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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第3章 王都

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第57話 鳥籠の外へ

 王城を出てからの数刻、俺は、誰とも口を利かなかった。


 その夜。新星商会の本拠地。

 革の鞄、乾燥した薬草、油を塗り込んだ防水布。

 俺は、机の上に広げた地図を三つ折りにして、鞄に押し込んだ。


「あんた、また置いてくの」


 振り返らなくても、声でわかった。

 リーシャが、腕を組んで扉の枠に寄りかかっていた。

 眉根が寄っている。怒っているのか、呆れているのか――この女の場合、どれも同じ顔をするので、こちらに判別する権利は与えられていない。


「悪いな。王都を追放になってしまった」


 俺は、地図の次に、ミレナにもらった薬の小瓶を鞄に入れた。


「市場と、フランチャイズと、フローラ殿下の擁護。王都の盤面は、お前に任せる」

「当たり前でしょ」


 リーシャが、壁から背を離した。


「あたしを誰だと思ってんの」

「お前なら、できる」

「知ってるわよ」


 短い沈黙。

 リーシャは窓辺に近づき、夜の王都を見下ろした。

 昨夜からスラムの住民が少しずつ動き始め、街の空気が変わりつつあった。

 彼女は、しばらくその夜景を見ていた。それから、目を伏せた。一瞬だけ。


「……無事に、戻ってきな」


 俺が鞄の口を縛りかけたとき、リーシャはローブの胸元から、折りたたまれた薄い紙を二枚、取り出していた。


「なんだ、これは」

「魔法の手紙」


 リーシャは、俺の目を見ずに言った。


「二枚ペアで使う。あんたが一枚、あたしが一枚。どっちかが書いた文字が、そのまま相手の紙に写る」

「これはどうした?」

「ミレナが魔道具屋で見つけた。あんたが魔族領で困った時、最後に頼れる場所を作っておこうって」


 受け取ると、わずかに温かかった。

 紙の温度ではない。魔力の残滓のような、静かな熱だった。


「一回だけ、確実に届く。送れるのが一回、返せるのが一回。それっきり。二度目はない」

「……一回か」

「だから、本当に困ったときに使いな」


 俺は、紙を、鞄の一番奥のポケットに押し込んだ。

 その隣に、フローラの羊皮紙を、そっと差し入れた。

 二枚は、触れずに、隣り合っていた。


「分かった」

「使わなくていいなら使わなくていい」

「ああ」

「でも――あたしは、ここにいるから」


 俺は、鞄の口を縛った。


「ありがとう」


 リーシャは、答えなかった。

 ただ、組んでいた腕を、一度ほどいて、また組み直した。それだけだった。

 彼女は、扉の方へ歩いた。出る手前で、一度だけ振り返り、何か言おうとして、やめた。

 代わりに、扉を、必要以上に静かに閉めた。

 乱暴に閉める音よりも、その静けさのほうが、ずっと、何かを語っていた。


 階下では、三人が、それぞれの旅装を整えていた。


 レオンは、聖剣の留め金を、三度、確かめ直していた。一度で済む作業だった。

 エレーヌは、ローブの内ポケットから、印のない小瓶を取り出して、また、しまった。

 イリアは、荷物を背負う前、いつもしていたはずの祈りの仕草を、今夜だけ、忘れていた。


 誰も、何も、言わなかった。

 高揚は、なかった。


 階段を降りきった時、もう一人、店の隅に立っていた。

 ノクトだった。

 幅広の革帯に、短剣が二本。腰に、いつもの小さな革袋。


「……お前も来るのか」

「行くさ」


 ノクトは、すでに扉の方を向いていた。


「俺は魔族だぜ。魔族領に行くのに、何の問題がある?」


 少し、間が空いた。


「……それに、おれはゼンの役に立ちたいんだ」

「王都にもお前のやるべき仕事は沢山あるぞ」

「あの仕事はリーシャでもできる。おれがやりたいのは、それじゃねえ」


 その目に、迷いはなかった。

 「仕事」や「義務」といった理屈を軽々と飛び越えてくる、まっすぐな好意。返す言葉が、見つからない。


「……勝手な奴だ」


 俺は苦笑して、短く息を吐いた。拒絶する理由は、もうなかった。魔族であるノクトが同行することは、魔族領を進む上でこれ以上ない強みになる。だが、それ以上に――この危うい旅路において、俺自身が、背中を預けられる「相棒」を、求めていたのかもしれなかった。


