第67話 暴竜討伐(6)
ヴェルザレードの喉の奥で、膨大な熱が赤く明滅した。
直後、すべてを塗り潰す業火が、岩に挟まれた俺の身体を正面から呑み込んだ。
音が、消えた。しかしまだ、圧倒的な光は残っている。
燃えている。俺の右半身が。
崩れ落ちた岩の天井が、かろうじて俺の左半分を覆い隠していた。だが、隙間からはみ出した右肩、右腕、右頬は、容赦のない熱の奔流に直接晒されている。
ひどく嫌な匂いがした。肉が焦げる匂い。それが自分の身体から発せられているという事実に、思考のどこか冷たい部分——元経営コンサルタントとしての客観性が、ひどく場違いな分析を下している。
右目の視界がじゅわっと溶け落ちた。真っ白だった景色が、黒へ変わる。右腕の感覚も、ある境界線から先がごっそりと抜け落ちていた。
俺は意識を手放さなかった。いや、手放せなかった。
俺の脳が、今は痛みをキャンセルしている。
崩落した岩塊。最初は逃げ場を塞ぐ障害物だと呪ったそれが、いまは俺の心臓と、左肺と、そして喉を護る盾になっている。
皮肉なものだ。軍師として選んだこの立ち位置が退路を断ち、同時に、命の半分を繋ぎ止めた。
業火の波が、不意に引いた。
限界まで熱を放った暴竜が、反動で荒い排熱の息を吐き出している。もうもうと立ち込める粉塵が、一時的に奴の視界を塞いでいた。
じりじりと、自分の肉が燻る音が耳に届く。そして——複数の足音が、ピタリと止まる気配。
止まるな。
動け。
俺の頭蓋の左側で、まだ盤面は回っている。右目も右腕も消し炭になったところで、計算は終わっていない。お前たちがここで足を止めたら、すべてが破綻する。
周囲に満ちた超高温の空気を、焼け残った左肺だけで無理やり吸い込む。
気道がチリチリと焼け焦げる匂いがしたが、構うものか。声は、まだ出せる。
「……攻め、ろ」
ひどい音だった。掠れて、低く、喉の奥から絞り出しただけのノイズ。
舞い上がる粉塵と煙の向こうで、四人の背中が凍りついている。誰も信じていないのだ。業火に呑まれた人間が、まだ生きているなんて。
届いていない。なら、もう一度だ。
左肺を限界まで膨らませる。炭化した右半身がひきつれ、目の前が明滅するほどの激痛が走る。
「攻めろと……言っている!」
今度は、空気を震わせた。
岩山の頂から、ふっと静寂が落ちる。煙が薄れ、振り返った四人と視線が絡んだ。
半身を焼かれ、下半身を岩に押し潰されながら、それでも指示を出そうとする軍師の姿。
レオンの顔から、怯えが消えた。
代わりに浮かんだのは、静かな熱。彼の手が、聖剣の柄を強く握り直す。その指先の力みが、これまでの彼とは明らかに違っていた。
「——ッ、了解!」
レオンの叫びが響く。
「ノクトの言った……口の、奥だ」
一語発するごとに、肺の酸素が削り取られ、気道が熱で焼けただれる。
「奴にブレスを吐かせろ。口が開いたその瞬間……お前が斬る」
「軍師殿、しかしそれは——」
「最後の一撃だ」
反論を遮った俺の短い言葉に、レオンの目が大きく見開かれた。
最適解を押し付けるため、俺は彼の「勇者としての本能」に鎖をかけた。継ぎ目を狙え、引けと。だが、いまならその鎖を解ける。すべてを言葉にする必要はない。
「最後のひと太刀は……お前の好きに、斬れ」
ごくり、とレオンの喉が鳴った。十二分間、抑圧され続けてきた本能が、ついに解き放たれる。
「——応ッ!!」
残された左目だけで、戦場全体を睨みつける。
「ガラン」
岩の隙間から、大盾の戦士を呼ぶ。
「レオンを撃ち上げろ」
「——承知」
短い応諾。大盾が、再び射出台として天を向く。
「エレーヌ」
「ええ」
彼女の声はもう、トラウマがふっきれていた。
「お前の魔法で、奴を徹底的に怒らせて……口を開けさせろ」
「……任せて」
彼女の頭上で、【自信】の文字が強く輝きを増す。
「イリア」
最後に呼んだ名。
彼女は、祈りの姿勢のまま俺を見つめていた。その瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙の膜が張っている。
「レオンに、ありったけの加護を。お前の出せる……全部だ」
「……ゼンさんは」
声が、微かに震えていた。
「ゼンさんは、どうなるんですか……」
俺の思考が、一瞬だけ停止した。
『自分の心配は不要だ』。それが最も合理的で、コンサルタントとしての正しい模範解答だ。だが、この震える声に効率だけで返すのは、あまりにも薄情だろう。
