第68話 暴竜討伐(7)
ゼンの意識が途切れたことに最初に気づいたのは、イリアだった。
彼女は駆けていた。
崩れた岩塊の山に向かって、足元の砕けた石もまだ熱を持った地面も何ひとつ気にせず、ただまっすぐに。白い神官衣の裾が硫黄の風にあおられて後ろへ流れていた。
岩の隙間から突き出したゼンの上半身が見えた。
その右半分は炭のように黒く焼け爛れていた。右腕はもとの形がわからないほど崩れ、右の頬から首にかけて皮膚が赤くめくれている。閉じた右の瞼の下に、もう目はなかった。
左半分だけが、辛うじてゼンのままだった。
「ゼンさん」
イリアは岩の前に膝をついた。震える指でゼンの左の頬に触れる。
冷たい。いや、冷たくはない。けれど人の体温としては低すぎた。命がすごい速さで彼の体から漏れ出している——治癒師としての指先が、それをはっきりと感じ取った。
迷っている時間はなかった。
イリアは両手をゼンの胸に重ねた。
唇から祈りの言葉が流れ出す。普段、誰かのかすり傷を治す時の穏やかな祈りではなかった。声を限界まで張り上げ、自分の中の魔力を底からかき集めて一気に注ぎ込む——命をつなぎとめるためだけの、必死の詠唱だった。
「レオン様!ガラン様! 岩を、この岩をどけてください!」
その声に応えて、二つの大きな影が岩塊に取りついた。
レオンとガランだった。
ガランが、ゼンの下半身を挟むいちばん大きな岩塊に両手をかける。レオンがその反対側に回り込み、肩で岩を押した。
「——せえのッ!」
ガランの太い喉から声がしぼり出される。
二十年、岩のような魔物の攻撃を受け止め続けてきた彼の腕。その腕の全部の力が、いま仲間を押しつぶす岩を持ち上げる仕事に使われた。
岩が軋んだ音を立てて、わずかに浮く。レオンがその隙間に肩をねじ込み、さらに押し上げる。
岩がずれた。
ゼンの腰から下が、夕陽の下に現れる。
脚はつぶれてはいなかった。けれど長いあいだ岩に挟まれて、血の巡りが止まっていたのだろう。膝から下が紫色に変わっていた。
その脚も焼けた右半身も——すべてが夕陽の赤い光の下にさらけ出された。
エレーヌが思わず顔をそむけた。
戦場でたくさんの傷を見てきたはずの彼女が、見ていられなかった。それほどにゼンの体はひどかった。
それでもイリアの手は止まらなかった。
手のひらの青白い光がゼンの体を包んでいく。
焼け爛れた皮膚のその縁から、ほんの少しずつ新しい肉が内側から作り直されていく。命が漏れ出していく速さに彼女の祈りの速さが少しずつ追いついていく。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
イリアにもわからなかった。
ただ、ある瞬間——指先に伝わってくるゼンの命の手応えが、ふっと安定した。
漏れ出していたものが止まった。糸が切れる寸前でつなぎとめられた。その確かな感触が彼女の指に届いた。
「……つながった」
イリアはぽつりとつぶやいた。
誰に言うでもない。ほっとしたというよりも、自分自身に「もう大丈夫だ」と言い聞かせるための確認の言葉だった。
彼女はゼンの左手を両手でそっと包んだ。
その指先はまだ小さく震えていた。
——イリアがゼンの命を救ったのはこれで二度目だった。
一度目は、まだゼンがこの一行に加わるよりも前のこと。
フロッグマンの群れに襲われたとき、吐き出された毒がイリアに迫った。その毒の前にゼンは自分の体を割り込ませた。彼女をかばって毒をまともに浴びたのだ。
まだ仲間でもなかった少女のために、名も知らぬ男がためらいもせずに死にかけた。イリアはその意味がわからないまま必死で彼を治した。あの一件があったからこそ、ゼンはこの一行に迎え入れられた。
あの時の自分はただ目の前で人が死にかけているのが怖くて、その怖さから逃げるようにひたすら祈っていた。助けたいというより助けなければという焦りだけで手を動かしていた。
でも、今日の自分は違う。
今日、彼女は自分の意志で選んだ。
戦いのさなか、ゼンに「私を見るな、レオンを見ろ」と言われた。あの時、彼女は彼の言葉に従いながら、心の中でもうひとつ別のことを決めていた。
——戦いが終わったら、何があってもこの人を私が助ける、と。
