第55話 王女の答え
視界の端で、金髪が微かに揺れていた。
フローラだ。
華奢な肩は小刻みに震え、固く握りしめられた白い拳。爪が掌の肉を裂くまで食い込んで血が滲んでいた。それでも、その瞳だけは、圧倒的な暴力の象徴である兄ゼクスから、一ミリも逸らされていなかった。言葉はいらない。俺はただ、彼女の横顔へ静かに視線を送る。
白鳥のようだった細い喉仏が、ごくりと上下に動いた。ブーツの底が砂を擦る音。彼女が、たった一歩だけ、前へ出た。
「兄上」
風に掻き消されそうな、たった二文字。なのに、その細い輪郭を持った声は、分厚い鉄の壁をすり抜けるように、張り詰めた戦場の空気を真っ二つに裂いて響いた。三千の軍勢の動きが、呪文をかけられたようにピタリと止まる。
ゼクスの右手が、腰の剣の柄に触れたまま硬直していた。氷のような彼の眼差しが、初めてフローラを真っ直ぐに捉えている。王城の暗がりで幾度となくすれ違い、無価値な背景として処理してきたはずの妹。それを今、初めて一人の「声を持つ人間」として認識した。
そのコンマ一秒の隙を、俺が見逃すはずがない。
懐から抜き出した羊皮紙を、天高く突き上げる。
「土地登記証明書」
ことさら声を張る必要はなかった。ただ、冷徹な事実を静かな戦場へ置くように告げる。
「スラム地区南部全域、面積一千二百ヘクタール。所有者、フローラ・グランゼル王女殿下。法務院第三部、本日午前十一時、正式に登記受理済み」
ゼクスの視線が、フローラから俺の手元の紙片へと滑った。
「複本は王立古文書館、商人ギルド本部、教会本部に、本日付で同時提出済み。三機関の公式記録に残っています。改ざんは、不可能です」
重苦しい沈黙。完璧な冷徹さを誇っていたゼクスの瞳の奥で、カチャリ、と何かが軋む音が聞こえた気がした。この男の内側で、初めて計算式が狂った瞬間だった。
容赦はしない。俺は二枚目の羊皮紙を掲げる。
「住民登録名簿。スラム地区南部居住者、九百八十七名。フローラ王女殿下が自筆で三年にわたり編纂した記録に基づき、本日、戸籍法・第十七条の要件を満たす正規の手続きにより、王国民として戸籍登録を完了しています」
俺は、黒い壁のように立ち並ぶ三千の軍勢へ、ゆっくりと顔を向けた。
「彼ら全員が、今日この瞬間から、王国法の保護下にある」
勿論、全員が聞こえるわけではない。しかし、誰も、言葉を発せない。ただ、風に煽られた松明の炎が、ごうっ、と低く唸る音だけが鼓膜を打っていた。
再び、砂を擦る音。
フローラが、もう一歩、ゼクスへと歩み寄った。兄妹としてこの世に生を受けてから、おそらく一番近い距離だ。
「兄上」
囁くような、小さな声。不思議なことだった。三千の兵がひしめくこの空間で、その声は一つ一つの鼓膜へ届いているようだった。
「私は、呪いの姫と呼ばれてまいりました。表に出るな、口を開くな、笑うな、泣くな。母上を奪った罰として、城の奥に押し込まれて、十六年が経ちました」
彼女は伏し目がちだった瞳を、ゆっくりと持ち上げる。
その目は赤く充血していたが、一滴の涙もこぼしていなかった。
「でも今、私は王女として申し上げます」
「ここは、私の土地です」
突風が抜け、彼女の金糸の髪が大きく舞い上がった。
「ここに住む民は、私の民です」
誰かの松明から爆ぜた火の粉が、夜空に赤い軌跡を描く。
「彼らに矢を放つことは、王女である私の身体に矢を放つことと、同じです」
フローラは、血の滲む両手で、俺から受け取った登記証明書をぎゅっと胸元――心臓の真上に抱きかかえた。
「兄上は、私を、射ますか」
冷たい刃のような問いが、戦場を貫き、時を止めた。
ゼクスの右手が、柄の上でぴくりと跳ねた。たった一度だけ。それは、剣を抜くための動作じゃない。抜けない自分への、無意識の苛立ち。
「もし射るのなら、どうぞ射てください」
フローラが、三度目の歩を進める。
「私は、ここから一歩も退きません」
誰も、動けない。俺は二人の対峙を視界の端に留めながら、黒々とした軍勢の「顔」を観察していた。
最前列の槍兵の喉仏が大きく動き、隣の兵士と視線を交わしている。次列の弓兵が、引き絞っていた弦の力をふっと抜き、矢先を地面へと向けた。赤々と燃えていた松明を持つ腕が、ゆっくりと高度を下げていく。
王女に矢を向ける。
