第58話 戦士の帰郷
王都を発って、五日目の朝。
朝食をとっていると、ガランが珍しく自分から口を開いた。
「ゼン。一つ、頼みがある」
太い指が、地図の北東を突いた。獣人自治区、エルナ郷。
「俺の、生まれた村だ。二十年、足を向けていない。妹に、まだ何も話していない」
言葉の数だけ、それぞれに重さがあった。
「寄ろう」
俺は、即答した。
レオンが顔を上げ、「俺は、構わん」とだけ言って、また聖剣の柄に視線を落とした。
俺たちは進路をエルナ郷に向け進めた。
半日も歩かないうちに、景色が変わり始めた。
毛皮に覆われた腕が、麦を刈っていた。獣人だった。だが首には、革の首輪も鉄の足枷も、ない。
エルナ郷の入口に、低い木の門があった。門番はいなかった。
通りに出てきた獣人たちが、足を止めた。人間を警戒しているのではない。ガランを、見ていた。
白い髭の老獣人が、杖を突きながら歩み出てきた。長老の老いた瞳が、ガランの顔の上で、一瞬大きく開かれた。何かを言いかけて、自分で飲み込んだ。
「……ガラン坊か。二十年だ。よくぞ戻った」
二メートル五十センチの巨体が、老獣人の前で、まっすぐに折れた。
長老が、若い獣人たちに歓迎の準備を命じようと振り返りかけたとき、ガランの低い声が、静かに遮った。
「先に、妹のところへ」
長老の瞳が、わずかに細くなった。哀しみではない。もっと別の、静かな何かだった。
「……行ってきなされ」
村の奥に、丘へ続く石積みの小道があった。
ガランの大きな背中が、ゆっくりと登り始めた。
二十年、彼が誰にも見せずに磨き続けてきたものを、ようやく地に降ろせる場所へ。
長老が、いつの間にか俺の隣に立っていた。
「お連れくださって、礼を申し上げる」
「礼を言われる筋合いはありません。ガランが、来たいと言ったから、来ただけです」
「貴殿は、ご存じか。あの子が、何を抱えてここに帰ってきたのか」
「妹君のことだけは」
「……それ、だけでは、ない」
長老の言葉は、そこで止まった。今、自分の口から言うべきではない――そう線を引いた目だった。
俺は、それ以上聞かなかった。
風化した木の墓標が、丘の頂上に、一本だけ立っているのが、ここからも遠く視えた。
ガランの背中が、その前で、ゆっくりと膝を折った。
◇
二十年前の、エルナ郷の夜。
その夜、ガランはまだ、誰の盾にもなれない無力な存在だった。
背丈ばかりが急激に伸び、骨も筋肉も、その巨大な器に全く追いついていない。ただ図体が大きいだけの、ひ弱で鈍重な子供に過ぎなかった。
突如、夜闇を切り裂いて、腹の底を揺らすような地響きが森からうねり上がった。木々がなぎ倒される凄まじい轟音。血と獣の臭いを纏った、魔物の群れだった。
六歳の妹が、薄い寝間着のまま震える足で走ってきて、ガランの太い脚にすがりついた。
「兄ちゃん」
ミーナは、恐怖で引きつった顔を上げ、それだけを口にした。
すがるべき存在へ向ける言葉は、その一言で十分だったからだ。
ガランは羽虫のように軽い妹の体を抱え上げ、無我夢中で暗闇の中を駆け出した。
肺が悲鳴を上げ、泥に足を取られながら、彼は絶望的なまでに理解した。自分がいかに「何も持っていない」かを。
敵を打ち砕く武器を持たない。攻撃を弾き返す盾を持たない。あるのは、ただ無駄に大きな自分の肉体だけ。そしてその肉体は、妹一人を背負って逃げるための力すら、まだ備わっていなかった。
濡れた石畳が、もつれた足先を無情にもすくい取った。
激しい転倒。地面に叩きつけられた衝撃で腕の力が抜け、抱えていた小さな温もりを、冷たい土の上へ投げ出してしまう。
這いつくばった彼の視界の端を、巨大な黒い影が完全に塞いだ。生臭い息吹。見上げれば、樹木のように太く、おぞましい灰色の剛腕が、天を衝くように振り上げられていた。
――間に合わない。
ガランの巨体が、恐怖で完全に硬直した。
だが次の瞬間、信じられない光景が彼の眼前に広がる。
ガランと、絶望的な死をもたらす魔物の間に、小さな影が飛び出したのだ。
ミーナだった。
六歳の、薄い寝間着姿の、裸足の妹が。
その華奢な両腕をめいっぱい広げ、巨大な死神の前に立ちはだかっていた。
止める間もなく、魔物の丸太のような前足が、無防備な小さな背中へと無慈悲に振り下ろされた。
鈍い破砕音。
ガランの喉から、声は出なかった。絶叫すら凍りついていた。
血だまりの中で、ミーナがゆっくりと首を巡らせる。彼女の顔には、もう痛みすら浮かんでいなかった。ただ、いつもと同じように、無邪気に、にっと笑って見せた。
「兄ちゃん、おっきいから、だいじょうぶ」
