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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第4章 魔族領

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第67話 暴竜討伐(6)

 ヴェルザレードの喉の奥で、膨大な熱が赤く明滅した。

 直後、すべてを塗り潰す業火が、岩に挟まれた俺の身体を正面から呑み込んだ。


 音が、消えた。しかしまだ、圧倒的な光は残っている。

 燃えている。俺の右半身が。

 崩れ落ちた岩の天井が、かろうじて俺の左半分を覆い隠していた。だが、隙間からはみ出した右肩、右腕、右頬は、容赦のない熱の奔流に直接晒されている。

 ひどく嫌な匂いがした。肉が焦げる匂い。それが自分の身体から発せられているという事実に、思考のどこか冷たい部分——元経営コンサルタントとしての客観性が、ひどく場違いな分析を下している。

 右目の視界がじゅわっと溶け落ちた。真っ白だった景色が、黒へ変わる。右腕の感覚も、ある境界線から先がごっそりと抜け落ちていた。


 俺は意識を手放さなかった。いや、手放せなかった。

 俺の脳が、今は痛みをキャンセルしている。


 崩落した岩塊。最初は逃げ場を塞ぐ障害物だと呪ったそれが、いまは俺の心臓と、左肺と、そして喉を護る盾になっている。

 皮肉なものだ。軍師として選んだこの立ち位置が退路を断ち、同時に、命の半分を繋ぎ止めた。


 業火の波が、不意に引いた。

 限界まで熱を放った暴竜が、反動で荒い排熱の息を吐き出している。もうもうと立ち込める粉塵が、一時的に奴の視界を塞いでいた。


 じりじりと、自分の肉が燻る音が耳に届く。そして——複数の足音が、ピタリと止まる気配。


 止まるな。

 動け。

 俺の頭蓋の左側で、まだ盤面は回っている。右目も右腕も消し炭になったところで、計算は終わっていない。お前たちがここで足を止めたら、すべてが破綻する。


 周囲に満ちた超高温の空気を、焼け残った左肺だけで無理やり吸い込む。

 気道がチリチリと焼け焦げる匂いがしたが、構うものか。声は、まだ出せる。


「……攻め、ろ」


 ひどい音だった。掠れて、低く、喉の奥から絞り出しただけのノイズ。

 舞い上がる粉塵と煙の向こうで、四人の背中が凍りついている。誰も信じていないのだ。業火に呑まれた人間が、まだ生きているなんて。


 届いていない。なら、もう一度だ。

 左肺を限界まで膨らませる。炭化した右半身がひきつれ、目の前が明滅するほどの激痛が走る。


「攻めろと……言っている!」


 今度は、空気を震わせた。

 岩山の頂から、ふっと静寂が落ちる。煙が薄れ、振り返った四人と視線が絡んだ。

 半身を焼かれ、下半身を岩に押し潰されながら、それでも指示を出そうとする軍師の姿。


 レオンの顔から、怯えが消えた。

 代わりに浮かんだのは、静かな熱。彼の手が、聖剣の柄を強く握り直す。その指先の力みが、これまでの彼とは明らかに違っていた。


「——ッ、了解!」


 レオンの叫びが響く。


「ノクトの言った……口の、奥だ」

 一語発するごとに、肺の酸素が削り取られ、気道が熱で焼けただれる。

「奴にブレスを吐かせろ。口が開いたその瞬間……お前が斬る」

「軍師殿、しかしそれは——」

「最後の一撃だ」


 反論を遮った俺の短い言葉に、レオンの目が大きく見開かれた。


 最適解を押し付けるため、俺は彼の「勇者としての本能」に鎖をかけた。継ぎ目を狙え、引けと。だが、いまならその鎖を解ける。すべてを言葉にする必要はない。


「最後のひと太刀は……お前の好きに、斬れ」


 ごくり、とレオンの喉が鳴った。十二分間、抑圧され続けてきた本能が、ついに解き放たれる。


「——応ッ!!」


 残された左目だけで、戦場全体を睨みつける。


「ガラン」

 岩の隙間から、大盾の戦士を呼ぶ。

「レオンを撃ち上げろ」

「——承知」

 短い応諾。大盾が、再び射出台として天を向く。


「エレーヌ」

「ええ」

 彼女の声はもう、トラウマがふっきれていた。

「お前の魔法で、奴を徹底的に怒らせて……口を開けさせろ」

「……任せて」

 彼女の頭上で、【自信】の文字が強く輝きを増す。


「イリア」


 最後に呼んだ名。

 彼女は、祈りの姿勢のまま俺を見つめていた。その瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙の膜が張っている。


