第65話 暴竜討伐(4)
開戦から、八分。
……いや、実際にはもっと長く感じていた。
仲間たちが一手動くたび、頭の中の感覚がいったん途切れ、また最初から数え直される。そんな感覚が延々と続いているせいで、時間の感覚が狂っていく。だが、視界の端に映る岩肌の影は、最初の咆哮からほとんど位置を変えていない。太陽もまた、頭上の同じ場所に貼りついたままだ。
盤面そのものは、想定通りに進んでいる。
ヴェルザレードの鱗は四枚剥がれていた。潰れた左目から喉の脇、肩口にかけて三箇所、赤黒い肉が外気に晒されている。粘ついた黒血が前肢から岩肌へ垂れ、鈍い光沢を残していた。
俺が組んだ陣形は、まだ崩れていない。
レオンが跳び、ガランが押し上げる。エレーヌが装甲の隙間を撃ち抜き、イリアの加護が数秒だけ死を遠ざける。俺の指示を追うように、ノクトが正確に感覚器を削っていく。五人はそれぞれの役割を寸分違わず果たしていた。
それでも、倒れない。
三百年。
その数字の重みが、腹の底に鈍く沈んでいた。俺たちが削っているのは、長い年月を生き抜いた怪物の表層にすぎない。鱗を四枚剥がしたところで、こいつにとっては爪先が少し欠けた程度の誤差なのだろう。
奥歯を強く噛み締めた、その瞬間だった。
戦場の前提が、音もなく崩れた。
最初に違和感を覚えたのは、ヴェルザレードの喉元だった。俺はずっと次のブレスの予兆を待っていた。喉が赤熱し、一拍置いて放たれる。それがここまで二度、俺たちを生かしてきた法則だった。
だが、その赤熱が来ない。
喉は暗い土色のまま沈み込み、そのまま予備動作もなく巨大な顎が開いた。俺の肺はすでに「伏せろ」と叫ぶ準備を終えていたのに、口から飛び出したのは別の言葉だった。
「散開ッ!」
直後、扇状の炎が岩肌を薙ぎ払った。四人の身体が四方へ弾けた直後だった。熱風がレオンの鼻先を掠め、ガランの大盾の端を白く溶かしていく。
ぎりぎりだった。
呼吸が止まりそうになる。
予兆が消えたのではない。こいつは、自分で予兆を消した。
「ゼン、奴は予兆を潰してる!」
岩陰からノクトが叫ぶ。確認というより、冷たい事実をそのまま投げつける声だった。彼の残弾も、もうほとんど残っていない。
「わかってる」
喉の奥が焼けるように痛む。口の中に鉄の味が広がっていた。
理解している。だからこそ、盤面を根本から組み替えなければならない。
三百年生きた怪物は、ただ殴られるだけの的ではない。学習する。一度通じた手は二度と通らない。読まれるなら崩し、予測されるなら外してくる。前職で何度も見てきた。市場の前提がひっくり返る瞬間。
ゲームで言えば、フェーズ2だ。
行動パターンを捨てる学習型ボス。俺が最も嫌っていたタイプ。何十時間も張りついて攻略した相手。第二討伐隊の記録にあった「喉の赤熱」も、生存報告に残された「腰の捻り」も、もう意味を失っている。
なら、見る場所を変えるしかない。
予兆ではなく、その手前だ。重心、筋肉、視線、収縮。生物である以上、動作の前に生まれる物理反応までは完全に消せないはずだった。
爬虫類は動く前に筋肉が張る。標的を捉える前に瞳孔が収縮する。重心は必ず逆側へ流れる。
視線を走らせる。
右前肢の第二関節。わずかに筋肉が張った。右目の瞳孔が細くなる。重心が左へ沈む。
「レオン、二歩右! ガラン、盾を斜めに!」
直後、尾撃が空間を薙いだ。捻りも予備動作もない完全なノーモーション。それでもレオンはすでにそこから外れており、ガランの盾が衝撃を上へ逃がす。
読めた。
新しい解析は、まだ機能している。
だが――。
「レオン、跳――」
言葉が途中で止まった。前肢が不自然に引き戻される。踏み込みのフェイント。その次の瞬間、巨頭がまっすぐレオンへ叩き落とされた。
思考の外側だった。
