第64話 暴竜討伐(3)
ヴェルザレードが、咆哮した。
左目を失った苦痛と、初めて自分の縄張りで血を流した怒りが、その音の中に、混ざっていた。
咆哮は、岩山の頂を、内側から殴った。
俺の窪みの底で、地面そのものが上下に揺れる。岩肌の隙間から細かい砂が舞い、配置に就いている四人の足元で、岩塊が小さく踊った。
レオンが、片膝を着く。
エレーヌが、岩棚の縁に手を突いて、辛うじて姿勢を保つ。
イリアが、両手の祈りを胸の前で組み直した。
ガランだけが、揺れの中で、一度も足を動かさなかった。
その向こうで、ヴェルザレードが、潰された左目を、前肢で乱暴に擦っていた。
三百年生きた捕食者でも、初めて失う眼球の激痛は、確実に脳を奪う。
頭を振り回し、岩塊を蹴散らし、自分の頭部に当たる空気そのものを、敵と錯覚して引っ掻いている。
その姿が、奇妙に、子供じみて見えた。
間がある。
決して長くない。
その間が、見えた瞬間、俺の脳は、もう次の盤面を、走らせ始めていた。
俺は、窪みの縁に両手をついて、岩を乗り越えた。
爛れた岩肌の上に、革のブーツの底が、乾いた音を立てて着地する。
軍師の足が、初めて、戦場の中心に、踏み出した。
四人の視線が、ほぼ同時に、俺へ集まる。
「プランBに、移行する」
短く、それだけを、言った。
四人の呼吸が、揃って、止まった。
プランB。
その一言が、それぞれの脳の中で、それぞれの形に砕けて落ちる。
プランAが破綻したことの確認。次があることの確認。そして、軍師がすでに次を持っていたことの確認。
俺自身、それが用意してあったものか、今この瞬間に組んだものか、自分でも判然としなかった。
判然としないことは、誰にも、明かさない。
「説明は、後だ」
血の味が、舌の上に広がる。構うな。
「私の声に、従え」
「レオン」
「応!」
「斬撃は、やめろ。直接、継ぎ目を刺せ。一撃で、引け」
レオンの眉が、跳ねた。
返事は、待たない。
「ガラン、盾を頭上に。レオンが踏んだ瞬間に、跳ね上げろ」
「……?」
「イリア、加護はレオン一人に。三秒だけ集中させろ」
「は、はい」
「ノクト、目、鼻、耳、口。柔らかい所だけだ。絶やすな」
「了解だ」
「エレーヌ」
最後に、彼女へ視線を投げる。
頭上の【困惑】の文字が、淡い灰色で、ぼんやりと滲んでいる。
俺だけが見える、駒の内側。
「火を、捨てろ」
彼女が、目を、見開いた。
「……は?」
「次、肩だ。二秒後、撃て」
俺は、彼女の理解を、待たなかった。
ヴェルザレードの前肢が、潰された左目から、ようやく離れた。
奴の頭が、ゆっくりと、こちらへ向き直る。
間が、閉じる。
「いま、動け!」
俺の声が、岩山を、裂いた。
四人の身体が、考えるより、先に動いた。
レオンが、左へ、跳んだ。
突撃の軌道ではなかった。ヴェルザレードの前肢の側面へと、斜めに走り込む軌道だった。彼の聖剣が、すれ違いざまに、肩甲骨に相当する部位の鱗を、撫でる。鱗が、わずかに、開いた。
(——見えた!)
