第62話 暴竜討伐(1)
窪地に広げ直した地図の上で、ノクトの爪が東へと滑る。
関門の印を通らず、東の岩山地帯。そのど真ん中で、ピタリと動きが止まった。
「ここだ」
彼の指の腹が、地図を強く押し付ける。
「活火山の噴火口をねぐらにしているのが《暴竜のヴェルザレード》。三百年生きた化け物だ。魔王軍ですら過去三度討伐隊を送って、三度とも消し炭にされてる」
じわり、と。
首筋に嫌な汗が伝うのを感じた。
レオンは瞬きひとつせずノクトを見据え、イリアの組んだ指先は白く鬱血している。
「奴が噴火口に陣取っているせいで、下手にデカい魔法を撃ち込めば火山そのものが大噴火を起こす。……それが魔王軍が手を出せない最大の理由だ」
ノクトの視線が、ちらりとエレーヌへ向いた。
彼女がペンダントを弄っていた指先を止める。誰よりも彼女自身が、その「縛り」の重さを突きつけられた顔をしていた。
「大技を封じられた状況で、今は縄張りに入る奴を片っ端から焼き尽くしてる。関門の連中がこっちに張り付いてんのも、半分はあのトカゲへの警戒だろうな」
乾いた風が吹き抜け、地図の端がバタバタと煽られる。
俺は手近な石を拾い、それを押さえ込んだ。
「……つまり、あれを墜とせば」
無意識に声が漏れていた。
ノクトが、口の端を少しだけ吊り上げる。
「ああ。関門の連中も『魔族軍の悲願を達成した英雄』を無視はできなくなる。歓迎するか、それとも全軍で警戒するか。どっちにしろ、向こうの喉元に刃を突きつけられる」
頭の中で、カチリと歯車が噛み合う音がした。
関門の正面突破を避けて、隣のちゃぶ台をひっくり返す。向こうがこちらを「ただの敵」として殴り潰す前提条件を、根こそぎ奪い取る。
コンサル時代によく描いた、強引な盤面の引き直し。
「俺がやる」
レオンだった。
その太い指が、無意識に腰の聖剣へと伸びている。
俺は即座に手を伸ばし、彼の腕を掴んだ。
「お前一人じゃ、ただの消し炭になる」
ピクリと、レオンの動きが止まる。
「個人の武力でどうにかなる質量じゃない。おまけに、今回は地形の制限が最悪だ」
視界の端で、エレーヌの肩がわずかに揺れたのが見えた。
広域爆破魔法を封印された砲手。自分の存在価値を根底から揺るがされている彼女の焦りが、痛いほど伝わってくる。
窪地に、息が詰まるような沈黙が落ちた。
「……では、軍師殿はどうしろと言うのだ」
レオンが、珍しく低い声で食い下がってきた。
聖剣の柄を撫でる指先。あれは余裕なんかじゃない。圧倒的な死の気配を前に、本能的に「すがるもの」を探している人間の動きだ。
俺は黙って腰を下ろし、足元の小枝を拾った。
乾いた土の上に、歪な楕円を描く。その中に四つの点。それぞれの間に矢印を引く。
「お前たち四人を、ひとつの『生き物』として動かす」
俺の手元に、四人の視線が吸い寄せられる。
「レオンは矛だ。最前線でひたすらヴェルザレードの注意を惹きつける」
一つ目の点に、星を刻む。
「ガランは盾。レオンが避けきれない一撃を肩代わりして、絶対の壁を作る」
二つ目に四角。
「エレーヌは砲。ただし、絶対に誘爆させない精密射撃だ。広域爆破魔法は捨てろ。単発の火炎弾だけを撃ち込み続ける」
三つ目の菱形。エレーヌの眉が、わずかに跳ねた。
「イリアは命綱。レオンとガランの命を、その場で強引に繋ぎ止め続ける」
四つ目に十字。
最後に、楕円の少し外側に、小さな丸を付け足す。
「ノクトは別動。岩陰の死角から、石で奴の目を狙え。気を逸らし、空に上げない役だ」
ノクトが、面白そうに片眉を上げた。
「で、その丸の隣の……もうひとつのバツ印は?」
「俺だ」
枝の先で、その点を深く抉る。
「各自が勝手に動くんじゃない。俺の指揮に合わせて、全員でひとつの呼吸をする。……それが、唯一の勝ち筋だ」
「指揮、だと……?」
レオンの顔に、明確な戸惑いが浮かんだ。
無理もない。彼の知る「ゼン」は、後方で地図と算盤を弾く男だ。血肉が飛び散る最前線で采配を振るう姿なんて、一度も見せたことがない。
彼は慎重に言葉を探すように口を開いた。
「俺は、お前が戦場の指揮を——」
「経験ならある」
俺は即答した。
自分でも驚くほど、声の芯がブレていなかった。
「……別の世界で、だけどな」
まぶたの裏に、薄暗い部屋のモニターの明かりがちらついた。
冷めきった泥水みたいなコーヒー。チャット越しに、十人のプレイヤーを動かしていたあの途方もない時間。
相棒だったイルと共に、毎日画面に噛み付いていた。
