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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第4章 魔族領

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第66話 暴竜討伐(5)

 戦闘開始から、十二分。


 ヴェルザレードの鱗は、七枚が剥がれていた。赤鱗に覆われていた巨体のあちこちに、血の滲んでおり、岩肌は奴の血で濡れている。硫黄の匂いに、獣の血の生々しい鉄錆の匂いが混じり始めていた。

 左目は完全に潰れている。尾の動きにも、最初の頃の、岩を軽々と薙ぐ鋭さはもうなかった。振るうたびに、わずかに軌道が垂れる。三百年分の重量を支える筋繊維が、確かに削られ始めていた。


 それでも、ヴェルザレードは墜ちなかった。


 俺は、舌の上の血の味を、もう一度噛みしめた。

 鱗を七枚剥いで、片目を潰して、尾の威力を削って——それでも、奴はまだ、両足で岩山の頂に立っている。三百年。その生命力は、俺の脳内のどの計算式にも収まりきらなかった。削っても削っても、底が見えない。


 俺は、もう限界だった。声がかすれ、視界の周辺は歪んだまま戻らない。駒の頭上の文字は二重に滲んで、辛うじて輪郭が読める程度だ。

 呼吸に合わせ、頭に釘が撃ち込まれる。俺の指揮の残り時間も、もう長くはなかった。


 決め手が要る。

 削り続けるだけでは、こちらの手が先に燃え尽きる。奴の三百年を一気に終わらせる「一点」が要った。


 その時だった。


「ゼン、見えた!」


 ノクトの声が、岩陰から飛んだ。その声には、観察者の静かな確信が乗っていた。

 戦闘の最中、彼だけはずっと、岩陰の死角からヴェルザレードの身体を冷たく観察し続けていた。感覚器を削る役目を果たしながら、その目は別の何かを探し続けていたのだ。


「奴が、ブレスを吐く時だ。あいつは必ず、馬鹿みたいにでかく口を開ける」


 俺の脳内で、その情報が着弾する。


「あの開いた口の、ずっと奥。喉の内側だ。あそこには、鱗が一枚もない。剥き出しの、生身の肉だ」


 ピースが嵌まった。

 ブレスを吐く瞬間、奴は喉の奥から灼熱を押し出す。その灼熱を通す通路——口腔から喉の最奥にかけての内壁は、そもそも鱗で覆いようがない。

 普段は、嚙み合った牙の奥に隠れて、決して届かない。だが、ブレスを吐くために大きく顎を開いた、その一瞬だけ。心臓に最も近い無防備な的が、まっすぐ正面に晒される。

 防御の空白——三百年の暴竜が、自分の身体の中にたった一つだけ、構造的に塞ぐことのできない穴。

 その口の奥へ、ブレスが放たれるより先に、聖剣を届かせれば。決まる。


 俺の脳内で、半分に崩れていた盤面が、その「一点」を中心に一気に組み上がっていく。削り合いの盤面が終わる。ここから先は、その一点にすべてを収束させる盤面だ。


 だが、条件があった。

 その空白が晒されるのは、奴が大きく口を開ける、ブレスの直前。つまり、奴にブレスを吐く体勢を取らせなければ、空白は生まれない。そして、開いたその口の正面へ、レオンが一息に踏み込み、ブレスが放たれるより先に、聖剣を奥まで届かせなければならない。