俺の脳内で、その『開き』が、フラッシュのように焼き付けられる。
彼自身の脳の中でも、おそらく、同じものが、焼き付いた。
走りながら、レオンの目が、変わった。
鱗を「斬る」目から、継ぎ目を「刺す」目へ。
軍師の三つの指示——「斬撃を使うな」「継ぎ目を刺せ」「一撃で引け」——が、その瞬間、たった三歩の走りの中で、繋がった。
(そういう、ことか)
彼の唇が、声にならない呟きを、形作る。
軍師は、勇者の戦い方を、根本から、書き換えていた。
その背後で、ガランが、両腕で大盾を、頭上に、押し上げた。
盾を頭上に、と言われた瞬間は、わからなかった。
二十年、自分の身体の前で構えてきた半身を、空に向けて掲げる意味が、わからなかった。
けれど、レオンが斜めに走り出した瞬間——奴の体当たりではなく、跳躍へ移ろうとしている軌道を見た瞬間——彼の太い指は、もう、答えを掴んでいた。
踏み台。
ただの踏み台ではない。
俺の腕で、誰かを、空へ撃ち上げる、踏み台だ。
その理解が、彼の両膝を、深く、沈ませた。
ばね、を、貯める。
二十年、岩を受け止め続けた両腕に、今度は、岩を撃ち上げる仕事を、与える。
「レオン、こっちだ!」
ガランの低い声が、初めて、戦場に響いた。
彼の喉から、戦闘中に「指示」が出るのは、初めてのことだった。
軍師の指示を、受け取った駒が、別の駒に、自分の判断で、声を投げた瞬間だった。
レオンの足が、その声に応えて、ガランの頭上の大盾を、踏んだ。
その瞬間——
ガランの両膝が、爆ぜるように、伸び切った。
両腕が、盾ごと、頭上で、突き上げられる。
丸太のごとく太い腕の、その全部の力が、レオンの体重を、上へ、押し出した。
レオンの跳躍の頂点が、本人の脚力では絶対に届かない高さに、ぐんと、押し上げられる。
三段の、ばね。
一段目、レオン自身の脚力。
二段目、ガランの剛力による突き上げ。
そして、三段目——
その瞬間、イリアの祈りが、走った。
「——白き加護よ、彼の腕に集え!」
彼女の声が、いつもより、わずかに、強かった。
全員に均等に配るのを、やめた瞬間。
誰か一人を、選んだ瞬間。
彼女の祈りの先で、三秒、という制限が、初めて、意味を持つ。
その三秒で、彼が斬れるかどうか。
そこに、彼女の祈りの「重さ」が、全部、乗る。
白光が、跳んだレオンの全身を、包んだ。
同時に、エレーヌが、火炎弾を放った。
火を、捨てろ。
火を、火として撃つな。
矛盾した命令が、彼女の頭の中では、まだ、消化しきれていなかった。
それでも、砲手の手は、動き始めていた。
爆発の範囲が要らないなら、点に当てる方が、楽だった。
彼女の照準は、ヴェルザレードの肩に相当する屈曲部の、鱗の継ぎ目に、絞られていた。
火炎弾が、命中する。
炎は、前と同じに、鱗に吸われた。
けれど——
吸われる前のコンマ数秒、火炎弾の「球体」が、継ぎ目に叩きつけた運動エネルギーが、鱗を、内側から、わずかに、押し開けた。
継ぎ目が、こじ開く音がした。
エレーヌの杖を握る指が、震えた。
いや——
震えではなかった。
握り直した、指の動きだった。
彼女の口が、薄く、開いた。
(——火じゃ、ない)
(私が撃っていたのは、火じゃ、なかった)
頭上の【困惑】の文字が、滲んで、ほどけて——
【理解】に、書き換わった。
彼女は、自分の目で、見た。
火属性は、入らない。けれど、火炎弾という「質量」は、入る。
軍師が「火を捨てろ」と言った意味を、彼女は、自分の手の中で、たった今、発見した。
その発見は、軍師に与えられたものではなく、彼女自身の砲手としての腕が、最初に、掴み取ったものだった。
俺は、それを、視界の隅で、確かに、見届けた。
見届けて、それで、十分だった。
跳んだレオンの聖剣が、こじ開いた継ぎ目に、吸い込まれる。
火花は、散らなかった。
代わりに——
血飛沫が、散った。
黒い、粘り気のある血が、虚空に、弧を描いた。
「届いた——!」
レオンの叫びが、岩山に、響いた。
