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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第3章 王都

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第53話 王女の手記

 執行日の前日、午後七時。

 新星商店の二階、薄暗い事務所。

 長机の真ん中に、十二冊の手記が塔のように積み上げられていた。

 乾燥してひび割れた革表紙。そこかしこに散った黒インクの染み。表紙の角は、何度も指でなぞられたのだろう、すり減って丸みを帯びている。

 数時間前、ノクトがスラムの北側で変装したフローラから受け取ったものだ。彼女は何も言わず、震える両手でこの重い束を俺の胸に押し付け、深く頭を下げて暗がりへと消えていった。


 一冊目を手に取り、最初のページをめくる。


『一年目、春。マルコ、当時三十九歳。元石工。前年の坑道事故にて右腕の腱を断裂、職を失う。妻アンナ、流行り病にて死去。残された娘ミナ、当時五歳』

『二年目、冬。マルコ、薪を譲るために自分の毛布を手放す。寒気にて倒れる。ミナ、八歳。文字を覚えたいと申し出』


 肺の奥が、ぎゅっと収縮した。

 かつて経営コンサルタントだった頃、帳簿の羅列なんてただの「データ」でしかなかった。年齢。職業。家族構成。冷徹に切り貼りして、最適解という名の利益を弾き出すのが俺の仕事だった。

 でも、これは違う。フローラはただ記録していたんじゃない。見つめていたんだ。泥水のようなスラムの底で、声を持たない彼らが確かに呼吸し、寄り添い、死んでいった――その体温を。


 俺は新しい羊皮紙を引き寄せ、最初の名前を乱暴な字で書きつけた。


『マルコ・四十二歳・元石工・娘ミナ八歳』


 九百八十七人。夜明けまでに、この国の冷たいシステムに叩きつけなければならない命の総数。


 俺が書き殴った紙片を、向かいのミレナがひったくる。錬金術師である彼女の指先は機械のように正確で、所定の書式へ転記される文字には傾き一つない。

「薬の調合と同じだ。手元が狂うと、全部だめになる」

 顔も上げず、平坦な声が落ちる。扉の脇では巨漢のガランが、瞬きすら惜しむように外の気配を探り続けていた。


 不意に階下で扉の軋む音。

 階段を駆け上がってきたリーシャの外套は泥で汚れていたが、その瞳だけはランプの火を飲み込むほどギラギラと焼け焦げるような光を放っていた。


「予想通り、あの守銭奴、跳ねて喜んだわ」

 彼女は分厚い書類の束を机のど真ん中に叩きつけた。

「明後日には灰になる予定の土地を、私が現金で全部買い上げるって聞いた瞬間ね。相場の三分の一で叩いて、所有権者欄を空白のまま全件押さえた。提出直前に名前を書き入れれば、それで成立よ」

「……予定より半日早いな」

「商談ってのは、相手の足元が見えた瞬間に詰めるのが鉄則よ」

 リーシャは犬歯をのぞかせて笑った。

 張り詰めていた口の端が、少しだけ緩んだ。



 執行日、午前四時。

 一番底冷えのする時間だ。吐く息は白く、指先から感覚が抜け落ちていく。

「ねえ、ゼン……レオンとイリアちゃんは? あの二人、まだ王城に閉じ込められてるんでしょ……?」

 俺の手が止まる。ペン先から落ちたインクが、紙に小さな黒い染みを作った。


「……連絡の手段はない。ゼクスの直属指揮下に組み込まれた以上、こちらからは何も出来ない。明日の正午、軍の最後尾に『王命の証人』として配置されるだろう」

「……そんな」

「だが、それで構わない。あの二人がいなくともこの盤面は組み上がる。レオンの剣も、イリアの治癒も、こちらの計算式には最初から入っていない」

 リーシャは奥歯を噛み締め、痛みを堪えるように小さく頷いた。


「……エレーヌは?」

 ノクトの低い声が、俺の心臓を直接撫でた。

「彼女は、自分自身と戦っている。ゼクスは三年前のセドナ村の記憶を引き金にして焼かせる気だ。だが彼女の杖の引き金は、最後の最後では命令じゃなく、彼女自身の良心が引いている。鍵を渡すのが俺の仕事だ。回すのは、彼女自身だ」

「……賭けだな」

「ああ。賭けだ」


 窓のカーテンを指先で少しだけ開ける。分厚い雲の切れ間から、東の空が青白い光を帯び始めていた。



     ◇



 法務院の正面ゲート。

 袖口に王子の紋章――ゼクス直属の歩哨。冷ややかな視線が、俺の背負う革筒に止まる。

「止まれ。書類の確認だ」


「結構です」

 心拍数を意図的に下げ、瞬きを止めて、真っ直ぐに相手の瞳孔を覗き込む。

「これは民間人による法務院への通常申請書類です。王国民事手続法・第三条。『正規の申請書類は、申請者本人または代理人が法務院に直接持参し、受付窓口に提出する権利を有する。第三者による事前確認は、これを禁じる』」