ボスの予備動作、フェーズ移行のトリガー、コンマ秒単位の回避コマンド。息を吐くように指示を飛ばし、阿吽の呼吸で一撃離脱を繰り返す。
命なんて懸かっていなかった。ただのデータだ。
けれど——戦場を支配する「最適解」だけは、間違いなく俺の血肉になっている。
「血も流れない世界で、嫌になるくらい磨いた理屈だ」
俺は枝を放り投げた。
「だが、根本の文法は同じだ。お前たちが俺の声を信じられるなら、あのトカゲは必ず墜ちる」
空気が、変わった。
レオンが目を細め、俺を真っ直ぐに見据える。疑いじゃない。俺という人間の底を測り、新しい信頼の器を用意しようとする目。
「いいねえ、ゼン」
ノクトの喉から、くくっ、と乾いた笑いが漏れた。
「相変わらず、一番イカれた選択肢を押し付けてくる」
呆れたような響きの中に、確かな熱が混じっている。
俺はその熱を正面から受け止めた。
「ノクト。偵察で拾えた手札を全部出せ」
彼は片膝をつき、地図の余白を指でトントンと叩いた。
「待ってたぜ。だが、最初に言っておく」
すっと、ノクトの目が鋭くなる。
「俺がこの目で見たのは、ねぐらの位置と焦げた岩だけだ。戦闘そのものは見ちゃいない」
場に、再び薄い緊張が走る。
「これから話すのは、魔王軍の記録と生き残りのうわ言だ。過去三回の討伐隊が遺したゲロを、俺がかき集めただけのごみ溜めだぞ」
完璧な情報なんて、経営の現場にも戦場にもない。
手持ちの不確かなカードで、いかに勝率をマシにするかだ。
「構わない。話せ」
ノクトが小さく頷く。
「攻撃手段として報告されてるのは三つ」
指先が、地図の中心で弧を描く。
「ひとつ、ブレス。扇形で射程はだいたい三十歩。喉元が赤く光ってから吐き出すまでに『一拍』の間がある。二度目の討伐隊の、最後の通信記録だ」
俺は地面の楕円から、外側へ向けてぐっと扇の線を引いた。
「間隔は?」
「短くて十数えるくらい。長けりゃもっと」
連射型じゃない。大ぶりな詠唱魔法に近い。
……いや、うわ言の伝聞だ。実際はもっと早い可能性も頭に入れておくべきか。
「ふたつ目、尻尾だ。巨大な質量が飛んでくる。振るう前に、必ず一度腰を深く捻る」
ガランの分厚い胸板が、わずかに上下した。
盾役として、その一撃の重さを誰よりも生々しく想像したのだろう。
「みっつ目。……これが最悪だ」
ノクトの声から、ふざけた色が完全に消えた。
「三度目の討伐隊の生き残り。今はただの廃人だが、出撃前に酒場で漏らした言葉が残ってる」
「……なんて言った?」
「『あれが空に上がった瞬間、隊の半分が消し飛んだ』。それだけだ」
背筋に、氷を押し付けられたような悪寒が走った。
頭の中で、散らばっていた情報がひとつの形を結ぶ。
空へ飛ぶ。それは単なる攻撃のバリエーションじゃない。前世のゲームで嫌というほど味わった「フェーズ移行」だ。
地上戦の前提が崩れ、全く違う理不尽なルールのゲームが強制的に始まる合図。討伐隊が半壊したというのも、おそらくそういうことだ。
「ノクト」
俺は、声を一段、低くした。
「お前の最優先を、もう一度確認させろ。目をを潰し続けろ。どんな生物でも目は弱点だ。空に上げるな」
「コントロールなら自信があるぜ。木に止まっている鳥なら百発百中だ。よく石で狩っていたからな」
「止まっている鳥とは違うからな。気を抜くなよ」
——その時、ぽつりと声がした。
「ゼン」
エレーヌだった。
彼女の視線は、ノクトの腰のポーチに留まっている。中に詰められた、拳大の石。十発ほど。
「ノクトの石」
「ああ」
「私が、魔力を込められる」
窪地の空気が、止まった。
ノクトの薄笑いが、ふと消えた。
俺は、枝を持つ手を、わずかに止めた。
「続けて」
俺は、短く促した。
彼女に、考える時間を与えるな。流れに乗せろ。
「火炎弾の構成式を、石の内部に封じ込める。衝撃で発動する単発の起爆構造に組み直せば——投げて当たった瞬間に、同等の威力で爆ぜる」
エレーヌの声は、最初は俯いたまま、けれど、次第に顔が上がっていった。
「広域爆破魔法と違って、誘爆させない設計にできる。魔力を、石を媒体にして、命中時に爆発させる」
「制約は」
俺は、彼女の目を見た。
「どこに、いくつ、どれくらい」
「数は、十個が限度」
即答だった。
「事前の付与に時間がかかる。今夜一晩で、私が込められるのは、その数だ。そして、込めた後は、私自身の魔力残量は、火炎弾の連射に響く」
窪地の全員が、彼女の声を聞いていた。
「言い換えれば、十発の『遠隔火炎弾』を、ノクトの腕に預けることができる。私の射線が通らない死角からでも、火力を撃ち込める。距離も、岩二つ分くらいなら、ノクトの肩なら届くはずだ」
