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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第3章 王都

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第54話 王女の反乱

 容赦のない風が、頬の肉を削ぐように打ちつけてくる。

 迷路のような路地を抜け、大通りを横切り、スラム街へと続く道へ。馬の蹄が石畳を叩き割るような音が、狭い空間にひどく反響していた。

 俺の腕の中で、手綱を握るリーシャの背中が石のように強張っている。手綱を引く革の擦れる音が、ぎちり、と不吉に鳴った。

 懐にねじ込んだ登記証明書の固い感触だけが、俺を現実に繋ぎ止めている。


「もう少し……っ、走れぇ!!」

 リーシャが悲鳴のような声を張り上げ、馬の腹を蹴った。

「ゼン、あの音! もう装備が整ってる音よ……!」


 南の空から、地鳴りのような重低音が這い寄ってくる。

 何千という鉄のブーツが、一斉に地面を蹂躙する音。巨大な盾の縁同士がぶつかり合う、冷たい金属音。誰かが声を張り上げるくぐもった響き。

 戦場の、音だ。

 角を二つ曲がる。視界が開けた。

 スラムへと続く最後の大通り。その奥、もう何百メートルか先に黒々とした重装兵の背中が、壁のように道を塞いでいる。

 間に合うか。

 俺には馬を操る技術なんてない。振り落とされないよう、ただ無様にリーシャの細い腰にしがみついていることしかできない。

 書類を突きつける。ゼクスを止める。軍を退かせる。

 どれか一つでも歯車が狂えば、あの擦り切れた手記にあった、九百八十七名の居場所とスラムに残っている人の命が、一瞬で炭の山に変わる。


 風に乗って、聞き覚えのある男の声が、聞こえてきた。

「エレーヌ。お前が初手だ」

「中央広場から外周へ、火炎魔法インフェルノを扇状に展開しろ。一刻で全域を焦土にせよ」


 奥歯を、血の味がするほど強く噛み締める。

 遅かったか。


 馬の肺が破れるほどの疾走。

 ようやく、黒い壁の最後尾が、肉眼で輪郭を結ぶ距離にまで迫る。

 スラム南端の広場を埋め尽くす、王国軍の本陣。

 ざっと見て三千。分厚い鉄の装甲が、円弧を描いて布陣している。最前列には槍の森。その後ろに弓兵の列、さらに奥に魔導士の小隊。

 その圧倒的な暴力の中心。

 白馬の傍らで、エレーヌが立ち尽くしていた。

 身の丈ほどある杖を両手で握りしめたまま、うつむき、身動きひとつしない。だが遠目からでも、その華奢な背中が小刻みに震え続けているのがわかった。


「エレーヌ。聞こえているのか」

 ゼクスの声に、苛立ちの棘が混じる。

「陛下の命令だ。動け」


 エレーヌが、操り人形のようにぎこちなく杖を構えた。

 左手で支柱を握り、右手を前へと伸ばす。空中で術式の起動印が切られ、大気が軋んだ。

 風が不自然に巻き起こり、彼女の杖の先に青白い魔法陣が滲み出る。


 喉が干上がった。心臓が肋骨を突き破りそうなほど暴れている。

 叫べ。いや、まだ遠すぎる。

 この距離でどれだけ声を張り上げようと、軍靴の音に掻き消されるだけだ。声が彼らに届かなければ、何の意味もない。

 伸ばしかけた自分の手を、強く握り込む。爪が掌に食い込んで、痛い。


 エレーヌの視線の先。

 崩れかけた路地の陰から、こちらの様子を怯えたように覗き込む子供たちの姿が、見えているはずだ。

 薪のために毛布を手放したマルコの娘、ミナ。

 文字を覚えたいとはにかんだ、八歳の少女。

 フローラの手記の中で、確かに体温を持っていた命。そのどれかが、いま彼女の瞳に焼き付いているはずだ。


 杖の先に集まっていた魔力の光が、ふっと霧のように散った。


「……陛下のご命令ですので」

 掠れた、泣き出しそうな声が漏れる。

 彼女の頭上。俺の目には、あの文字が見えていた。


 【感情排除】


 だが、そのアイコンは今、ひどくノイズにまみれて明滅していた。輪郭が崩れ、文字が欠けかけている。

 三年間。彼女の心を麻痺させ、都合のいい兵器として縛り付けてきた絶対の呪縛に――初めて、決定的な亀裂が走っていた。


「エレーヌ」

 ゼクスの声の温度が、すっと下がった。

 命令から、耳元で悪魔が囁くような、甘く湿った音色へ。


「セドナ村を、思い出してみよ」

 エレーヌの肩が、弾かれたように跳ねた。


