第57話 鳥籠の外へ
王城を出てからの数刻、俺は、誰とも口を利かなかった。
その夜。新星商会の本拠地。
革の鞄、乾燥した薬草、油を塗り込んだ防水布。
俺は、机の上に広げた地図を三つ折りにして、鞄に押し込んだ。
「あんた、また置いてくの」
振り返らなくても、声でわかった。
リーシャが、腕を組んで扉の枠に寄りかかっていた。
眉根が寄っている。怒っているのか、呆れているのか――この女の場合、どれも同じ顔をするので、こちらに判別する権利は与えられていない。
「悪いな。王都を追放になってしまった」
俺は、地図の次に、ミレナにもらった薬の小瓶を鞄に入れた。
「市場と、フランチャイズと、フローラ殿下の擁護。王都の盤面は、お前に任せる」
「当たり前でしょ」
リーシャが、壁から背を離した。
「あたしを誰だと思ってんの」
「お前なら、できる」
「知ってるわよ」
短い沈黙。
リーシャは窓辺に近づき、夜の王都を見下ろした。
昨夜からスラムの住民が少しずつ動き始め、街の空気が変わりつつあった。
彼女は、しばらくその夜景を見ていた。それから、目を伏せた。一瞬だけ。
「……無事に、戻ってきな」
俺が鞄の口を縛りかけたとき、リーシャはローブの胸元から、折りたたまれた薄い紙を二枚、取り出していた。
「なんだ、これは」
「魔法の手紙」
リーシャは、俺の目を見ずに言った。
「二枚ペアで使う。あんたが一枚、あたしが一枚。どっちかが書いた文字が、そのまま相手の紙に写る」
「これはどうした?」
「ミレナが魔道具屋で見つけた。あんたが魔族領で困った時、最後に頼れる場所を作っておこうって」
受け取ると、わずかに温かかった。
紙の温度ではない。魔力の残滓のような、静かな熱だった。
「一回だけ、確実に届く。送れるのが一回、返せるのが一回。それっきり。二度目はない」
「……一回か」
「だから、本当に困ったときに使いな」
俺は、紙を、鞄の一番奥のポケットに押し込んだ。
その隣に、フローラの羊皮紙を、そっと差し入れた。
二枚は、触れずに、隣り合っていた。
「分かった」
「使わなくていいなら使わなくていい」
「ああ」
「でも――あたしは、ここにいるから」
俺は、鞄の口を縛った。
「ありがとう」
リーシャは、答えなかった。
ただ、組んでいた腕を、一度ほどいて、また組み直した。それだけだった。
彼女は、扉の方へ歩いた。出る手前で、一度だけ振り返り、何か言おうとして、やめた。
代わりに、扉を、必要以上に静かに閉めた。
乱暴に閉める音よりも、その静けさのほうが、ずっと、何かを語っていた。
階下では、三人が、それぞれの旅装を整えていた。
レオンは、聖剣の留め金を、三度、確かめ直していた。一度で済む作業だった。
エレーヌは、ローブの内ポケットから、印のない小瓶を取り出して、また、しまった。
イリアは、荷物を背負う前、いつもしていたはずの祈りの仕草を、今夜だけ、忘れていた。
誰も、何も、言わなかった。
高揚は、なかった。
階段を降りきった時、もう一人、店の隅に立っていた。
ノクトだった。
幅広の革帯に、短剣が二本。腰に、いつもの小さな革袋。
「……お前も来るのか」
「行くさ」
ノクトは、すでに扉の方を向いていた。
「俺は魔族だぜ。魔族領に行くのに、何の問題がある?」
少し、間が空いた。
「……それに、おれはゼンの役に立ちたいんだ」
「王都にもお前のやるべき仕事は沢山あるぞ」
「あの仕事はリーシャでもできる。おれがやりたいのは、それじゃねえ」
その目に、迷いはなかった。
「仕事」や「義務」といった理屈を軽々と飛び越えてくる、まっすぐな好意。返す言葉が、見つからない。
「……勝手な奴だ」
俺は苦笑して、短く息を吐いた。拒絶する理由は、もうなかった。魔族であるノクトが同行することは、魔族領を進む上でこれ以上ない強みになる。だが、それ以上に――この危うい旅路において、俺自身が、背中を預けられる「相棒」を、求めていたのかもしれなかった。
