第51話 反撃の計算式
セドナ村。
聞き慣れない響きだった。
薄暗いランプの灯りの下、ノクトの唇が重く開く。
「王都の北西、山岳地帯から魔物の大群が湧いた。数は百を超えていたらしい。その進路を塞ぐただ一つの守りが……王都防衛の要衝、セドナ村だった」
カツ、と爪先がすり減った羊皮紙の地図を小突く。
「古くから王都の北西の街道を守る、外壁を持った要塞集落だ」
「住人三十二人。世襲の民兵と、その家族たちだ。押し寄せる波を外壁で必死に受け止め、籠城を続けていた。だが、壁は古く、補給も底を突きかけていた。突破されれば……百匹超の化け物が、何もない街道を抜けて王都に雪崩れ込む」
メキッ、とガランの太い指が机の縁に食い込む。隆起した拳から、血の気が引いていた。
「そこに部下四人を連れ、リーダーとして派遣されたのが……当時最年少の宮廷魔導士だったエレーヌさ」
「……四人」
ミレナが小さく呟く。機械のように動いていたペン先が、ぴたりと凍りついていた。
「だがな。エレーヌは出発の時点で、すでに最悪の荷物を背負わされていた」
ノクトの声から、温度が消え失せる。
「ゼクス王子から、直々に下された命令はただ一つだ」
『要塞ごと、魔物を一匹残さず吹き飛ばせ。村人の救出は不要。残骸で街道を塞ぎ、王都への波を断ち切れ』
ヒェッ、と隣で息を呑む音。リーシャが口元を両手で覆っている。
脳内で、冷たい天秤が揺れた。数万の命と、三十二の命。元コンサルの思考回路が弾き出す完璧な損益計算――最小コストで最大の防衛。だがそれは、血の匂いを嗅がない机上の戯言だ。
ルインの街の光景がフラッシュバックする。震える杖。氷のようなエレーヌの横顔。
じゃあ、三年前、彼女の隣に俺がいなかった時は……どうだったんだ。
「あいつは、王命に背いた」
くしゃり、とノクトが羊皮紙を握り潰す。
「現地で、要塞の中の人間の顔を見ちまったんだよ。子供がいた。老人がいた。泥にまみれ、腕を震わせながら弓を射る子供の民兵もいた。壁の上から、あいつに向けて必死に手を振っていたらしい。『助けに来てくれた』ってな。あの女には、撃てなかった」
広域爆破魔法を保留し、外から包囲を削って住民を逃がし、空になった村を吹き飛ばす。彼女はそう判断し、部下たちも従った。誰も見捨てない、お伽噺の勇者の正解だ。
「でもな……間に合わなかった」
地を這うような声だった。
「想定外の第二波が湧いた。村人の退避が進まないうちに要塞の壁は食い破られ、魔物の侵入を許してしまった」
「結果、村人三十一人。そして部下の魔導士四人。全員、あいつの目の前で肉塊にされた」
ガタ、と椅子が鳴る。リーシャが顔を覆い、肩を震わせていた。
だが、ガランは沈黙していた。巨大な手が剣の柄を砕けそうなほど締め上げている。
――ああ、そうか。この男は三年間、エレーヌと共に戦ってきた。彼女の凍りついた心の底を、ずっと一人で覗き込み続けてきたのだ。
「……それは」
口から出た声は、自分のものではないように掠れていた。
「……地獄だな」
「後から現場に入った連中が見たのは、大量の魔物の死体の傍でガタガタ震えてるエレーヌだったそうだ。迷子になった子供みたいにな」
ノクトが唇を歪めた。
「彼女がいつもローブの下で握りしめてる、あの銀のペンダント……」
カチリ、と。脳内の歯車が不気味な音を立てて噛み合う。
スライムを爆破した後のクレーターで、胸元をきつく握りしめていた細い指。ガレリアの応接間で見た、ローブの下の歪な金属の輪郭。
散らばっていたピースが、赤黒い線で繋がっていく。
「……ああ」
ノクトが静かに首を縦に振る。
「あれは、死んだ部下四人の遺品だ。指輪を四つ繋げたものらしい」
リーシャが胸元を掻きむしるように押さえている。
「以来、彼女は呪いから逃れられない。『自分が王命に背けば、より多くの人間が死ぬ』っていう呪いにな」
ノクトが羊皮紙を机へ投げ捨てた。
「命令通りなら、死ぬのは要塞の三十二人だけだった。部下は巻き添えにならない。だが背いた結果、救えた村人はたった一人。残りの三十一人と、部下四人が死んだ。計三十五人だ」
「村人一人を救うために、死ぬはずのなかった部下四人を巻き添えにしてしまった」
吐き気がした。残酷な算術だ。己の『優しさ』が救うべき仲間を余分に殺した。その事実が、動かぬ証拠として彼女の脳髄に焼き付いている。だから彼女は、心を殺したのか。
「……レオンが、拾ったんだ」
岩が擦れるような声で、沈黙していたガランが口を開いた。
「セドナの後、あいつは軍を干された。指揮失敗、王命違反、部下の殉職。杖を取り上げられ、誰もがあの女を忘れようとした」