ノクトが、自分の腰のポーチに、ゆっくりと手を当てた。
「届くな」
脳内で、盤面が組み変わる。
ノクトの役割が、「目潰し撹乱」から「目潰し撹乱+遠隔砲台」へと拡張される。エレーヌの火力は、彼女自身の射線に縛られず、ノクトの機動で運ばれる。死角からの一撃。
そして、何より——
俺は、エレーヌを見た。
「これは『使い方を変えられる』どころじゃない。お前は、自分で『使い方を発明した』」
エレーヌの頬に、わずかに血の気が戻った。
俺は、地面の楕円に、新しい点を描き足した。エレーヌの菱形と、ノクトの丸を、点線で繋ぐ。
「装弾は十発。撃ち切ったら戻らない。ノクト、お前は装填済みのこの十発を、どこで使う」
ノクトは、しばらく地図を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「最初の一発は、左目だ。ブレスの兆候を見せた瞬間に叩き込む。残りは、流れで決める」
「了解だ。残りは、戦況を見て俺が指示する。だが、お前の判断で打ち抜いていい場面が来たら、勝手にやれ」
「軍師殿の許可をもらえるとはな」
ノクトが、また薄く笑った。今度の笑みには、戦場で出る種類の熱が、はっきりと混じっていた。
「合図は俺の声だ」
俺は四人の顔を、ひとりずつ見据えた。
「いま聞いた情報はあくまで前提だ。現場でズレが生じたら、その瞬間に俺の声で上書きする」
「『警戒』なら防御態勢。『退け』なら即座に後退。『攻め』なら全ツッパ。短い単語で叩き込む。……聞き逃すなよ?」
ガランが、岩のような顎をゆっくりと引いた。
イリアが、ぎゅっと唇を噛み締めて頷く。
エレーヌが、ペンダントを握っていた手を下ろした。
「……砲手として、ひとつ確認させて」
彼女の声は固い。だが、絶望の色は消えていた。
「広域爆破を封じられた私は、戦力として——」
「半減以下だな」
俺は一切のオブラートに包まず、事実だけを告げた。
「だからこそ、お前は『当てる』ことだけに脳みそを使え。足りない火力は、俺が他で帳尻を合わせる」
エレーヌの目が、わずかに見開かれた。
軍人として「火力を奪われた」ことに怯えていた彼女が、初めて自分の新しい居場所を見つけたような顔だった。
「……了解。ただ当てるだけなら、的がどれだけ小さくても外さないわ」
「頼む」
イリアが、胸の前で組んでいた手を解いた。
彼女の細い指先が、地面に描かれた「十字」の印にそっと触れる。
「命綱、ですか」
「ああ。お前の回復で、前の二人に無理矢理立っていてもらう」
「……はい」
彼女の頬に、少しだけ血色が戻った。
「必ず、皆さんを繋ぎ止めます」
ガランは何も言わなかった。
ただ無言で大楯を、自分の前にドンッ、と突き立てた。
壁になる。彼の不器用な決意表明だった。
太陽が西へ傾き始めた頃、俺たちは窪地を出た。
関門を背にして、東へ。
平原の土の匂いが消え、景色が徐々に赤茶けた岩肌に塗りつぶされていく。
ツンとした硫黄の悪臭が鼻腔を焼き、一歩踏み出すごとに空気がひりついた。
ノクトが先導する。
彼の足取りに迷いはない。岩と岩の隙間を縫うように、獣道を的確に辿っていく。
俺は最後尾から、歩く四人の背中を見ていた。
レオンの広い背。ガランのさらに分厚い背。エレーヌの細い肩。イリアの小さな背中。
全員が、真っ直ぐに前を向いている。
恐怖がないわけじゃない。圧倒的な死の予感を抱えたまま、それでも足を進めている。
ふと、思い出した。
前世で、高難易度のレイドボスに突入する直前。俺がいつもチャットしていた、お決まりの台詞。
肺の奥まで硫黄の空気を吸い込み、俺はこの理不尽な異世界の仲間たちに向けて、初めてそれを口にした。
「全員、配置につけ」
ザッ、と。
四人の足音が、同時に止まる。
振り返ったレオンが、ふっ、と不敵に口角を上げた。
カチャリと、聖剣が鞘の中で鳴る。
岩山の向こう側から、空気を直接揺らしてくるような、腹の底に響く低い唸り声が聞こえた。
三百年の時を生きる化け物が、自分の庭に踏み込んだちっぽけな餌の存在に気づいたのだ。
俺は、もう一度深く息を吐き出した。
コンサル時代のように、安全圏から綺麗な絵を描くことはもうできない。
ならば、俺の采配で、この四人を誰一人死なせずに勝たせるだけだ。
熱風が吹き荒れる中、俺の初陣が幕を開ける。
ノクトの活躍の場をつくりたくて、大幅に改変しました。
ここから本格的なバトルが始まります。




