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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第4章 魔族領

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第61話 魔族領の関門

 エルナ郷を発って三日。太陽が真上を過ぎた頃だった。


 砂利混じりの平原を静かに進む。足元には背の低い草がまばらに生え、獣道のような細い土の筋が、地平線に向かって何本も這いずっていた。

 空気が、昨日とは違う。

 かすかに硫黄の匂いが漂っている。


 地平線の彼方に、それはそびえ立っていた。

 黒い石壁。

 関門と呼ぶにはあまりに威圧的で、城壁と見紛うほどの高さだった。左右には無骨な石積みの稜堡が翼のように伸びている。

 壁の縁には、黒い点がいくつも並んでいた。数えるまでもない。こちらの六人より、圧倒的に数が多い。


 巨大な岩の影から望遠鏡を覗き込む。

 ぼやけていた黒い点が、鋭利な輪郭を持って網膜に焼き付いた。

 一見、人のようだが、頭から生えた歪な角。

 あれは、魔族。

 無意識のうちに、指に力が入る。

 まだ完全に捕捉されてはいないはずだ。向こうの矢の射程距離の、ほんの少し外側。


「ここで、一旦休む」

 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。


 岩陰のなだらかな窪地に腰を下ろす。野営地と呼べるような代物じゃない。風の通り道からわずかに外れただけの、ただの浅い物陰だ。


「軍師殿」

 地平の黒い壁から目を離さず、レオンが口を開いた。


「あの数だ。まともに正面からぶつかれば、半日は足止めを食う」

「だろうな」

「だが、エレーヌの広域爆破魔法エクスプロージョンなら、関門ごと吹き飛ばせる」

 レオンの指が、腰の聖剣の柄を撫でる。

「壁さえ崩れれば、上の兵は足場を失う。俺たち六人なら、瓦礫の上を抜けるのは容易い」


 隣で、エレーヌがかすかに頷く気配がした。

 彼女の指は、胸元のペンダントを弄っている。王都を出たあの夜から続く、彼女特有の無意識の癖。そこには微かな躊躇の色が滲んでいたが、軍人としての冷徹さは、レオンの提案に傾きかけていた。


「……火力は、出せるわ」

 エレーヌの硬い声が落ちる。

「あの石の組み方なら、全力は必要がない。七割の魔力で、落ちるわ」


 俺は広げかけていた地図を、ゆっくりと折り畳んだ。

 乾いた紙の音が、窪地に響く。


「却下する」


 レオンの眉根が、ピクリと寄った。

「ここで派手に立ち回れば、確かに関門は抜ける。だが、抜けた瞬間にどうなる?」


 俺は二人を交互に見据えた。

「魔族側の警戒レベルが『関門の異常』から『領内全域への侵入』に跳ね上がる。ここから魔王城までは何百キロもあるんだぞ。途中には街も検問も腐るほどある」


 二人の口数が減る。

 コンサルタント時代、クライアントの無謀な事業計画を叩き潰す時に使っていたのと同じ、冷や水のようなロジック。


「半日もすれば『六人組の人間が領内を荒らし回っている』という情報が全土に回る。次の街に着く前に討伐隊に囲まれて終わりだ。広域爆破魔法エクスプロージョンは、一度きりの切り札。ここで切るのは、あまりに割に合わない」