助けなければという焦りに突き動かされるだけの自分ではなく、自分の意志で命を選び取る治癒師として、彼女はここに膝をついていた。
戦場に夕暮れの静けさが降りていた。
レオンが聖剣を地面に突き立てて、その柄に体重を預けるようにして片膝をついた。
聖剣の刃は半ばまで暴竜の黒い血で濡れていた。彼はしばらくその刃をぼんやりと見つめていた。
エレーヌは岩棚の上に座り込んでいた。
手にしていた杖はいつの間にか足元に転がっている。詠唱を続けすぎて喉がひりひりと痛んだ。声がしばらくまともに出そうになかった。
ノクトが岩陰からゆっくりと歩いてきた。
彼は空っぽになった腰のポーチを軽く叩いて、地面に放った。
「全部使い切ったよ」
いつもは崩さない飄々とした表情に、わずかな疲れがにじんでいた。
エレーヌがその空のポーチをちらりと見た。それからノクトを見て、口の端だけで小さく笑った。
「……次は二十発作るわ」
「そりゃあ楽しみだ」
短いやりとりだった。
けれどその短い言葉の裏には、戦いのあいだ二人が交わし続けたいくつもの連携の重みがこもっていた。彼女が魔力を込めた石を彼の腕が運び、暴竜の急所に届けた。その積み重ねが、たった二言の中にたしかに残っていた。
ガランは横たわるゼンのそばに膝をついた。
しばらく彼は何も言わなかった。
ただ自分の大盾をゆっくりとゼンの隣に置いた。
アダマンタイトで打たれたその大盾を。三百年の暴竜の尾を受けてもひびひとつ入らなかった、傷つくことを知らない鉄の塊。二十年、彼が磨き続けてきた自分の半身のような盾だった。
そして、ぽつりと言った。
「これは——もう俺を守るためだけの盾じゃねえな」
レオンが顔を上げた。
ガランの分厚い手のひらが大盾の表面をゆっくりと撫でた。暴竜の血と煤にまみれてなお傷ひとつないその 鉄の面を、慈しむように。
レオンはしばらく黙っていた。
地面に突き立てた聖剣を見つめ、その刃に映る自分の顔を見つめ、それからようやく口を開いた。
「俺はずっと、自分が勇者だと思っていた」
誰も口をはさまなかった。
「いちばん前に立って聖剣を振るってすべてを斬る。それが俺の役目だ。仲間というのは、その俺の背中を支えてくれる人たちだ——そう思っていた」
彼は一度、言葉を切った。
「でも、今日。戦いのまんなかにいたのは、剣を一度も振らず魔法も使わず——半身を焼かれてもなお声を出し続けた、戦う力をまったく持たない男だった」
エレーヌが静かにうなずいた。
「私たちはあの人の指揮の中でだけ、ひとつの生き物になれた」
その声には自分をあざけるような響きはなかった。
むしろ新しい何かを見つけた人の、静かな驚きがこもっていた。
「私の火炎弾はあの人の盤面の上で初めて本当の意味を持った。私の作った石はノクトの腕の中で初めて空を飛んだ」
ノクトが近くの岩に腰を下ろして小さく笑った。
「まったく、とんでもない作戦ばかり出してくる男だよ。きっと次も笑っちまうような無茶を平気な顔で並べてくるんだろうな」
いつもの軽口だった。
けれどその声には、たしかな敬意が混じっていた。
レオンはゆっくりと立ち上がろうとしてよろけた。
長い戦いで脚に力が入らなかった。
その肩をエレーヌが無言で杖の先で支えた。
レオンは横たわるゼンのそばにもう一度膝をついた。
何も言わなかった。
ただ自分の右手をゼンの肩にそっと置いた。
それで十分だった。
岩山の頂に夕陽が長く差し込んでいた。
倒れた赤い暴竜の巨大な体がその光を受けて、岩肌に影を引いている。三百年のあいだこの山に君臨し続けた竜が、いまはただ静かに横たわっていた。
その竜の屍を見下ろす噴火口のふちに、五人の——いや、意識を失った一人を入れて六人の勇者一行がいた。
ばらばらの武器を持ち、ばらばらの過去を背負って集まった六人。
その六人が今日初めて、本当の意味でひとつのチームになった。
イリアだけはゼンの左手をまだ握ったままだった。
その手を自分から離す気配はなかった。
彼女は眠るゼンの焼け跡の残る横顔をじっと見ていた。
この人は目を覚ましたら、またすぐに「次の盤面」の話を始めるのだろう。きっと自分の体のことなんか後回しにして。
だから、それまでは。
せめてそれまでは、この手を握っていよう。
イリアはそう思った。
硫黄の風がひとつ、戦場を吹き抜けていく。
長い長い戦いが終わった。




