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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第4章 魔族領

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第60話 沈黙の継承

 ほんの少し前まで、俺はこの場所で致死量の恥をかいていた。

 水割り一口で失神し、あまつさえ願望丸出しの寝言を広場中に響き渡らせていたのだから。

 だが、今の俺にそれを蒸し返している余裕はない。


 長老の纏う空気が変わった瞬間、宴の熱が急速に引いていくのを感じた。三つあった焚き火のうち、一番大きなものはすでに崩れ落ち、赤い炭の山になっている。はしゃぎ疲れて眠り込んだ子供たちを、村の女衆がそっと抱き上げて家へと連れ帰っていく。先ほどまでレオンの鎧の周りに群がっていた影は、もう一つもない。

 残っているのは、広場の隅から規則正しく響いてくる、ガランのいびきだけだった。


 長老が、深く皺の刻まれた手を懐に入れ、何かを取り出す。

 革紐の先で揺れていたのは、ひどく擦り減った銀の徽章だった。指先でなぞるように見ると、獅子のデザインと、半分以上削れ落ちた文字がかすかに読み取れる。


「これは、ガラン坊のじいさまのものじゃ」

 しわがれた声に、子供たちを相手にしていた時のような芝居がかった響きは微塵もない。

「最後の獣人王。ロガル様の徽章じゃ」


 息の仕方を、数秒ほど忘れた。

「最後の、王」

「左様。八十年前、グランゼル一世の人間軍がエルナの都を陥としたとき――」


 焚き火の爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。

 長老の指が、銀の獅子を愛おしむように撫でる。

 ロガル王は、降伏を選ばなかったという。ただ頭を下げれば、処刑されるのは王一人で済んだかもしれない。だが「敗北した劣等種」という烙印を歴史に刻めば、残された民はずっと泥水を啜って生きていくことになる。

 だから、王は自分の首を差し出した。

「我が首をやる。代わりに、我が民を、奴隷ではなく民として扱え」

 それが、一族の誇りを守るための、最後の取引だった。


 結果としてグランゼル一世はそれを受け入れた。獣人たちは辺境の地へと追いやられはしたものの、自由民としての権利は辛うじて保証された。

 ただし、王の血を引く赤子は、生まれた瞬間に首を落とされるという、血生臭い密約と引き換えに。


「ロガル様の妃は、身ごもったまま、この村まで逃げ延びてこられた」

 長老の手の中で、銀の徽章が鈍く光る。

「生まれた子は、王統を秘されたまま育てられた。その子の子が――」

 視線の先。丸太の向こうで、無防備な寝息を立てる巨体。

「あの子じゃ」


 膝の上に置いた俺の拳が、じわりと汗ばんでいた。

 ガラン。彼は王都グランゼルに自らの足で立ち入り、現王の前に跪いた。祖父の首と引き換えに建国された王朝の末裔から、冒険者の許可状を受け取ったのだ。何も知らずに。


「あの子は知らぬ。妃様も、子も、孫であるあの子にも、伝えなんだ」

 長老は徽章をゆっくりと懐にしまった。

「あの子は、自分が獣人族の中で『なぜか皆が一歩引いて接する大柄な男』として育った理由を、未だに知らぬ」

 長老の目が、細められる。

「ロガル様の幼名は『シン』――獣人語で『陽光』の意でな。あの子の顔は、若い頃のロガル様に、ようも似ておる。気づく年寄りは、もう村に二、三人しか残っておらぬが、見れば、すぐに分かる」


 脳裏にフラッシュバックしたのは、村の入り口で薪を取り落とした老婆の顔だった。

「シン、と」

「呼んでしまうた者がおったか」

 長老の口元に、苦く、寂しげな笑みが浮かぶ。

「気をつけよ、と言うておいたのじゃがな。八十年経っても、忘れられぬ顔というのはあるものでのう」


 喉が渇く。

「なら……どうして俺にそんな話を」

「軍師殿。あの子は、勇者の一行に加わってしまった」

 卓に置かれた長老の節くれだった両手が、きつく握り合わされていた。

 

「いずれ、知らねばならぬ時が来る。その時、隣にあの子の頭の中を読める者がおってほしいのじゃ。あの子の口から語られるまでは、どうか、お忘れあれ。じゃが、あの子が自ら知ろうとした時には――軍師殿、頼みます」