「いいだろう。だが、死ぬなよ。お前に死なれたら、俺の仕事がまた一つ増える」

「へへっ、任せとけ。俺のしぶとさはゼンが一番知ってるだろ?」


 ノクトは白い歯を見せて笑うと、音もなく歩き出し、扉の取っ手に手をかけた。

 その背中は、つい先ほどまで事務作業に追われていた「王都の若き魔族」とは別人のように、戦士の鋭さを取り戻している。


「行こうぜ。王命なんて堅苦しいもんじゃなく、俺たちの意志でさ」



     ◇



 翌朝、霧は晴れていた。

 王都グランゼルの東門が、朝の光の中に開いていた。

 門の外に、六人が立っていた。

 俺、レオン、エレーヌ、イリア、ガラン、そしてノクト。

 王城が用意した馬車は、城門の前に二台、空のまま残されていた。

 誰一人、振り返らなかった。

 ガランは、無言で全員の荷物の重さを片端から確かめて回り、イリアの背負った薬箱だけを、自分の背に移し替えた。彼女は何も言わず、目で礼をした。ガランも、目で応えた。それだけの会話だった。

 六人は、それぞれの荷物を背負い、それぞれの顔で、前を向いていた。

 同じ門の、同じ朝に集まりながら、同じ理由でここに立っている者は、一人もいなかった。

 それぞれが、別々の傷と、別々の問いと、別々の動機を、背負っていた。

「行こうか」

 誰も、返事をしなかった。

 だが、六人の足が、同時に動いた。

 背後で、王都の朝市が始まる音がした。

 荷車の軋み。売り声。石畳を叩く靴音。

 その中に、昨日まではなかった声が、混じっていた。

 スラムから出てきた、九百八十七の命の、一部が、もう街に溶け込み始めていた。

 俺は、振り返らなかった。

 追放は、敗北ではなかった。

 もとより、魔族領へ行くのは俺の望み。

 鳥籠から、自ら羽ばたいて出ていく口実を、王国の方から差し出してくれたに過ぎない。

 鞄の中には、二枚の紙があった。

 一枚は、魔法の手紙。書く言葉は、まだ決めていない。

 もう一枚は、フローラの羊皮紙。インクは、もう、乾いていた。

 俺は、その二枚の重さを、背中で、確かめた。

 失うものは、もう、ここにはなかった。

 持って行くものだけが、増えていた。

 前方には、霧の晴れた街道が、まっすぐに続いていた。

 空のどこかで、鳥の声がした。

 俺は、振り返らなかった。



     ◇



 ――同じ頃。北の果て。


 魔王城の、玉座の間。

 窓はない。風もない。それでも、その部屋の空気は、常に、どこかから吹いてくる冷気を含んでいた。

 重苦しい闇の底で、ヴァルドが膝をついていた。


「報告いたします」


 彼の声は低く、石床に吸い込まれるように消えた。


「王国グランゼルにて、異変が起きた模様です。王太子ゼクスの率いた三千の精鋭が、スラムの焼き討ちを直前で撤収。原因は――たった数枚の書類と、それを掲げた、二人の人間、だったとのことです」


 沈黙。

 玉座に深く沈み込んでいた影は、動かなかった。

 動かないまま、その場の空気が、一段、下がった気がした。


「……例の者か」


 底冷えするほど静かな声だった。

 問いかけというより、答えをすでに知っている者が、確認のために口にした音のようだった。


「は。勇者一行に同行する、『口だけ勇者』と呼ばれる軍師かと」


 また、沈黙。


「……王都を、発ったか」

「はい。本日早朝、東門より。当城への到着は、一月ほど先と思われます」


 それだけだった。言葉もなく、命令もなく。

 ただ、玉座の上の影が、ほんのわずか、別の重心へ移っただけだった。

 だがヴァルドは、それが何を意味するか、知っていた。

 この主が「動く」時は、いつも、こういう静けさから始まる。


「迎撃の準備を――」

「要らない」


 即答だった。

 仮面の奥の瞳が、青白い燐光を受けて、一瞬だけ、妖しく光った。


「来させなさい」


 それだけだった。理由は、言わなかった。

 ヴァルドは、深く頭を垂れた。


「……御意」


 仮面の奥で、何かが、静かに動いていた。

 それが何であるかを、この城で知る者は、おそらく、誰もいない。


(第二章・完)

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