レオンは反射的に聖剣を掲げる。角が激突し、火花が散った。吹き飛びかけた身体を、ガランが背中で支える。
助かった。
だが、俺の指示は半拍遅れていた。
奴の学習速度が、俺の処理能力を追い越し始めている。
全部は読めない。
その事実を認めるしかなかった。すべてを処理しようとすれば、先に俺の脳が焼き切れる。読める部分だけを読み、残りは現場に託すしかない。半分でも回避できるなら、それで十分だ。
「ガラン、レオンの後ろへ! イリア、加護を二秒延長!」
叫ぶたびに喉が裂ける。血の味が濃くなり、視界の端が歪む。音も遠い。脳の処理量に感覚が追いついていなかった。
仲間たちの頭上に浮かぶ【理解】や【困惑】の文字。それすら二重にブレ始めている。
まずい。
これを見失えば、俺はただの置物になる。
左目を強く閉じ、無理やり開く。どうにか焦点を戻し、次の二十秒を組み直そうとした、その時だった。
岩棚の上で、エレーヌが火炎弾を放った。
まだ指示は出していない。俺の頭の中には「次は右肩――」という途中の命令だけが宙ぶらりんになっていた。だが、彼女は待たなかった。
竜が頭を振り下ろし、姿勢を戻すまでのほんのわずかな硬直。攻撃後、生物が必ず生む一瞬の隙。その空白を、彼女は正確に撃ち抜いた。
火炎弾は低く鋭く走り、喉の第四関節へ吸い込まれる。そこはまさに、俺が優先順位を決めかねていた場所だった。
硬い破裂音が響く。
五枚目の鱗が砕け、岩場へ転がった。
顔を上げると、エレーヌは杖を振り抜いた姿勢のまま止まっていた。薄く開いた唇。自分の一撃の感触を確かめるような表情。そして、その目がまっすぐ俺を見る。
頭上の【理解】という文字が揺らぎ、別の何かへ変わろうとしていた。
「ゼン、これは、私の判断だ」
元のエレーヌの自信ありげな声。
王都での一件以来、彼女らしさが抜けていたが、本来の自分にもどったようだ。
「文句は、ある?」
俺は彼女を見返した。
ここで止めれば、彼女はまた指示待ちへ戻る。「勝手な真似をするな」と言えば、優秀な砲手という道具へ戻ってしまう。そして俺は、すべてを抱え続けることになる。
そんな選択をする理由は、どこにもなかった。
「ない」
「次も、それでいけ」
短く答える。
エレーヌの目に熱が灯る。頭上の文字が、ぴたりと定まった。
【自信】。
俺が与えたものじゃない。彼女自身が掴み取ったものだ。
その瞬間、脳の奥に張りついていた重さが少しだけ軽くなった。喉への照準も、関節の優先順位も、もう俺だけで管理しなくていい。彼女に預ければいい。
……これだ。
暗い部屋。冷えたコーヒー。チャット越しに十人を動かしていた前世の夜。昔の俺は、全部を自分で管理しなければ崩壊すると信じていた。
だが、ある日イルが言った。
『ゼン、次の後衛配置、私に任せてよ。あんたもう限界でしょ』
半信半疑で任せた。あいつの配置は少し雑だった。それでも、現場の感覚があった。俺には見えていないものを見ていた。
あの日から、部隊は変わった。
軍師に必要なのは、優秀な部下へ判断を渡せることだ。全部を抱え込む指揮官は、最後には自分の限界で組織を潰す。人を信じて預けられる者だけが、その壁を越えられる。
前世で嫌というほど学んだことだった。だが、この世界はゲームじゃない。血があり、痛みがあり、誇りがある。本当にそれができるのか、ずっと怖かった。
けれど今、その答えが目の前にある。
エレーヌが再びヴェルザレードを見る。杖先が次の軌道を探り始める。
俺は深く息を吸った。
まだ終わっていない。敵は健在だ。学習も止まらない。鼻血も止まらず、視界も怪しい。
それでも……
盤面の一角が、確かな武器として独立した。
「攻勢、続行」
最初のような切迫感はもうなかった。代わりに、声の奥に静かな熱だけが残っている。
――任せた。
軍師としての本当の戦いは、ここからだった。