 ほんの僅かにタイミングが狂えば、レオンが炭みなる。


 俺の視線が、ノクトの腰のポーチへ飛んだ。残り、三発。


「ノクト」


 俺は、掠れた喉から声を引き上げた。


「残りの石を、一気に全部使え。三発、全部だ」

「全部?」

「奴の右目——残った片方の目だ。三発全部、そこに集中させろ。視界を完全に潰せ。両目を奪ってこちらの狙いを悟らせるな」


 ノクトの片眉が、跳ね上がった。

 残り三発をここで使い切れば、彼の手から武装が完全に消える。これ以降、奴がもし空に上がろうとしても、彼にはもう止める手段がない。

 それでも、ノクトの口の端は、ゆっくりと吊り上がった。


「了解。最後の三発だ」


 その声には、躊躇いの欠片もなかった。彼は布から残りの爆発石を三発まとめて取り出し、両手に分け握った。

 そして、岩陰から半身を晒した。最後の三発のために、自ら射角を取りに行く——岩陰の死角という、彼の最大の生存条件を、自分から半分手放して。


 一発目が、ヴェルザレードの右目に吸い込まれ、瞼の縁で炎が炸裂する。間髪入れず二発目が、右目のさらに奥へ。眼球の表面が焼け爛れた。三発目は、苦痛に跳ね上がった暴竜の頭の軌道を、ノクトの目が先回りして読んでいた。右目のど真ん中へ、最後の一発が吸い込まれる。


 炸裂。


 ヴェルザレードの右目が、内側から潰れた。


 暴竜の首が荒れ狂った。両目を失った巨体が、自分の頭部を岩肌に何度も打ちつける。見えない。奴はもう、何も見えていない。視覚という座標を、完全に奪われた。

 両翼が開きかけた。けれど、開いた両翼は、空気を掴めなかった。どこへ向かって飛べばいいのか、奴の脳はもう判断できない。視界のない飛翔は、ただの墜落だ。三百年生きた本能が、それを許さなかった。両翼が力なく畳まれ、ヴェルザレードは地上に縫い止められた。完全に。


 俺は、その光景を見届けた。

 昨夜、窪地で組んだ盤面。楕円の外側に描いた、小さな丸。あの一個の駒が、たった今、その役割を完璧に果たし切った。爆発石、残弾ゼロ。


 ……だが、俺の脳内の警告灯が灯ったのは、その直後だった。


 ヴェルザレードの潰れた両目。その見えない顔が、ゆっくりと、こちらを向いた。

 ノクトの方向ではない。ノクトを通り越して、そのさらに後方——俺の方向へ。


 背筋を、冷たいものが走った。


 見えていないはずだ。奴は両目を失った。視覚の座標はゼロのはずだ。なのに、奴の顔は迷いなく俺を向いていた。


 脳内でピースが嵌まる。今度は、嵌まってほしくなかったピースだ。

 視覚を失った捕食者は、聴覚と空気の振動に頼る。この戦場で一番声を発し続けている存在——十二分間、絶え間なく岩山を裂く音を放ち続けている、ひとつの点。その点が、四つの駒の動きのすべてを操っている。四つの駒は、その点の音が止まれば、止まる。