「俺は……ここで、最後まで見届ける」
左目だけで、彼女を真っ直ぐに見返す。
「だから、俺を見るな。レオンを見ろ。お前の祈りが……最後の勝ち筋だ」
イリアは唇を強く噛み締めた。涙は、こぼれなかった。
祈りを紡ぐ指先から、震えが消える。
「……はい」
準備は整った。軍師としての、最後の仕事をする。
「——総員!」
周囲の熱風ごと、残りの空気を肺の底まで吸い込む。焼けた身体が軋み、悲鳴を上げる。それをすべて、声という物理的な力に変換する。
「これが最後だ! ……かかれッ!!」
俺の咆哮が、岩山の空気を切り裂いた。
エレーヌが杖を振るう。
放たれた火炎弾は、継ぎ目ではなく、ヴェルザレードの潰れた両目——最も痛みを感じるであろう傷跡へと正確に吸い込まれた。
激痛に暴竜が頭を跳ね上げる。さらに追撃。今度は鼻先。
奴の中で、怒りが完全に限界を突破したのがわかった。目障りな砲撃ごと、すべてを焼き尽くすために。
巨大な顎が、外れるほど大きく開かれる。
その奥に、鱗に守られていない脆弱な生身の喉が、無防備に晒された。
「レオン、今だ!」
踏み込みは、同時だった。
ガランが渾身の力で両膝を伸ばし、大盾を踏み台にしたレオンを上空へと跳ね飛ばす。
宙を舞う勇者の背中に、イリアの祈りが追いついた。
「——白き加護のすべてよ! 彼にッ!!」
彼女の持つすべての魔力が、聖剣を眩い白刃へと変える。
左目だけで、俺はその軌道を追った。
喉が開ききるまでの時間。奥の熱が満ちるまでの時間。落下する勇者の速度。祈りが上乗せした、わずかな加速。——焼け残った頭蓋の左側で、最後の盤面が弾き出される。
間に合う。
ただし、その差は、俺の引いた計算式の“誤差の内側”だ。
勝つはずだ。だが、勝つとは、断言できない。
軍師の仕事は、ここで終わっている。
あとはもう、現実が答えを返してくるのを待つしかない。
暴竜の喉の奥で、圧倒的な熱が膨張する。業火が放たれる、まさにその寸前。
レオンが、白く燃える聖剣を頭上高くに振りかぶった。
「——ブレード、スラッシュッ!!」
迷いのない、一切の出し惜しみのない一撃。
継ぎ目を狙え、引け——俺が掛けていた鎖は、もうどこにもなかった。
光と、熱が、交錯した。
その刹那、俺の左目は何も判別できなかった。
白。ただ、白。剣の輝きなのか、放たれた業火なのか、区別がつかない。
俺は、岩の隙間から剥き出しになった右半身に、二度目の業火を覚悟した。
それが来れば、俺は炭になる。肉の焼ける匂いを、もう一度——。
……熱は、来なかった。
焼け爛れた頬を撫でたのは、硫黄を孕んだ、ただの冷たい山風だった。
業火は、放たれていない。
白光は、外へ噴き出していない。光は——竜の喉の奥へと、内側へ、吸い込まれるように潜っていく。
業火が押し出されるより、ほんの半呼吸。
斬撃のほうが、速かった。
心臓へと続く脆弱な柔肉を、白い斬撃が深く、深く喰い破る。直後、膨大な光が、ヴェルザレードの体内で弾け飛んだ。
三百年の寿命を持つ巨大な肉体が、内側から瓦解していく鈍い音が響く。
咆哮すらなかった。巨体はゆっくりと天を仰ぎ、そして、糸が切れたように岩山の頂へと崩れ落ちた。
重い地響きが一度だけ。
あとに残ったのは、静寂だった。
硫黄の匂いの風が吹き抜けていく。夕陽に照らされた暴竜の屍が、巨大な影を岩肌に落としている。
俺は岩の隙間から、その景色をぼんやりと見つめていた。
……勝った。
頭の片隅で、冷徹な自分が結果を処理する。駒は全員生き残った。軍師としての役割は、完全に全うできた。
だが、その事実を噛み締めるよりも早く、俺の身体から急速に熱が引いていく。
声を出すためだけに繋ぎ止めていた意識が、プツリと切れた感覚。
左目の視界の端から、黒い染みがじわじわと広がってくる。
遠くで、粉塵を蹴立てて駆け寄ってくる足音が聞こえた。
一番早い足音。俺を呼ぶ、震える声。
「ゼンさん——!!」
大丈夫だ、よくやった。次の指示は……。
そう返そうとして、声が出ないことに気づく。超高温の空気を吸い込み、無理やり大声を紡ぎ続けた俺の喉は、最後の号令と共に完全に焼き切れていたらしい。
仕方なく、俺は左の口角だけを僅かに引き上げた。
うまく笑えているだろうか。わからない。
真っ暗に染まっていく視界の最後で。
駆け寄るイリアの白い輪郭が、ふわりと滲んで——。
俺の意識は、そこで暗い闇の中へと沈んでいった。




