第59話 月夜の獅子焼酎
エルナ郷の中央広場。
山の稜線が夕陽を飲み込み、空が群青に染まり始める頃、村は熱気に包まれていた。女衆や子供たちが総出で焚き火を組み、五歳にも満たないような幼子が太い丸太を懸命に運んでいる。その手つきは、危なっかしさよりも、生きていくための「当たり前」を刻み込んでいるように見えた。
広場に足を踏み入れた瞬間、乾いた乾いた音が響く。
薪を運んでいた老婆が、ガランの姿を認めた途端、抱えていたものを地面にぶちまけたのだ。
「……シン」
老婆の唇からこぼれたのは、聞き慣れない響きだった。
反射的に【視認】スキルを動かそうとした俺の意識は、彼女が慌てて薪を拾い直し、何事もなかったかのように作業に戻ったことで行き場を失う。隣の中年獣人が、そっと老婆の肩を叩いて何かを囁いていた。
ガランは――見ていない。いや、見て見ぬふりをしているのか。その横顔からは、感情の欠片も読み取れなかった。
「軍師殿、こっちじゃ」
長老の声に誘われ、倒木をそのまま並べただけの無骨な卓へと腰を下ろす。
並ぶのは、燻製の肉、焼き栗、そして刺激的な酸味を放つ漬物。串に刺さった猪肉から滴る脂が、真っ赤な炭の上で弾けては、食欲を暴力的に突き動かす煙を撒き散らしている。隣では、鎧を脱ぎ捨てたレオンが「こいつは最高だ」なんて子供のように笑っていた。
だが、宴の主役はそれじゃなかった。
長老が二人がかりで運ばせてきたのは、一抱えもある白い陶器の甕だ。
「これぞ、エルナ郷に伝わる獣人の地酒――獅子焼酎じゃ」
蓋が外された瞬間、鼻腔を襲ったのは発酵した穀物の香りと、どこか鉄錆を思わせる、野蛮な匂い。
本能が警鐘を鳴らす。俺は、無意識のうちに半歩、卓から身を引いていた。
「古い言い伝えがあってのう」
長老の声が、芝居がかった響きを帯びる。焚き火を囲む子供たちの目が、期待にキラキラと輝いた。
「この獅子焼酎をジョッキ一杯、息継ぎもせずに呑み干せた者は――獣人王の血を引いておる、と」
広場にどっと笑いが弾ける。
「父ちゃんは三口で沈んだ!」
「母ちゃんは半口でリバースだ!」
なんて子供たちの野次が飛ぶ。明らかにジョークの類だ。けれど、長老の視線が、ほんの一瞬だけ卓の向こうに座るガランに向けられたのを、俺は見逃さなかった。
「武人たる者、注がれた一杯目は飲み干すのが礼儀だ。望むところだ!」
能天気な聖剣の勇者が、ジョッキを突き出す。
「やめておけ」という俺の制止は、黄金の液体が彼の喉に吸い込まれる音にかき消された。
三秒後。
レオンは丸太の卓に額を叩きつけ、仰向けに倒れた。鎧に満月を映したまま、ピクリとも動かない。
「人間、弱すぎ!」「伝説の気絶だ!」と子供たちがはしゃぎ回る。勇者の輝かしい戦歴に、情けない一ページが刻まれた瞬間だった。
続いて、ガランが静かにジョッキを掲げた。
「美味い」
短く、噛み締めるような一言。
二口、三口。五口かけて、彼はその劇物を「味わいながら」飲み干した。
満足げな吐息を漏らした後、二メートル半の巨体がゆっくりと傾き、地響きのような寝息が夜の空気を震わせ始める。
……ジョッキ一杯。五口。完飲。
子供たちの言葉を反芻する。父ちゃんは三口で沈んだ。だとしたら、今のガランは――。
思考の袋小路に入りそうになり、俺は頭を振った。ただの寓話だ。彼は単に、並外れて酒に強いだけ。そうだ、論理的に考えてそうあるべきだ。
「次は軍師殿の番じゃの」
長老から差し出されたジョッキ。突き刺さるような視線。
ここで俺まで無様に転がるわけにはいかない。元経営コンサルタントとして、リスク管理は鉄則だ。俺のアルコール耐性は、それなりにはある。
俺は空のジョッキに水をなみなみと注ぎ、その上から獅子焼酎を一割だけ、慎重に垂らした。
水と酒、九対一。