「お前が躊躇したあの夜、何人死んだ? 部下が四人、村人が三十一人。お前のペンダントの中、四つの遺品。あれは、誰が殺した?」

「……」

「躊躇は、毒だ。お前の良心が、人を殺すのだ」


 ねっとりとした毒薬が、彼女の耳から直接脳へと注ぎ込まれていく。

「だから、撃て。今度は、躊躇するな」


 エレーヌの右手が、痙攣するように再び前へと伸びる。

 消えかけていた魔法陣が、ひときわ強い光を放って足元に現れた。

 胃袋が捻り上げられるようだ。ゼクスは、命令ではなく、彼女の『良心』と『トラウマ』を直接ショートさせ、自ら引き金を引かせようとしている。

 馬の蹄が、地面を蹴り続ける。

 もう少し。あと数秒だけ、時間をくれ。

 エレーヌの細い指先に、ぽうっと、濃密な魔力の炎が灯った。


「子供たちが、見えるのです」

 彼女の声は、ぼろぼろに崩れていた。白い頬を、とめどなく雫が伝い落ちている。


「あの子たちが、私の魔法で焼かれる姿が」

 炎が、水に落ちたように揺らぎ――そして、完全に消滅した。


「……話にならんな」

 ゼクスが、吐き捨てるように呟く。

 なんの感情も乗っていない、氷点下の声。その冷たさに、俺の背筋にまで悪寒が走った。

「お前は、もう要らん」


 エレーヌの手から杖が滑り落ち、石畳を打つ。ひどく乾いた、軽い音だった。

 ゼクスが、背後の弓兵に向かって無造作に右手を上げる。

「火矢、装填」


 最前列の五十人が、一斉に矢筒から油布を巻きつけた矢を引き抜く。

 弓に番えられる鈍い音。横に控えた槍兵が壺から油を垂らし、火種を移す。

 オレンジ色の炎が、五十、百と、瞬く間に膨れ上がっていく。


 間に合え。


     ◇


「待たれよ、王子殿下!!」


 喉の奥が裂けるほど、腹の底から叫んだ。

 空気が、ビリッと震えた気がした。

 砂埃を派手に巻き上げながら、俺たちを乗せた三頭の馬が、軍勢の最後尾に乱入し急停止する。

 ゼクスが振り下ろそうとしていた右手が、空中で止まった。

 復唱しようとしていた弓兵長の口が、半開きで固まる。

 三千の兵士の視線が、刃のように一斉にこちらへ突き刺さった。


 息が、ひゅーひゅーと鳴っている。肺が爆発しそうだった。

 それでも、無理やりに呼吸を押し殺し、馬の上から羊皮紙の束を天高く掲げる。


「そこは、王女フローラ・グランゼル殿下の正当な私有地である!」


 ゼクスの端正な眉が、ぴくりと跳ねた。

 張り詰めていた三千の隊列。その最前列にいた隊長格の男が、無意識に一歩、足を引いたのが見えた。

 軍の隅で記録を取っていた文官たちが、ざわめきとともに顔を見合わせる。


「本日午前十一時、王都法務院において、王家紋章のもと正式に登記完了。スラム地区南部全域の所有権は、フローラ王女殿下個人に帰属する」


 革筒から抜き出した登記証明書の正本を、両手で広げる。

 正午の硬い陽射しが、紙面に押された銀色の王家の紋章を、痛いほど鮮やかに照らし出した。


「王国土地法・第四十四条――『王族個人の私有地への軍事行動は、国王の親署のある命令書なくして、これを発動することができない』」


 ゼクスの顔から、すっと血の気が引いていく。

 だが、相手は次期国王と目される男だ。これくらいで折れるタマじゃない。


「……戯言を」

 地を這うような低い声が、俺を射抜く。


「本日付の登記など、私は一切認めぬ。本作戦は、緊急衛生措置として、すでに事前に布告されている」


「布告は、国王の親署のある正式な命令書を伴っていますか?」

 コンマ一秒の隙も与えず、叩き返す。

「ご提示いただければ、こちらは速やかに退きましょう」


 ゼクスの口がわずかに開き――そして、閉じた。

 持っていない。

 法務院の門前で、あの歩哨に投げかけたのと同じロジックだ。

 ただし、今度はハッタリじゃない。正真正銘、本物の法律の刃を突きつけている。


「殿下。今この瞬間、その命令書を、ここに提示されよ」

 相手を逃がさない。一語一語、杭を打ち込むように言葉を叩きつける。

「でなければ、火を放てば、貴殿は国家反逆罪に問われる」


「……反逆罪、だと?」

 ゼクスの肩が震えていた。激しい怒りによるものだ。


「王族個人の私有地を、命令書なく焼くことは、王国憲章に対する直接的な敵対行為に当たります。これは、私の見解ではない。王国土地法・第四十四条、その第二項以下に、明文で規定されています」