ガランが斧の柄を握り直す。
「そこへ、勇者一行を立ち上げたばかりのレオンが訪ねてきた。俺の目の前で……心の死んだあの女に、『あんたの力が必要だ』と頭を下げた。レオンってのは、そういう馬鹿だ」
「あいつが今日まで生きてこられたのは……レオンのおかげなんだ」
ノクトが片頬を歪める。
「……ったく。レオンは、本当に馬鹿みたいに正しいことばかりしやがる」
奥歯を噛み締める。鉄の味がした。勇者一行なんて立派な名前だが、中身はただの敗残兵の集まりだ。レオンが一人ずつ拾い上げた。なのに今、ゼクスは再び彼女のトラウマを兵器に変えようとしている。手を引くべきレオンは、王城の奥深くに繋がれているというのに。
「ゼクス王子は、誰よりもその過去を知っている。命令を出した張本人だからな」
「だから今回もあいつを名指しした。前回、自分の判断でより多くを殺したエレーヌは、今度こそ王命に従って撃つしかない。あいつ自身の罪悪感が、勝手に引き金を引かせるんだ」
「自分で呪いをかけておいて、それを利用するなんて……悪魔よ。あいつ」
リーシャが絞り出した。
「ああ。感情とトラウマを、兵器に変換する戦術だ」
視界がじわりと赤く滲む。思考回路の奥底で、泥沼のような怒りが泡立っていた。
「安く、確実に、しかも『善良な軍人が職務を全うした』という体裁まで手に入る。極めて合理的で……反吐が出るほど最悪な盤面だ」
「もし、魔法を放ったら?」
リーシャが顔を歪める。
「終わりだ」
俺の即答に、場が凍りついた。
「スラムの民も物流網も、全て灰になる。そしてエレーヌ自身が『焼き払え』の命令を完遂することで、彼女の心は今度こそ完全に壊れる。心を砕かれた最強の魔導士は、ゼクスの完璧な操り人形になる」
胸の奥の熱を冷たい息と共に押し殺す。トン、と地図の中央を叩いた。
「彼女が引き金を引く前に……引けなくする」
「どうやって?」
ノクトが顔を上げる。
「武力では勝てない。三千の軍勢に対して圧倒的に不利だ。だからこそ……」
俺は引き出しから分厚い塊を引き抜き、机に叩きつけた。
剣でも杖でもない。
『王国法典』。
革表紙の王紋が、ランプの炎を反射して鈍く光る。
「法律で勝つ」
「ゼクスが軍を動かしたくても動かせない盤面を、こちらが先に構築する」
「ほ、法律で? あの軍勢を止めるってのか……?」
ノクトが目を剥く。
「……できる」
硬い空気を切り裂いたのは、ミレナの声だった。
「書類は嘘をつかない。書式が完璧で、条文が正確で、紋章の位置が一ミリも狂っていなければ……それは剣よりも強い」
一滴の調合ミスが死に直結する錬金術師の瞳は、書式の一字、紋章の一度のズレすら見逃さない。
「ゼン」
ミレナが俺の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「書類の校正と転記なら、私がやる」
「助かる」
「リーシャ」
名前を呼ぶより早く、彼女は尖った犬歯を見せて笑っていた。獲物を値踏みする商人の瞳だ。
「うちの帳場、好きに使って。それと……王都の地権者リストもね。スラム周辺の土地関係なら、官庁よりうちの方が詳しいわよ」
まだ全貌を語っていないのに、この女は土地法の盲点を瞬時に嗅ぎ取り、武器を先回りで用意してきた。……底が知れない。
「結構だ。最大限借りる」
「法律で、あの軍隊を止める……本気か?」
呆気にとられているノクトに、俺は口角を釣り上げた。
「ゼクスの大義名分を覚えてるか?『悪魔の瘴気が確認されたため、衛生と治安維持の観点から焼却処分とする』……表向きは立派な合法行為だ」
バン、と法典の背表紙を叩く。
「コンサルが本領を発揮するのは戦場じゃない。会議室だ」
ガランの強張りが、ほんの少しだけ緩んだ。
「……それで、勝てるのか」
悲壮感や覚悟ではない。ずっしりとした静かな信頼だった。
「分からん。だが、勝つ道筋は見えている」
タイムリミットは七十二時間。ゼクスの大義名分を覆すロジックと、エレーヌの意思で杖を下ろさせる道筋。二つの戦線で同時に勝つしかない。
だが目の前には、ミリ単位の誤差も許さない錬金術師と、底知れぬ嗅覚の商人がいる。俺の手札は、思っていたより悪くない。
最後のピースも見えていた。昨日、王立図書館の最深部で見かけた、インクで黒く汚れた小さな手。透き通った青い瞳。十二冊の分厚い手記。あの手記の主は、こっち側に引き込める。根拠のない直感だが、全額張る価値はある。
「……夜が明けたら、スラムへ行くぞ」
俺は地図上の赤い駒に指を伸ばす。パチン。軽く弾き飛ばすと、駒は卓上を転がり、机の縁ギリギリで踏み止まった。
この盤面、まだひっくり返せる。