「いいだろう。だが、死ぬなよ。お前に死なれたら、俺の仕事がまた一つ増える」
「へへっ、任せとけ。俺のしぶとさはゼンが一番知ってるだろ?」
ノクトは白い歯を見せて笑うと、音もなく歩き出し、扉の取っ手に手をかけた。
その背中は、つい先ほどまで事務作業に追われていた「王都の若き魔族」とは別人のように、戦士の鋭さを取り戻している。
「行こうぜ。王命なんて堅苦しいもんじゃなく、俺たちの意志でさ」
◇
翌朝、霧は晴れていた。
王都グランゼルの東門が、朝の光の中に開いていた。
門の外に、六人が立っていた。
俺、レオン、エレーヌ、イリア、ガラン、そしてノクト。
王城が用意した馬車は、城門の前に二台、空のまま残されていた。
誰一人、振り返らなかった。
ガランは、無言で全員の荷物の重さを片端から確かめて回り、イリアの背負った薬箱だけを、自分の背に移し替えた。彼女は何も言わず、目で礼をした。ガランも、目で応えた。それだけの会話だった。
六人は、それぞれの荷物を背負い、それぞれの顔で、前を向いていた。
同じ門の、同じ朝に集まりながら、同じ理由でここに立っている者は、一人もいなかった。
それぞれが、別々の傷と、別々の問いと、別々の動機を、背負っていた。
「行こうか」
誰も、返事をしなかった。
だが、六人の足が、同時に動いた。
背後で、王都の朝市が始まる音がした。
荷車の軋み。売り声。石畳を叩く靴音。
その中に、昨日まではなかった声が、混じっていた。
スラムから出てきた、九百八十七の命の、一部が、もう街に溶け込み始めていた。
俺は、振り返らなかった。
追放は、敗北ではなかった。
もとより、魔族領へ行くのは俺の望み。
鳥籠から、自ら羽ばたいて出ていく口実を、王国の方から差し出してくれたに過ぎない。
鞄の中には、二枚の紙があった。
一枚は、魔法の手紙。書く言葉は、まだ決めていない。
もう一枚は、フローラの羊皮紙。インクは、もう、乾いていた。
俺は、その二枚の重さを、背中で、確かめた。
失うものは、もう、ここにはなかった。
持って行くものだけが、増えていた。
前方には、霧の晴れた街道が、まっすぐに続いていた。
空のどこかで、鳥の声がした。
俺は、振り返らなかった。
◇
――同じ頃。北の果て。
魔王城の、玉座の間。
窓はない。風もない。それでも、その部屋の空気は、常に、どこかから吹いてくる冷気を含んでいた。
重苦しい闇の底で、ヴァルドが膝をついていた。
「報告いたします」
彼の声は低く、石床に吸い込まれるように消えた。
「王国グランゼルにて、異変が起きた模様です。王太子ゼクスの率いた三千の精鋭が、スラムの焼き討ちを直前で撤収。原因は――たった数枚の書類と、それを掲げた、二人の人間、だったとのことです」
沈黙。
玉座に深く沈み込んでいた影は、動かなかった。
動かないまま、その場の空気が、一段、下がった気がした。
「……例の者か」
底冷えするほど静かな声だった。
問いかけというより、答えをすでに知っている者が、確認のために口にした音のようだった。
「は。勇者一行に同行する、『口だけ勇者』と呼ばれる軍師かと」
また、沈黙。
「……王都を、発ったか」
「はい。本日早朝、東門より。当城への到着は、一月ほど先と思われます」
それだけだった。言葉もなく、命令もなく。
ただ、玉座の上の影が、ほんのわずか、別の重心へ移っただけだった。
だがヴァルドは、それが何を意味するか、知っていた。
この主が「動く」時は、いつも、こういう静けさから始まる。
「迎撃の準備を――」
「要らない」
即答だった。
仮面の奥の瞳が、青白い燐光を受けて、一瞬だけ、妖しく光った。
「来させなさい」
それだけだった。理由は、言わなかった。
ヴァルドは、深く頭を垂れた。
「……御意」
仮面の奥で、何かが、静かに動いていた。
それが何であるかを、この城で知る者は、おそらく、誰もいない。
(第二章・完)