その声には、確信があった。
弾かれた金属の感触ではなく、確かに肉を切った重みが、彼の腕に、伝わったのだ。
(突撃、するな)
(継ぎ目を、狙え)
(一撃で、引け)
軍師の三つの指示が、たった今、彼自身の聖剣の手応えとして、繋がった。
軍師は、勇者から「真っ直ぐ斬る」自由を取り上げた。
代わりに、勇者に「斬れる場所を探して、確実に刺す」術を、与えた。
その引き換えの意味が、レオンの腕の中に、たった今、結晶した。
「レオン、引け!」
俺の声に、レオンが、刃を引きながら、跳んだ軌道のまま、ガランの脇へ落下する。
ガランは、突き上げた両腕を素早く下ろし、頭上の盾を、レオンの落下の側面へ、すかさず差し出した。盾の縁が、ヴェルザレードの反撃の尾を、レオンの背中側から、横へ逸らす。レオンの体勢が一瞬崩れるが、ガランの厚い背中が、岩壁のように、彼の着地点を塞いでいた。
もう一度、踏み込める。
何度でも、踏み込める。
「ノクト、右目!」
ノクトの二発目の爆発石が、もう、宙を切っていた。
俺の声は、彼の腕に、追いついていない。
彼は、俺が指示を出すよりも、半呼吸早く、自分の判断で、ヴェルザレードの残った右目に、照準を合わせていた。
(絶やすな、と言われた)
(言われた、ということは、絶やさない限り、軍師の盤面は、回り続ける)
彼の腕の中で、その理解が、駆動していた。
爆発石が、瞼の縁を、内側から焼く。
暴竜の頭が、苦痛に振り回される。両翼が、再び広げかけては、視覚の混乱に、閉じ込められる。
飛翔の選択肢を、ノクトの腕が、一発ずつ、削り続けていた。
「エレーヌ、喉、第七鱗!」
彼女の杖が、振り上がる。
今度の彼女は、迷わなかった。
火を、捨てる。質量だけを、撃ち込む。
杖の先の火炎弾は、最初の一発より、明らかに、軌道が低く、速かった。砲手の身体が、すでに、新しい「使い方」に、最適化され始めている。
継ぎ目が、こじ開く。
「ガラン、三歩、左!」
「応!」
ガランが、大盾を頭上に構えたまま、左へ、三歩、踏み出す。
二百キロを超える巨体が、構えを一切崩さず、横へ滑るように動く。喉の継ぎ目の真下へ、新しい射出点が、設置された。
「レオン、跳べ!」
「イリア、三秒!」
白光が、レオンを、包む。
継ぎ目に、聖剣が、入る。
血飛沫が、散る。
鱗が、一枚、剥がれて、ガランが頭上に掲げ続ける大盾の上に、軽い音を立てて、落ちた。
俺の脳内で、盤面の駒が、最初の一手目を、終えた。
ヴェルザレードが、咆哮した。
今までの咆哮とは、質が違った。
怒り、ではなかった。
いや、怒りは、確かにあった。けれど、その怒りの底に、別の感情が、混じっていた。
——脅威の、認知。
三百年生きた個体が、自分の身体の上に、確かなダメージが「届いた」という事実を、初めて認めた瞬間だった。
その咆哮を、俺は、はっきりと、聞き分けた。
効いた、と。
奴は、認めた、と。
俺の声が、また一段、鋭くなる。
「攻勢、続行!」
四人の身体が、また、考えるより、先に動いた。
ヴェルザレードの動きが、三十秒ごとに、俺の組んだ型に、嵌まっていく。
レオンが、跳ぶ。ガランが、支える。エレーヌが、継ぎ目を、こじ開ける。イリアが、加護で、底上げする。ノクトが、感覚器を、削り続ける。
俺の声が、その五つを、一つの生き物として、束ねていく。
鱗が、二枚、三枚、剥がれて落ちた。
黒い血の弧が、岩肌に、降りた。
ヴェルザレードの動きから、わずかに、迷いが、滲み始めた。
——機能していた。
俺の盤面は、ほぼ完璧に、機能していた。
「レオン、右へ! ガラン、その二歩後ろ! エレーヌ、一秒後、首側面、第二継ぎ目!」
俺は、ヴェルザレードの右肩の動きを、目で追う。
次の二十秒。
奴がどう動き、こちらがどう動くか。すでに、頭の中で、組み終わっている。
組み終わっている、その盤面を、声で、駒に流し込むだけだ。
「レオン、左へ——」
俺の指揮は、止まらなかった。
軍師の盤面は、ここから始まる。