「レオンに、ありったけの加護を。お前の出せる……全部だ」

「……ゼンさんは」

 声が、微かに震えていた。

「ゼンさんは、どうなるんですか……」


 俺の思考が、一瞬だけ停止した。

 『自分の心配は不要だ』。それが最も合理的で、コンサルタントとしての正しい模範解答だ。だが、この震える声に効率だけで返すのは、あまりにも薄情だろう。


「俺は……ここで、最後まで見届ける」


 左目だけで、彼女を真っ直ぐに見返す。


「だから、俺を見るな。レオンを見ろ。お前の祈りが……最後の勝ち筋だ」


 イリアは唇を強く噛み締めた。涙は、こぼれなかった。

 祈りを紡ぐ指先から、震えが消える。


「……はい」


 準備は整った。軍師としての、最後の仕事をする。


「——総員!」


 周囲の熱風ごと、残りの空気を肺の底まで吸い込む。焼けた身体が軋み、悲鳴を上げる。それをすべて、声という物理的な力に変換する。


「これが最後だ! ……かかれッ!!」


 俺の咆哮が、岩山の空気を切り裂いた。


 エレーヌが杖を振るう。

 放たれた火炎弾は、継ぎ目ではなく、ヴェルザレードの潰れた両目——最も痛みを感じるであろう傷跡へと正確に吸い込まれた。

 激痛に暴竜が頭を跳ね上げる。さらに追撃。今度は鼻先。

 奴の中で、怒りが完全に限界を突破したのがわかった。目障りな砲撃ごと、すべてを焼き尽くすために。

 巨大な顎が、外れるほど大きく開かれる。

 その奥に、鱗に守られていない脆弱な生身の喉が、無防備に晒された。


「レオン、今だ!」


 踏み込みは、同時だった。

 ガランが渾身の力で両膝を伸ばし、大盾を踏み台にしたレオンを上空へと跳ね飛ばす。


 宙を舞う勇者の背中に、イリアの祈りが追いついた。

「——白き加護のすべてよ! 彼にッ!!」

 彼女の持つすべての魔力が、聖剣を眩い白刃へと変える。


 左目だけで、俺はその軌道を追った。

 喉が開ききるまでの時間。奥の熱が満ちるまでの時間。落下する勇者の速度。祈りが上乗せした、わずかな加速。——焼け残った頭蓋の左側で、最後の盤面が弾き出される。

 間に合う。

 ただし、その差は、俺の引いた計算式の“誤差の内側”だ。

 勝つはずだ。だが、勝つとは、断言できない。

 軍師の仕事は、ここで終わっている。

 あとはもう、現実が答えを返してくるのを待つしかない。


 暴竜の喉の奥で、圧倒的な熱が膨張する。業火が放たれる、まさにその寸前。

 レオンが、白く燃える聖剣を頭上高くに振りかぶった。


「——ブレード、スラッシュッ!!」


 迷いのない、一切の出し惜しみのない一撃。

 継ぎ目を狙え、引け——俺が掛けていた鎖は、もうどこにもなかった。

 光と、熱が、交錯した。

 その刹那、俺の左目は何も判別できなかった。

 白。ただ、白。剣の輝きなのか、放たれた業火なのか、区別がつかない。

 俺は、岩の隙間から剥き出しになった右半身に、二度目の業火を覚悟した。

 それが来れば、俺は炭になる。肉の焼ける匂いを、もう一度——。


 ……熱は、来なかった。


 焼け爛れた頬を撫でたのは、硫黄を孕んだ、ただの冷たい山風だった。

 業火は、放たれていない。

 白光は、外へ噴き出していない。光は——竜の喉の奥へと、内側へ、吸い込まれるように潜っていく。

 業火が押し出されるより、ほんの半呼吸。

 斬撃のほうが、速かった。

 心臓へと続く脆弱な柔肉を、白い斬撃が深く、深く喰い破る。直後、膨大な光が、ヴェルザレードの体内で弾け飛んだ。


 三百年の寿命を持つ巨大な肉体が、内側から瓦解していく鈍い音が響く。

 咆哮すらなかった。巨体はゆっくりと天を仰ぎ、そして、糸が切れたように岩山の頂へと崩れ落ちた。

 重い地響きが一度だけ。

 あとに残ったのは、静寂だった。


 硫黄の匂いの風が吹き抜けていく。夕陽に照らされた暴竜の屍が、巨大な影を岩肌に落としている。

 俺は岩の隙間から、その景色をぼんやりと見つめていた。


 ……勝った。


 頭の片隅で、冷徹な自分が結果を処理する。駒は全員生き残った。軍師としての役割は、完全に全うできた。

 だが、その事実を噛み締めるよりも早く、俺の身体から急速に熱が引いていく。


 声を出すためだけに繋ぎ止めていた意識が、プツリと切れた感覚。

 左目の視界の端から、黒い染みがじわじわと広がってくる。


 遠くで、粉塵を蹴立てて駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 一番早い足音。俺を呼ぶ、震える声。


「ゼンさん——!!」


 大丈夫だ、よくやった。次の指示は……。

 そう返そうとして、声が出ないことに気づく。超高温の空気を吸い込み、無理やり大声を紡ぎ続けた俺の喉は、最後の号令と共に完全に焼き切れていたらしい。


 仕方なく、俺は左の口角だけを僅かに引き上げた。

 うまく笑えているだろうか。わからない。


 真っ暗に染まっていく視界の最後で。

 駆け寄るイリアの白い輪郭が、ふわりと滲んで——。


 俺の意識は、そこで暗い闇の中へと沈んでいった。

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