 無言で、首を縦に振った。

 知らないふりをする。それが、部外者の俺にできる唯一の誠意だった。

 長老は静かに立ち上がり、弱々しくなった焚き火の横を通り抜けて、闇の中へと帰っていく。


 しばらく、その場から動けなかった。

 ふと、ガランのいびきが止む。寝返りを打ち、月明かりの差す方へと顔を向けた巨体は、二十年ぶりに帰った故郷の空気に包まれ、どこまでも安らかな寝顔をしていた。

 俺は、足音を殺してその場を離れた。


 丸太と藁で組まれた低い屋根の家屋。村外れにある一軒の屋根によじ登ると、冷たい夜風のなかに先客がいた。

 片膝を立てて座る、聖剣の勇者。

 レオンの横顔に、さっきまでの泥酔の痕跡はない。青白い月光に照らされた彼は、ひどく静かだった。


「軍師殿」

 振り返りもせず、レオンが口を開く。

「あんたが寝ている間に、思い出したことがある」

 俺は、土の匂いがする屋根材の上に腰を下ろした。


「五年前、俺は獣人集落の救援に向かった」

 ぽつりぽつりと、レオンが語り出す。

 魔物に襲撃された北の集落。聖剣の継承者として召喚されたばかりだった彼は、一人で先行し、戦場に飛び込んだ。だが、そこにあったのは絶望的な戦力差。崩れかけた防柵の前で、たった一人、巨大な盾を構えて魔物の波を食い止めている男がいた。

 ガランだ。

 体の何か所にも爪痕が残り、足からは血がとめどなく流れている。それでも盾は決して下がらない。彼の背中が作る影の中へ、獣人の女子供たちが必死に逃げ込んでいた。


「あいつは、俺を見て、こう言った」

 レオンの声が、わずかに震える。

「『援軍か。助かる』とだけ言って、また盾を構えた。礼も、文句もない。自分が背負っている命から、一瞬でも目を離すことを惜しむように」


 戦いが終わった後、レオンは血まみれのガランの前に膝をつき、頭を下げたという。

「勇者一行を作ろうと思っている。最初の一人になってくれ」と。


 知らなかったのだ。自分の腰で輝く剣が、目の前の男の血統を根絶やしにした一族の象徴であることを。

「俺は」レオンが吐き出した息には、血を吐くような後悔が混じっていた。

「俺は、あの男に何を背負わせたんだ」

 かけるべき言葉が見つからない。


「あんたが寝ている間に、長老の話を聞いてしまった。全部だ。ロガル王のことも。徽章のことも」

「そうか」

「俺の腰のこれは」レオンの右手が、傍らに置かれた聖剣の柄に伸びる。

「あいつの祖父を斬った王朝の象徴だ。俺の祖父はこの剣で獣人と戦った。それを携えた俺が、一緒に戦ってくれと頼み、あいつは何も知らずに頷いた。それは――」

「それは、騙したことになるか」


 彼の自問を、俺が答えた。

「ああ」

 柄を握るレオンの手が、白くなるほど強く握りしめられていた。


 下から、ガランの寝息が聞こえてくる。風が頬を撫で、夜明けの冷たさを連れてきた。

「レオン」

 底冷えする空気に、俺の声を溶かす。

「お前は、あいつから誰かを守れる場所を奪ったわけじゃない。もう一つ増やしたんだ。それだけは、たぶん間違っていない」


「軍師殿。それは、軍師の言葉だな」

 レオンの唇から、小さな笑い声が漏れた。自嘲じゃない。どこか諦めにも似た、優しい響き。

「正しいよ。たぶん、その通りなんだろう。だが、俺の心の方が、まだそれに追いついていない」

「追いつかせる必要はない」

「ない、か」

「いつかは必要だ。だが、今夜じゃない」


 俺は冷え切った膝に手をついた。

「あいつは、二十年ぶりに生まれた村で、無防備に眠っている。今夜、お前の正義の都合で叩き起こすのは、お前の罪悪感を軽くする以外の意味を持たない。それは、軍師の言葉ではなく、人としての言葉だ」


 レオンは、ゆっくりと聖剣から手を離した。

「軍師殿は、ずるいな」

 風に紛れるような呟き。


「俺が抗えないように、言葉を選んでくる」

「軍師だからな」

「ああ。軍師だからな」


 俺は、何も言わなかった。

 白み始めたエルナ郷の空。屋根から飛び降り、ひんやりとした家屋の壁に背中を預ける。

 すぐそばで、ガランの寝息が続いている。


 この重く、温かい沈黙を、たぶん「継承」と呼ぶのだろう。

 見上げた空の端が、うっすらと群青から白へと滲み始めている。

 夜が明けるまで、まだ少しある。

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