そのただの「命令」だった文字列が、今この瞬間、彼ら自身の肉体に泥のような重さとなってのしかかっているのだ。
言葉は、数字の暴力を破壊する。血の通った顔と声を持つ人間は、決して都合のいい変数なんかにはならない。前世で嫌というほど見てきた事実だ。
また一人、矢が下ろされる。また一人。また一人。
さざ波のように、目に見えない退却が始まっていた。
ゼクスの目を見る。そこにあった絶対零度の殺意は、すでに別のもの――無機質な「計算」へと切り替わっていた。だが、その冷徹な計算機は初めて答えを出せずにフリーズしている。
『チェックメイト』だ。
俺は音を立てずに、一歩だけ前に出た。
「殿下」
ゼクスの鼓膜にだけ届くように、低く這わせる。
「これが、王女殿下の導き出した答えです」
ゼクスの視線が、フローラから俺へと移る。感情の抜け落ちた、ガラス玉のような目。そこに明確な否定の色はなかった。
息が詰まるほど長い、沈黙。
やがて、ゼクスの右手が剣の柄からゆっくりと離れた。チャキ、と。金属がわずかに擦れる音がして、抜かれかけていた刃が鞘の奥へと収まる。
「……軍を退け」
ひどく低く、短い音声。だがそれは間違いなく、戦場の空気を反転させる絶対の号令だった。
「全軍、撤収!」
隊長の張り上げた声が、波のように後方へと波及していく。立ち並んでいた槍の穂先が下ろされ、弓の弦が完全に解かれる。地面の砂に押し付けられ、ジュッ、ジュッと松明が次々に消されていった。
三千の分厚い鉄の壁が、夜の闇へと溶け込むように背を向けていく。その巨大な黒い塊の最後尾が、完全に視界から消え去った瞬間。
終わった。
ギリギリまで引き絞られていた糸が弾け飛ぶような、誰かの喜びの絶叫が夜空を割った。それが、合図だった。
崩れかけた路地の陰から、あばら屋の隙間から、人が次々と溢れ出してくる。九百八十七の、顔と声を持った命が、何もない戦場の跡地に押し寄せる。
「フローラ王女、万歳——!」
リーシャの泣きだすような叫び声。それは瞬く間に、巨大な熱狂のうねりへと飲み込まれていった。
「フローラ王女、万歳!!」「万歳! 万歳!」
地鳴りだ。空気が物理的に震え、ビリビリと肌を叩く。
突き上げられた無数の拳。子供を肩車して泣き叫ぶ父親。見知らぬ者同士が抱き合い、ただただ涙を流してしがみついている。十六年間蓄積された恐怖と、今夜失わずに済んだ命の重み。それが一気に決壊し、とめどない歓喜の音となって空へ吹き上がっていた。
その、耳を聾するほどの熱狂の中心で。
ふらり、と。
フローラの体が、糸の切れた人形のように傾いた。立っているための力が、唐突に抜け落ちたのだ。固い石畳に顔を打ちつけるコンマ数秒前、俺は横から手を伸ばし、その細い肩を抱き留めた。
……羽虫みたいに、軽い。
「……大丈夫か」
我ながら、間抜けすぎる声が出た。フローラは何も答えない。ただ、俺の腕の中にすがりつくように、少しだけ体重を預けてきた。全身が、ガタガタと激しく震え続けている。もう、あの歓声に応えるための気力すら、残っていないのだろう。
彼女の頭上を見上げる。
ずっとそこにこびりついていた【贖罪】という黒い文字。それが今日初めて、氷のように、輪郭を失って溶け落ちていくのが見えた。これからどうなるのか、俺にはまだ分からない。だが……胸の奥のつかえが少しだけ取れたような、決して悪くない気分だった。
少し離れた場所。狂乱の渦から切り離されたように、エレーヌが一人、膝をついていた。長大な杖を赤子のように両腕で抱きしめ、深く頭を垂れている。鳴り響く大喧騒の中で、彼女の周辺だけが真空になったかのように無音だった。声を押し殺し、肩を震わせて泣いているのだ。
躊躇すれば全員死ぬ。それが、彼女の心を焼き焦がしてきた呪いだった。だが今日、彼女は躊躇した。躊躇したことで九百八十七人の命は、誰一人欠けることなくそこに在る。
ザッ、と砂を噛む足音。
いつの間にか駆け寄ってきたレオンが、膝をつく彼女の隣にしゃがみ込み、その細い肩にそっと大きな手を置いた。彼は何も言わない。慰めも、労いも。ただ、不器用なほど優しく、そこに手を置いているだけだった。今はきっと、それで十分なんだ。
果てしなく長かった俺たちの三日間が、ようやく終わろうとしていた。