 三百年生きた捕食者の本能が、群れの「核」を見抜いた。声を発し続けているこの小さな存在こそが群れの中心であり、これを潰せば群れは止まる、と。


 ヴェルザレードの尾が、ぐるりと後方へ、薙ぎの体勢に入った。狙いは俺のいる方向——いや、俺ではない。俺の背後の、岩壁だ。


 そして次の瞬間、その尾が、俺の背後の岩壁を、狙い澄まして叩いた。


 轟音。

 世界の音が、その一撃で白く塗り潰された。俺の背後の岩壁の上半分が、根元から剥がれる。崩落だった。岩山の側面が、岩塊の雪崩となって、俺の真上から降ってくる。


「ゼンさん!!」


 イリアの悲鳴が聞こえた。四人の中で、最も早かった。視界の隅で、彼女の手がもう杖を握り直しているのが見えた。彼女の祈りが、加護の詠唱に入ろうとしている。

 けれど、間に合わない。俺の脳の冷たい部分が、即座に計算した。崩落の速度と、彼女の詠唱の速度。その二つは交わらず、届かなかった。


 俺は咄嗟に、横へ跳ぼうとした。跳べ、と脳が命じる。けれど、足が岩肌の爛れた窪みに、半分嵌まっていた。

 最初にここに陣取った時、声を扇形に届かせるために、全員に視界の通るこの窪みを選んだ。その窪みの縁が、いま、俺の足を掴んでいた。

 軍師の選んだ最良の指揮位置が、軍師の逃げ場を塞いだのだ。


 岩が、降ってきた。

 俺の視界が、暗転した。


 どれだけの時間が経ったのか、わからない。たぶん、ほんの数秒。

 音が戻ってきた。粉塵の匂い、砕けた岩の乾いた匂い、そしてその奥に、まだ硫黄と獣の血の匂いがあった。

 俺は、生きていた。


 目を開けると、粉塵がゆっくりと晴れていく。

 俺の下半身は、人の頭ほどの岩塊に挟まれて、完全に動きを止めていた。腰から下が見えない。岩と岩の隙間に呑み込まれている。脚の感覚はあった。痛みもある。潰れてはいない。けれど、動かなかった。一ミリも動かない。

 軍師の足が、戦場に縫い止められた。


 だが、俺の上半身は、崩れた岩塊の隙間から辛うじて突き出していた。胸から上、顔、そして——喉。


 俺は、息を吸い込んだ。

 喉の内側が軋み、血の味が舌に乗る。構うな。脚が潰れていないなら。上半身が岩から出ているなら。顔が戦場を見られるなら。

 なら、まだ——声は、出る。


「——配置、崩すな!」


 俺の声が、粉塵を裂いた。

 四人の動きが、一瞬止まりかけていた。崩落の轟音に、全員の視線がこちらへ向いている。


「レオン! 攻めの手を、緩めるな!」


 レオンの身体が、ヴェルザレードへ向かう途中で、こちらへ振り返ろうとした。彼の顔には、はっきりと動揺が走っていた。軍師が岩に呑まれた——その光景が、彼の中の何かを激しく揺さぶっている。


「軍師殿——!」


「振り返るな!」


 俺は、肺の底の底から、声を引き上げた。

 喉の内側で、皮が剥がれるのではなく、裂ける音がした。明確に、何かが千切れる音だった。血の味が、口の中に溢れる。


「俺を見るな!竜を見ろ!!」


 岩山の全部の空気を震わせる絶叫だった。


 四人の身体が、びくりと跳ねた。そして、従った。

 レオンの首がヴェルザレードへ戻り、ガランが大盾を構え直す。エレーヌの杖が次の継ぎ目を捉えた。イリアだけが一瞬こちらを見たが、その手は、レオンへの加護の詠唱を止めなかった。


 四人は、軍師を見なかった。暴竜を見た。

 軍師の声が、考えるより速く、彼らの身体を動かした。十二分間、繰り返し刻み込んできたその反射が、軍師が岩に呑まれたこの瞬間にも、生きていた。


 俺は、それを見届けた。

 見届けて——背筋を、冷たいものが、もう一度走った。


 ヴェルザレードは、四人を見ていなかった。

 奴の潰れた両目の、見えない顔は、まっすぐに、岩に呑まれた俺を向いていた。


 声を発し続ける、小さな核。その核が、いま岩に挟まれて動けなくなっている。逃げ場がない。三百年生きた竜の本能が、それを正確に嗅ぎ取り、この群れの中心を狙っている。


 ヴェルザレードの喉が、深く沈んだ。

 喉元の、半分剥がれた鱗の、その奥で、最後の力を振り絞るように、赤い熱が灯る。


 ブレスの予兆だった。学習によって消したはずの予兆を、いま、奴はもう一度灯した。隠す必要がないからだ。標的は動けない。予兆を見られても、標的は避けられない。だから奴は、全力を込めるために、あえて予兆を戻したのだ。


 喉の奥が赤熱していく。一拍。扇形の業火が、来る。


 俺は、自分の置かれた盤面を、即座に計算した。

 下半身は岩に固定され、可動域はゼロ。左右への回避は岩塊が塞いでいて不可能。上方への退避も岩の天井に阻まれる。頭を引っ込めようにも、岩の隙間の奥行きが足りず、顔は隠せても肩から下は隙間から出たまま——どれも、不可能だった。


 計算結果は、一行だった。

 避ける選択肢は、ない。


 ヴェルザレードの喉の赤熱が、臨界に達する。


 俺は、岩の隙間から、その赤い光を、まっすぐに見ていた。

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