 すらすらと、自分でも気味が悪いほど淀みなく嘘が滑り落ちた。

「それは、緊急衛生上の措置が……」


「発令文書を見せていただけますか。国王の親署のある正式な発令書がなければ、その措置は未発効です」

 沈黙。歩哨が視線を泳がせ、やがて一歩、脇へと退いた。

「……通します」


 最初の中庭の角を曲がった瞬間、リーシャが張り詰めていた糸が切れたように長い息を吐いた。

「ねえ、ゼン。王国民事手続法・第三条? よく知ってたわね。商業登録で何度も法務院通ってるけど、聞いたこともないわよ」

「いま作った」


 ピタッ、とリーシャの靴音が止まる。

「は?」

「『王国民事手続法』なんて法律は、存在しない」


 ノクトの肩が小刻みに揺れ始める。押し殺した笑い声。

「ま、待って。じゃあ、あの条文は……」

「全部、口から出まかせだ」

 リーシャが、信じられないものを見るように口をぱくぱくさせている。


「……つまり?」

「ハッタリだ」

 リーシャが両手で顔を覆って天を仰いだ。

「うそでしょ……あんた、あんな堂々と、あんな顔で……ハッタリ……?」

「相手が確認できない情報は、断言した方が勝つ」


 ノクトが腹を抱える。

「ヘッ。剣も魔法も使わずに、口先だけで王城の歩哨を退かせやがった」


 リーシャはまじまじと俺の横顔を見つめ、やがて呆れたように、しかし痛快そうに口角を吊り上げた。

「いいわ。気に入った。私、しばらくあんたから離れない方がよさそうね」

「むしろ、離れられたら困る。お前がいなければここに辿り着いてもいない」

 リーシャの足音が、一瞬だけ止まる。横目で見ると、その頬がほんの少し朱に染まっていた。


 法務院、三番窓口。

 ドン、と書類の束を窓口の台に置く。

「百二十七枚……」

 ひるんだ受付官のティベの前に、リーシャがすっと滑り出る。獲物を狙う肉食獣のような、見事な商人の笑みだ。

「ティベさん、うちのノクトから聞いていますよ。お金借りてるらしいわね」

 ティベの顔から血の気が引く。

「承知しました! 最速で押させていただきます!」

 だが五枚目で手が止まる。

「これ、原本の確認が必要になります」

「こちらです」

 俺は擦り切れた十二冊の手記を窓口に並べた。一冊目を手に取った瞬間――ティベの瞳の色が変わった。ただの業務用の帳簿を見る目ではない。血の通った、人間の残した軌跡に触れる目だ。

「フローラ・グランゼル王女殿下が、三年間、自筆で記録したスラム住民の生活記録です」

 長い沈黙。ティベの喉仏がゆっくりと上下する。

「……受理します」

 スタンプが押される。九百八十七人分の名前が、この国の公式な書類の上に、初めて根を下ろした瞬間だった。


 次は土地登記。書記官長補佐の老人が分厚い眼鏡越しに書類を睨む。

「最終所有権者欄が空白のまま進んでいる。代理買付の形態ですな」

「本日付でこちらに記名します」

 懐から一番大切な一枚の羊皮紙を取り出す。そこにはすでに、銀色のインクで一つの名前と王家の紋章が記されていた。老人の眉が、ぴくりと跳ねる。

「……確認しました。正規の紋章です」

 ガンッ。乾いた、しかしひどく重たい木の音が、法務院の高い天井に響き渡った。

「複本を三部。王立古文書館、商人ギルド本部、教会本部に、今すぐ送付してください」


 法務院の扉を押し開け、外に出る。

 午前十一時。太陽が白く燃え、路地に濃い影を落としている。

 角の物陰に三頭の馬。ガランがフローラとともに馬上からこちらを見下ろしている。フローラの顔色は抜けるように青白い。だがその瞳の奥の光だけは決して揺らいでいなかった。細い指先には、あの銀の紋章が固く握りしめられている。


 懐の革筒を、服の上からもう一度強く押し付ける。心臓の鼓動が、うるさいほど鳴っていた。

 手駒は揃った。盤面は組み上がった。あとは、これがゼクスの描いた完璧なシナリオをどこまで破壊できるかだ。

 リーシャが馬に乗った。俺は馬の操作ができないので、みっともないがリーシャの後ろに乗せてもらう。


 三頭の馬が土埃を巻き上げ、一直線に南へと駆け出した。

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