 俺の隣で、フローラが静かに馬を前に進め出た。

 彼女の細く白い手が、俺と同じように登記証明書を高く掲げる。銀の紋章が、風に揺れている。

 彼女の唇が小刻みに震えていた。何かを言おうとして、固く結ばれる。

 十六年もの間、絶対的な沈黙を強いられてきた喉は、そう簡単には枷を外してはくれない。

 だが、その腕だけは、決して下がらなかった。

 兄の冷酷な視線を真っ向から受け止め、ただひたすらに、銀の紋章を突き出し続けている。


 ゼクスの視線が、一瞬だけ、妹に向けられた。

 そこにいるはずのない者を見るような目だった。

 しかし、彼はすぐに俺へ視線を戻した。

「王のご許可は、頂いているのだぞ!」


「ご許可、と仰いますか」

 俺は、静かに、しかし鋭く返した。

「であれば、親署のある命令書を、ここに、今、ご提示ください。フローラ殿下の御前に」


 フローラは、何も言わなかった。

 ただ、登記証明書を掲げた腕を、わずかも下げなかった。

 その沈黙が、ゼクスの言葉を、宙に縫い止めていた。


 沈黙。

 三千の軍勢が、呼吸を忘れたように静まり返った。

 ゼクスの周囲にいた隊長格の数名が、わずかに、しかしはっきりと、王子から距離を取るように足を動かす。

 反逆罪。

 その四文字の呪いが、ゼクスの足元から音もなく這い上がり、首筋に巻き付いていた。

 ここにいる三千は、王国の正規軍だ。ゼクス個人の私兵じゃない。

 最前列の指揮官の一人が、静かに馬から降り、片膝をついた。


「ゼクス殿下。ご命令の続行は、書類の確認の後に……」

「黙れ!!」


 ゼクスが吼えた。

 だが、その激昂は宙を滑るだけだった。三千の兵を動かす『大義』の重さは、もうそこにはない。

 弓兵長が、誰の命令を受けるでもなく、そっと矢を弦から外した。

 構えられていた火種の壺が、一つ、また一つと地面に置かれていく。

 オレンジ色の点滅が、波が引くように軍の後方へと消えていった。


「文官殿」


 俺は、軍の後方で青ざめている記録官たちに向けて声を張る。


「ご同行の記録官の方々、こちらの登記証明書を、ご確認いただきたい。複本は、すでに王立古文書館、商人ギルド本部、教会本部に送付済みです」


 三人の記録官が、顔を見合わせた後、おずおずとこちらへ歩み寄ってくる。

 ゼクスは、彼らを止めなかった。いや、止められなかったのだ。


 前線の真ん中で。

 エレーヌが、地面に転がった自分の杖を、呆然と見つめていた。

 その白い頬を、とめどなく涙が伝い落ちている。彼女の頭上にこびりついていた【感情排除】の文字が、ボロボロに崩れ落ち、半分以上が空中に溶けて消えかけていた。


 軍の最後尾。

 拘束されていたレオンが、膝の上に置いていた固い拳を、ゆっくりと解いた。

 その隣で、祈るように組まれていたイリアの指が、ふっと緩む。


 俺の背中で。

 リーシャが、震える息を、長々と吐き出した。


 馬上で、俺はまだ、登記証明書を握る手を下ろしていない。

 ここで少しでも隙を見せれば、ゼクスは必ず裏をかいてくる。書類というものは、相手に読ませ、確認させ、認めさせて初めて、絶対の拘束力を持つ。

 たかだか数グラムの紙切れだ。

 だが、それは確かに、いま三千の軍勢の暴力を押し留めている。


 書類が、槍に勝つ。


 前世のビジネスのセオリーが、この剣と魔法の盤面で完全に証明された瞬間だった。

 ――ちなみに。

 今度の引用は、ハッタリじゃない。

 王国土地法・第四十四条は、血の通った本物だ 。

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