毒性を希釈し、影響を最小限に抑える。これこそが知略だ。九十パーセントの安全率を確保した、完璧な調合。
「……いただこう」
余裕を装い、その薄まりきった液体を一口、舌に乗せる。
――熱い。
舌の付け根が焼ける。喉の奥が痙攣し、視界の焚き火が歪んで、二重、三重に増殖した。
おかしい。計算が、合わない……。
その時、右肩に柔らかく、温かい重みが乗った。
見れば、頬を林檎のように赤く染めたエレーヌが、隙間なく寄り添ってきている。
「ねえゼン。いつも真面目だけど、息苦しくない?」
耳元で囁かれる吐息。
彼女は俺の右腕に自分の顔をこすりつけるようにして、甘えた声を出す。さらりと流れる銀の髪が、手の甲をくすぐった。
普段の【感情排除】はどこへ行ったのか。彼女の頭上には、これまでに見たこともないほど鮮やかな【好意】と、それに混じった【独占欲】のアイコンが点滅している。
「ま、待て、エレーヌ。お前は今、確実に酔っ――」
「ゼンさん!」
今度は左腕に、ぎゅっ、と弾むような感触。
いつの間にか隣に陣取っていたイリアが、焦げ茶の瞳を潤ませて俺を見上げていた。
「ゼンさん! エレーヌ様、近すぎます……っ!」
「君もだ! 左腕に張り付くな!」
「ゼンさん、若さは、可能性です!」
「……は?」
「これからゼン様の好みに、まっさらな状態から成長していく私の方が……はるかに建設的な投資対象だとは、思いませんか……!?」
二十七歳の大人の色香と、十七歳のなりふり構わない真っ直ぐな熱量。
左右から封じられた俺の思考回路は、制御不能なオーバーヒートを起こし始める。
(待て待て待て、まずい。これは、致命的にまずい)
心臓の鼓動が、うるさい。
「お、おい二人とも、落ち着け。冷静になれ」
「ゼン、私と、イリアどちらを」
「ゼン様、私の祈りを――」
「どっちの提案を、採用するの……?」
「お受け取り、くださいっ……!」
ブチッ。
脳内で何かがショートする音がした。
視界が真っ白に染まり――。
――そして、急転直下、闇に落ちた。
「おい、軍師殿。大丈夫か?」
肩を揺さぶられ、意識が浮上する。
目の前には、半分以上残った薄っぺらな水割りのジョッキ。宴はまだ、呆れるほど賑やかに続いていた。
少し離れた場所では、エレーヌとイリアが子供たちと談笑している。エレーヌの指先から生まれた光の蝶が舞い、イリアは村の母親と神妙な顔で赤ん坊の話をしていた。二人とも、驚くほど素面だ。
夢、だった。
俺の願望と、彼女たちの普段の言動を材料に、俺の脳が勝手に作り上げた最悪の幻覚。九対一の水割りを、たった一口舐めただけでこれだ。
「おぬし、酒の耐性はゼロじゃな」
長老が呆れたように笑う。
「水割りで失神し、『少し羽目を外してみない』だの『若さは、可能性』だの、おかしな寝言を言うておったぞ」
……全部、口に出ていたのか。
しかも、あんなに具体的で恥ずべき内容が。
歩み寄ってきた二人の瞳には、純粋な気遣いが宿っていた。けれど、その頭上のアイコンには――二割ほどの【軽蔑】が、毒のように混じっていた。
「ゼン、大丈夫?」
「ゼンさん、お水を」
慈愛が八割、軽蔑が二割。
その絶妙なバランスが、逆に逃げ場を奪う。いっそ純度百パーセントの軽蔑なら、まだ開き直れたのに。
魔王軍と対峙した時ですら味わわなかった絶望的な敗北感が、俺の背骨を冷たく伝っていった。
しばらく丸太に突っ伏したまま、動けなかった。
広場では子供たちがレオンの鎧の上に乗って遊び、ガランの寝息が規則正しく響いている。
ようやく顔を上げたとき、いつの間にか、長老が俺の隣に座っていた。
宴の喧騒を遠くに追いやるような、低く、しわがれた声。
「軍師殿。少し、よろしいかの」
その声の温度が、先ほどまでとは明らかに違っていた。
俺は意識を強制的に引き締め、長老へと向き直った。




