいなんかじゃなかった。あれもまた、人の心がわからない男の犯した過ちだったのだ。
「……イリア」
「はい」
「ひとつだけ、聞いてほしい話がある」
「どうぞ」
俺は、視線を天幕の天井へ移した。布の縫い目を目でたどりながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「前世の、話だ」
イリアの肩が、ほんの少し動いた。
驚いた、というよりは、その言葉の重さを静かに受け止めた、という動きだった。
俺が「前世」という言葉を口にした相手は、ガランに続いて、彼女が二人目だった。
ガランには、エルナ郷で、ぽつりと打ち明けた。あの無口な男は、振り返りもせず、ただ黙って聞いてくれた。
一度、誰かに口に出してしまうと、二度目はずっと楽になる。
「俺がいた世界に、相棒がいた」
俺は続けた。
「ただ、その相棒とは、一度も顔を合わせたことがなかった。声も知らない。どんな背格好なのかも、何も知らない」
「……顔を合わせずに?」
イリアが、小さく首をかしげた。
無理もない。この世界では、肩を並べて戦う相手の顔を知らないなんてことは、ありえないだろう。
「俺のいた世界には、遠く離れた相手と、文字だけを送り合える仕組みがあったんだ」
俺は、できるだけわかりやすい言い方を探した。
「手紙のもっと速いやつ、とでも言えばいいか。書いた文字が、ほとんど時間をおかずに相手に届く。返事もすぐ来る。俺とその相棒は、その文字だけで何年も一緒に戦ってきた」
「……何年も、文字だけで」
「ああ。顔も声も知らないのに、不思議と、息はぴったり合った。イル、という名前だった」
焚き火が、ぱちんとひとつ爆ぜた。
「女の相棒、ですか」
「ああ」
俺はうなずいた。それから、いちばん言いにくい部分に差しかかった。
「ある日、そのイルが、俺に短い便りを寄越した。ほんの数行の文章だ。今になって思い返すと、あれは助けを求める便りだった」
天井の縫い目をたどる視線が、止まる。
「あいつは何かに、ひどく追いつめられていた。その数行の中に、たしかにそれが滲んでいた。滲んでいたんだ。読める人間が読めば、わかるくらいには」
俺は、一度言葉を切った。
ここから先を言うのは、自分で思っていたよりも、ずっと苦しかった。
「でも、そのときの俺は、それを読み取れなかった。文字は目に入っていた。なのに、その奥にあるあいつの心は、まったく見えていなかった。人の気持ちがわからない男だったからだ。前世の俺は、ずっとそうだった。だからその一通も、後回しにした。返事をしないまま」
「……」
「返事をしないまま、俺は死んだ。そして、この世界に来た」
天幕の中が、しんと静まった。焚き火の音だけが、小さく続いている。
「あいつがあのあとどうなったのか、俺は知らない。知る方法も、もうない」
俺は、左手で布の巻かれた右腕にそっと触れた。
「女神は、この世界に俺を送るとき、ひとつだけ力をくれた。人の心が、文字になって見える力だ。たぶんあれは、憐れみだったんだと思う。人の気持ちがわからないお前には、これがないと無理だろう、という。補助輪だ。俺みたいな人間が、人の中で生きていくための」
俺は、ふっと息を吐いた。
「その力が、今日、右目と一緒に消えた」
イリアが、息をのんだ。
「……消えた? ゼンさんの、女神さまのお力が?」
「ああ。もう、誰の心も、文字では読めない」
彼女の顔に、はっきりと痛ましさが走った。文字がなくても、それはよくわかった。
けれど、俺は首を横に振ってみせた。
「いや、そういう顔をしなくていい。さっきからな、イリア。俺は、お前の心がちゃんとわかっているんだ」
イリアが、まばたきをした。
「文字は見えない。なのに、わかる。お前が眠らずに俺を待っていたことも。右目のことで自分を責めていたことも。今、俺のスキルが消えたと聞いて、俺のために痛ましいと感じていることも。全部、お前の顔と、声と、手の動きからわかった」
俺は、左目だけで彼女を見た。
「補助輪が外れたんだ。それでも、俺は倒れなかった。たぶん、いつの間にか漕げるようになっていた」
声が、自分でも少し揺れた。
「お前たちと過ごした時間が、俺にそれを教えた。前世の俺が、何十年かかってもできなかったことを。女神の力じゃない。お前たちと一緒にいて、覚えたんだ。人の心の、読み方を」
イリアはしばらく、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと手を伸ばして、俺の左手に自分の手をそっと重ねた。その手は、戦場で俺の命をつなぎとめたときよりも、ほんの少しだけ近くにあった。
「……それなら」と、彼女は静かに言った。「イルさんへの便りも、きっと、今のゼンさんなら読めます」
俺は、彼女の顔を見た。
「今のあなたなら、あの数行の奥にある『助けて』に、ちゃんと気づけます。読み落とさない。後回しにもしない。あなたは、もう、そういう人です」
胸の奥が、熱くなった。
前世で、誰にも言われたことのない言葉だった。
「だから」と、イリアは続けた。「もし、いつかその人に会えたら。そのときは、ちゃんと伝えてください。今度こそ」
「……何を、伝えればいい」
自分でも、不思議だった。
伝えたい言葉なら、ずっと胸の中にあったはずだ。なのに俺は、それをイリアに聞いていた。彼女になら、教えてもらいたかった。
イリアは少し考えて、それから、やわらかく微笑んだ。
「『あのとき、気づけなくて、ごめん』。それと、『今は、ちゃんと聞けるよ』。それで十分だと思います」
俺は、その言葉を胸の中でそっと繰り返した。
あのとき、気づけなくて、ごめん。
今は、ちゃんと聞けるよ。
「……ああ」
俺はうなずいた。
うまく笑えていたかはわからない。けれど、笑おうとした。
焚き火が、また、ぱちんと爆ぜた。
天幕の外から、いろんな音が聞こえてくる。
ガランの低いいびき。レオンが寝返りを打つ気配。エレーヌの規則正しい寝息。ノクトはたぶん、見張りでどこかの岩の上にいるのだろう。
みんな、生きている。今日、誰ひとり欠けなかった。
俺はもう、彼らの頭の上の文字を見ることはできない。
けれど、それでいい。
いびきの深さで、レオンの寝返りの気配で、エレーヌの寝息のリズムで。あいつらが今、安心して眠っていることくらい、文字がなくてもちゃんとわかる。
イリアの手は、俺の左手の上にまだ置かれたままだった。
彼女がその手を自分から引っこめる様子はなかった。俺も、その手を振りほどこうとは思わなかった。
右目を失った。女神の力も失った。
届かなかった便りは、たぶん、これからも忘れないだろう。
それでも、失ったもののずっと向こう側で、俺はひとつ、手に入れていた。
前世のあの部屋で、たったひとりだった男が、何十年もどうしても掴めなかったもの。
すぐ隣にあるこの手の温度を、ちゃんと温かいと感じられる、心。
長い戦いのその夜は、ただ静かに更けていった。




