第52話 王女の覚悟
吐き出す息が白い。二日目の夜明け。
底冷えのする石畳を、俺はノクトと二人で踏みしめていた。
ガランは置いてきた。隠密行動にあの巨体は不釣り合いだ。
背後の事務所にはミレナとリーシャを残している。
いや。残した、という表現は正しくない。
あいつらは、俺が口を開くよりずっと早く、自分たちの戦端を開いていた。
薄暗いランプの横で、ミレナは瞬きすら忘れたようにペンを走らせていた。王国戸籍法の標準書式。
「人数はまだ分からない。だから空のテンプレートを多めに用意する。最低でも数百枚」
錬金術師特有の、ミリ単位のブレもない指先。白紙の上に精緻な罫線が次々と複製されていく。
下の階では、冷たい風が吹き込む裏口から、リーシャがスラムの伝令の少年たちを次々と放っていた。
「スラム周辺の地権者リスト。夕方までに、全部こっちに引き寄せる」
損得を勘定する商人の顔じゃない。血の匂いを嗅ぎつけた指揮官の顔だった。俺の脳内にしかないはずの盤面を、あいつらは嗅ぎ取り、勝手にピースを削り出している。
頼もしい連中だ。
俺は襟元を合わせ、足早にスラムの入り口へと向かった。
腹の底を嫌な重低音が叩く。
ザッ、ザッ。規則正しい軍靴の波。視界を埋めるのは、鈍い光を放つ槍の穂先だ。
ざっと見積もって三千。
たかだかスラムを一つ、明後日の正午に灰にする。ただそれだけのために用意された暴力の塊。
「……ヘッ。ご大層な葬列だな」
隣を歩くノクトが、深く被ったフードの奥から毒を吐いた。
「焼かれるのは、墓も建ててもらえねえ連中だってのによ」
俺は黙って顎を引き、殺気立った兵士たちの視線をやり過ごす。胸元には『撤退勧告のための巡視』という建前をぶら下げて。
柵を越えた瞬間、空気が一変した。炊き出しの匂いも、子供の声も、露天商の呼び込みもない。
退避勧告がでて丸一日がたち、逃げ出せる者はとうに去った。ここに残っているのは、王都のどこにも居場所がない連中。圧倒的な暴力の前に、ただ黙って最期を待つしかない人間たちだけ。
骨の浮いた老人を、若い男が無言で抱き起こす。傾いた軒下では、赤子を抱きかかえた女が音もなく涙をこぼしていた。
こいつらには、名前すらない。
いや。この街でたった一人だけ、底辺の掃き溜めたちを『人間』として見ている奴がいる。
路地の奥。建付けの悪い粗末な小屋の隙間から、場違いなほど美しい金髪が揺れるのが見えた。
フローラ・グランゼル。
ギシギシと鳴る歪な机にしがみつくようにして、彼女は羊皮紙に文字を刻み続けていた。
ペンを握る指先は、第二関節までどす黒いインクに塗れている。爪の間にまで入り込んだその色は、王族が持つべき清潔さとは無縁だった。
小刻みに震える細い肩。だが、ペン先が紙に沈む一瞬だけは、機械のような正確さで名が記されていく。
『マルコ・四十二歳・元石工・右腕負傷・娘ミナ、八歳』
『シルヴィア・三十一歳・家政婦・肺の病あり』
『ハロルド・推定七十歳・身寄りなし』
足音を立てて近づいても、彼女は気づかない。いや、気づいていて無視しているのか。
歴史の底に沈められようとしている命を、どうにかしてこの薄い紙切れの上に繋ぎ止めようとする執念。
ふと、視界の端が歪み、彼女の頭上にシステムが淡い文字を吐き出した。
【贖罪】
――なるほどな。
ガランの【自責】とも違う。エレーヌの【感情排除】とも。
彼女にとってこの細いペンは、己の身を削るノミだ。
「殿下」
俺は静かに声をかけた。
「逃げないのですか」
びくっ、とインクに染まった指先が止まり、肩が跳ねた。
「……逃げて、どこへ行けばよいのですか」
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳は、痛いほど澄んだ青だった。そこに怯えはない。
「この方々の名前は、どこにも残っていません。教会の洗礼台帳にも、王国の戸籍にも。王国にとっては、最初から『いない』ことになっているんです」
呪われた姫として忌み嫌われてきた自分と、国から見捨てられた貧民。その二つが、彼女の中で痛々しいほどに重なっているのが分かった。