それが、彼の耳に届いた、愛する妹の最後の声だった。
その夜を境に、ガランの時間は凍りついた。
己の無力さを呪い、ひたすらに、狂気にも似た執念で力を求め続けた。己の意志のままに敵を両断する剣を磨き、二度と誰かを落とさぬよう、決して間に遅れない鉄壁の盾を構える術を、血反吐を吐きながら己の肉体に刻み込んできた。
しかし、その血塗られた刃も分厚い盾も、果たして本当の意味で、あの夜の妹の笑顔への「返礼」になっているのだろうか――。
二十年という途方もない歳月を経てもなお、彼は、その答えを持てずに、暗闇の中を彷徨い続けていた。
◇
風が、丘の上を抜けていった。
俺は、ガランの背後に、静かに歩み寄った。
彼が振り返らなかったことが、答えだった。
近づいてくる足音を、ガランは、もう拒んでいなかった。
俺は、彼の隣に、何も言わずに立った。
墓標に刻まれているのは、たった一つの名前だった。ミーナ。
その横に、ささやかな野花の輪がかけられていた。二十年、ガランが帰らなかった間も、誰かが絶やさずに置き続けてきたらしかった。
やがて、ガランが、墓標に向かって低く口を開いた。
「ミーナ」
太い声が、二十年ぶりに、その小さな名前を呼んだ。
「兄ちゃんは、まだ、強くなれていない。あれから、ずっと力を磨いた。盾を磨いて、剣を振って、たくさんの命を守った。それでも、お前が望んだ強さに、まだ届いてない気がしてた」
風が、花輪を揺らした。
「だが――一人だけ、俺に、盾を下ろさせる男に、出会った」
俺は、彼の横顔を見なかった。見るべき場面ではなかった。
ただ、彼の隣に、立ち続けていた。
俺は、しばらく、自分が何を言うべきかを考えなかった。
考えると、出てこなくなる気がした。代わりに、別の言葉が、口の方から勝手に出てきた。
「ガラン。俺にも、まだ伝えるべき言葉を伝えていない人が、いる」
ガランは、振り返らなかった。ただ、聞いていた。
「前世の話だ」
そう言ってから、俺は、ふと、自分が「前世」という言葉を誰かに口に出したのは、これが初めてだということに気づいた。
「俺の世界に、一度も顔を合わせたことのない相棒がいた。声も、知らない。文字だけを、互いに送り合って、何年も、共に過ごした」
「ある日、あいつが俺に一通、短い便りを寄越した。今になって思えば――助けを呼ぶ便りだった。だが、当時の俺は、自分の仕事に紛れて、その一通を読み落とした。返事をしないままだった」
「返事をしないまま、俺は死んで、ここに来た。まだ、どうしても伝えたい言葉がある」
俺は、ようやく顔を上げ、ガランの横顔を見た。
ガランは、目を伏せた。深く息を一つ、吐いた音だった。
風が、もう一度、花輪を揺らした。花の一つが、墓標の根元に、ぽとりと落ちた。
ガランの太い指が、その花を拾い上げ、また花輪の中に戻した。
二十年、剣と盾を握り続けた指が、いま、小さな花を一輪、輪の中に押し戻していた。
「ゼン。妹は、俺が強くなり続けることを望んだのではない――と、最近、思うようになった」
「だが、まだ、盾を完全には下ろせない。下ろした瞬間にもう一度、誰かをミーナのように失う気がする。下ろせない理由は、たぶん――妹のためでは、もうない。俺が、また間に合わなかった自分を見るのが、怖いだけだ」
彼の頭上の【贖罪】の文字に、もう一つ別の色が、混じり始めていた。
【自覚】――と、俺のスキルは、それを呼んだ。
二十年、自分でも気づかずに走り続けていた感情の正体に、今、彼自身が初めて手を伸ばした、その文字だった。
俺は、ようやく口を開いた。
「下ろさなくていい。下ろせと、誰もお前に言ってない。妹も、長老も、俺も」
「だが、ガラン。お前の盾を誰のために構えているのか、それだけは忘れないでくれ。それだけで十分だ」
ガランは、長い沈黙の後で、静かに頷いた。
今度は、確かに頷きだった。
夕日が、丘の向こうに沈み始めていた。
ガランは墓標の前で、もう一度、深く頭を下げた。
二十年前の彼の最後の挨拶を、ようやく、続きから繋ぎ直した、そういう下げ方だった。
「ゼン。下りよう」
俺は、頷いた。
二人で、丘の小道を下り始めた。
ガランの背中の重さは、登る時よりも、わずかに軽くなっていた。
軽くなった分は、丘の上に置いてきた。置いてきても、いい重さだった。
俺は、振り返って、丘の上の墓標をもう一度見た。
墓標の影は、もう随分長く伸びて、丘の斜面の半分を優しく覆っていた。
その影の中に、小さなミーナの笑顔が、まだ、いる気がした。
錯覚だった。
しかし、錯覚だと自分に言い聞かせるよりは、いる、と思っておく方が、たぶん正しかった。