 レオンは押し黙った。

 聖剣の柄にかかっていた指が、ゆっくりと離れていく。エルナ郷の屋根の上で、月を見上げていた時と同じ、諦観の混じった引き方。

「……了解した。提案を下げる」

「すまない」

「謝るな。あんたの判断だ」


 だが、エレーヌの唇はまだ固く結ばれていた。

 ペンダントを握る指の力が、抜けていない。

 戦術への反発じゃない。もっと根深い、彼女自身の足元を揺るがす何か。

 俺はそれに気づかないふりをした。


「ノクトに行ってもらおう。同じ魔族だから怪しまれる可能性は低い。王都から逃げてきたとでも言えばよいだろう」

「了解。任せておきな」

 即座に関門に向かって歩き始めた。


     ◇



 ノクトが影から滑り出てきたのは、それから一日ほど経ってからだった。

 草の擦れる音よりも先に、かすかな気配だけが先走って届く。いつもの彼らしい帰還。


「ゼン、報告」

 どさりと地面に腰を下ろし、革袋の水を呷る。


「あそこの連中、まともに戦えるようなタマじゃないぜ」

 俺は地図に関門の印を書き込みながら、先を促した。

「ただの農民だ。臨時の門番をやらされてるだけだ」


 レオンが顔を弾かれたように上げた。

「農民、だと?」

「正確には、帰る場所を失った農民、だな。畑も家も焼かれてる」

 ノクトは革袋を放り投げた。

「村と農地を、暴竜にめちゃくちゃにされたらしい。生きる術を失くした連中を救済するために、魔王が公共事業として門番に雇い入れたんだとさ。家族の分の食糧支給付きでな」


 指先が、スッと冷たくなった。

「公共事業?」

 舌の上で転がしたその単語は、この血生臭い異世界にはひどく不釣り合いに響いた。

「魔王が、か」

「ああ。暴竜退治に三回も討伐隊を出したらしいが、全部失敗。あの竜をどうにかしない限り、連中は永遠に村には帰れない」


 重い沈黙が窪地に落ちた。

 風が運んでくる硫黄の匂い。あれは関門からじゃない。もっと別の、奥深くから漂ってくるものだ。


 俺は、折り目をつけた地図を、再び地面に広げた。

 関門の印。そのさらに東、人跡未踏の岩山地帯に、ノクトが黒い鉛筆で書きなぐった新しい印があった。

 添えられているのは、乱暴な筆致の『竜』のひと文字。


 脳内で盤面をひっくり返す。

 俺たち六人の戦力。三度の討伐を退けた暴竜。農夫たちの奪われた日常。魔王軍の警戒網。

 バラバラだったピースが、カチリと音を立てて噛み合った。

 弾き出された解は、一つ。


「血を流さずに、ここを通る盤面を作る」

 ひどく乾いた俺の声に、五人の視線が突き刺さる。


「三日、くれ」

 レオンの手が、完全に聖剣から離れた。

 エレーヌがペンダントを離し、イリアが祈りの形を解く。ガランが深く頷き、ノクトが口角を吊り上げた。

「ゼン、種明かしは?」


 俺は、地図の上の『竜』の文字を、人差し指で強く叩いた。


「俺たちが、その暴竜を狩る」

 息を吸い込む。

「そして、農夫たちに村を返してやる」


 吹き抜けた突風が、平原の草を大きく揺らした。

 陽炎の向こう、黒い石壁の上に立つ魔族たちの影が揺れる。鍬を槍に持ち替えさせられた彼らは、俺たちが何者かも知らず、ただ怯えながら監視を続けているのだろう。


 その矢を、放たせずに終わらせる。

 それが軍師の仕事だ。剣を抜く前に、抜かずに済む道を盤面に描くこと。


 俺は、地図を押さえていた右手を強く握り込んだ。

 剣の柄ではなく、ペンを握るための手。

 正義の剣を振るうことより、振るわない理由を泥臭く見つけ出すことの方が、ずっと骨が折れる。


 三日後、あの岩山に暴竜の死骸を積み上げる。

 頭の中で、黒い壁の上に立つ見ず知らずの農夫たちへ、小さく頭を下げる。

 お前たちの帰る場所は、俺たちが取り戻してくる。

 だからそれまで、震える手で矢を番えておいてくれ。


 地図を丸め、立ち上がる。

 空気を満たす硫黄の匂い。その震源地が、関門の向こうの岩山であることを、俺の身体はもう、はっきりと悟っていた。

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