「私が書かなければ。明後日の正午には、この方々がこの世にいたことさえ、誰も思い出せなくなります」
俺は近くにあった丸椅子を脚で引き寄せ、彼女と視線を同じ高さに合わせた。
「殿下。その手記は、何のために書いているのですか」
「……記録するためです。失われないように」
俺はゆっくりと、首を横に振った。
「記録するだけでは、誰一人救われません」
机の端。崩れそうなほど高く積まれた、手垢と油で黒ずんだ革表紙の束。その一番下、ひときわ古びた一冊に指先を這わせる。
「記録は、使うためにある。あなたが何年もかけて積み上げてきた、この手記の重さを、俺は最大限に活かしたい」
コンサル時代に何度もやってきた、クライアントに覚悟を迫る時の目。相手の逃げ道を塞ぐように、その青い瞳の奥底を覗き込んだ。
「ですが、その前にお聞かせください。あなたは――この民を、救いたいですか」
「……救いたいです」
かすれた声。だが、そこには折れない確かな熱があった。
「自分の手を、血で汚してでも?」
「……はい」
吐息のようなその返事は、もう揺らいでいなかった。
立ち上がり、手のひらを上にして差し出す。
「では、貸してください、殿下。あなたのその指先と、その手記の全てを。このもの達を救うには、あなたが必要なのです」
カビと埃の匂いが立ち込める小屋の中で、時間が止まった。
フローラは木製のペンをそっと置く。自分の膝の上で、真っ黒に染まった十本の指をじっと見つめていた。まるで、今初めて自分がどれほど汚れているかに気づいたように。
きゅう、と薄い唇が噛み締められる。
ポタリ。羊皮紙の余白に、透明な染みが一つ広がった。
彼女は涙を拭おうとしなかった。代わりに、インクだらけの小さな手を伸ばし、俺の手を真っ直ぐに握り返す。
氷のように冷たくて、折れそうなほど細い手。
鼻腔をツンと突く鉄錆のような匂いと共に、俺の手のひらに、べったりと黒い汚れが移った。
「殿下。今夜中に、その手記の写しすべてを俺のもとへ届けていただけますか。届け先は部下に案内させます」
「……分かりました」
「それと、可能な限り目立たぬように。動きが察知されれば、ゼクス王子は手段を選びません」
「はい」
国が棄てた数千の命。
一人の少女が狂気のような執念で拾い集めてきたその「重さ」を、俺は預かった。
ゼクス王子の描いたシナリオは、非情なまでに完璧な『合法』だ。
だが、法律なんてものは所詮、人間が作った都合の良いバグだらけのプログラムに過ぎない。条文と条文の間に生じた、針の穴ほどの論理のバグ。
四十八時間後。
そこに王国軍三千の圧倒的な暴力を、盤面ごと引きずり込んでやる。
◇
事務所の重い木の扉を開けたのは、午後三時を過ぎた頃だった。
二階の執務室に足を踏み入れた瞬間、俺は息を呑んで立ち尽くした。
そこは、物理的な戦場と化していた。
テーブルを埋め尽くす王国法典。小口にはびっしりと狂気的な量の付箋が貼り付き、何百枚という申請書式の束が、色ごとに異常なまでの精密さで並べられている。定規でも当てたのかと錯覚するほどの整列ぶりだ。
そして部屋の隅、羊皮紙の山に埋もれるようにして座っていたリーシャが顔を上げる。
「地権者の大半はオレロウ伯爵系列。明日の昼までに全部押さえる目処はついた。値段はこっちの言い値でいけるわ」
喉の奥でコロコロと笑うその顔は、血を啜る肉食獣のそれだ。
「……でしょ?」
呆れて、声も出なかった。
俺の頭の中にしかないはずの、盤面を裏返すためのカウンター。その下準備が、すでに完了しようとしている。誰に指示されたわけでもなく。
喉の奥が、カッと熱くなった。
「ミレナ。今夜、フローラ王女から手記が届く。手記から戸籍書式への転記、お前が頭になってくれ」
「了解」
「リーシャ。今夜中に、オレロウ伯爵への面会の段取りを。明日、お前の腕で、スラム全域を買い叩け」
「任せて」
深く、肺の底に溜まっていた息を吐き出す。
首筋に張り付いていた鉛のようなプレッシャーが、ほんの少しだけ、熱を帯びて溶けていく感覚があった。
残された猶予は、あと四十八時間。




