第50話 絶望の計算式
新星商会、二階の事務所。
昨夜、王国軍の先遣隊に蹴破られた一階の正面扉は、ノクトとガランが慌てて打ち付けた厚板で、無骨に塞がれていた。叩きつけるように打ち込まれた釘の頭が、いくつか歪んで浮いている。
そんな脆い静けさの中、室内にはランプの橙色だけが、頼りなく灯っていた。
窓の外、遠くの大通りからは、規則正しい軍靴の足音が波のように寄せては引いていく。
包囲は、もう始まっていた。
この密室に集まったのは、五人だけ。
俺、ノクト、ガラン、ミレナ、そしてこの店の主であるリーシャ。
レオンも、エレーヌも、イリアも、ここにはいない。
三人は昨夜のうちに王城の特別宿舎へと連行され、そのまま第一王子ゼクスの直属指揮下に組み込まれた。新星商会への出入りは禁じられ、物理的な隔離。
指先一つで世界と繋がれていた前世の感覚からすれば、喉を直接絞められているような、気味の悪い断絶だった。
「……やられたな」
壁に背を預けたノクトが、忌々しげに舌打ちをした。
普段の食えない笑みは消え、剥き出しの焦燥がその表情を険しくさせている。
「あの王子、最初から勇者組を取り上げる気だったんだ。いや、それだけじゃねえな。俺たちから一番の戦力を奪って、しかも――そいつらに、俺たちの城を焼かせる。一手で二度殺す気だ。性格が悪すぎて反吐が出るぜ」
机の上には、王都南部の詳細な地図が広げられていた。
そこに描かれているのは、俺たちが心血を注いだ物流ネットワークの心臓部であり、多くの獣人たちが肩を寄せ合って生きる場所――スラム街。
ノクトはその区画を、苛立ちをぶつけるように爪の先で叩いた。
「現時点で確認できた包囲兵力は、第一師団と第三師団から抽出された約三千。装備は――」
「三千百五十名」
淡々とした声が、ノクトの言葉を遮った。
机の隅で羊皮紙にペンを走らせていたミレナが、顔も上げずに訂正を入れる。
「第一師団から千八百九十二名。第三師団から千二百五十八名。」
ノクトが、言葉を飲み込んで目を丸くした。
「……お前、その数字、いつの間に集めた」
「あんたが昼に持ち帰ってきた断片的な情報と、リーシャの店に入ってきた配給請求の数字を突き合わせただけ」
ミレナは顔を上げ、感情の読み取れない瞳でノクトを見た。
錬金術師らしい几帳面な手つきで、ペン先のインクを拭いとる。
「数字の誤差は、死に直結する。私は無駄死にが嫌いなだけ」
「……へっ。錬金術師ってのは、こういう時にこそ役に立つもんなんだな」
「むしろ、こういう時にしか役に立たない」
冗談なのか、それとも本気で言っているのか。
俺は彼女の横顔を一瞬だけ見て、すぐに地図へと視線を戻した。
三千人の軍勢の輪郭が、二十人単位の解像度で脳裏に立体化していく。
コンサル時代、何度も繰り返した「現状分析」の癖が、こんな土壇場で冷徹に牙を剥く。
「……補給は」
自分の声が、驚くほど低く響いた。
「六日分。油壺が四十二、松明用のタール樽が十八。投石機は三基あるけど、組み立ては半分ね」
リーシャが、机に身を乗り出すようにして答えた。
その瞳は、もはや「近所のお姉さん」のそれではない。完全に、冷徹な経営者の目だ。
「あと、ここ三日で王国軍の補給班が王都中の商会を回って、油と松明と食料を買い占めてる。しかも現金で、足元を見たような言い値でね」
彼女は、地図の北端にある補給拠点を指差した。
「この油の量、建物三千軒分を軒並み焼ける計算よ。これ、ただの制圧じゃないわ。地下倉庫も、隠し蔵も、逃げ道の路地も――灰ひとつ、骨一片も残さない『消去』が目的。住民を生かして逃がす気なんて、さらさらない」
ノクトが、乾いた口笛を吹いた。
「あんた、本当にただの商人かよ」
「商人だからこそよ。仕入帳簿は、口の軽い人間よりずっと真実を語るわ」
俺は、あらためてリーシャの横顔を直視した。
ただの物流ハブを担う協力者だと思っていたが、認識を改める必要がある。
数字の裏にある「意図」を読み解くこの感覚は、王都を牛耳る大商会の会頭たちと渡り合えるレベルだ。
盤面に強い手駒が増えた。喜ぶべきことだが、それだけ状況が「最悪」だという証明でもある。
「対する、こちら側の戦闘員は……」
ノクトの視線が、部屋の隅で沈黙していた巨漢へと向いた。
「ガラン、ただ一人だ」
ガランは答えなかった。
ただ、両手の拳を、節が白く浮き出るほどに握り締めている。
スラムに暮らす者たちは、彼にとって血の繋がらぬ家族だ。それが今、この瞬間にも灰にされようとしている。
三千対一。
戦いと呼ぶことすらおこがましい、一方的な蹂躙。
「……ゼン」
地鳴りのような声が、ガランの喉から漏れた。
太い指が、地図の中央に鎮座する『王城』の駒を、押し潰すように叩く。
「俺が、王子に斬り込む。道は俺が作る」
ランプの光を受け、彼の瞳が獣の野性を帯びて光った。
「三千の末端を相手にする必要はねえ。あの男一人を落とせば、指揮系統は腐る。命令を出す口がなくなれば、軍は止まる。包囲も解けるはずだ」
その体から立ち昇る殺気は、この部屋の空気を肌がヒリつくほどに変質させた。
自分の命と引き換えに、同胞を救う。そんな自己犠牲の計算式が、彼の中で完成してしまっている。
だが。
「却下だ、ガラン」
俺は、意識的に温度を抜いた声で、彼の決意を撥ね退けた。
「お前が動けば、その瞬間にエレーヌの火炎魔法がスラムを焼く」
「……何だと?」
ガランの眉間に、深い皺が刻まれる。
「彼女は今、王命という鎖に繋がれている。『王子の保護』という大義名分の下にな。そこへ反逆者である俺たちの一員が刃を向けたと判断されれば、下る命令は一つだ。――『王子の盾となり、反逆勢力を最大火力で殲滅せよ』」
俺は地図の上、逃げ場のないスラム街を指でなぞった。
「ここがお前の拠点であり、彼女の標的座標だ。お前の刃は、お前の守りたいものを焼き殺すための、最悪の引き金になる」
ガランの巨体が、見えない鎖に縛られたように硬直した。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼は腰の剣から手を離す。
やり場のない怒りが、彼の背中を、肩を、握り直された拳を、惨めに震わせ続けていた。
「……ゼン。エレーヌって人、本当に撃つのかな」
震える声で、リーシャが尋ねてきた。
先ほどの鋭さは消え、そこには一人の女性としての、剥き出しの恐怖があった。
「あの人、ルインの街であんたの言葉を聞いて、杖を下ろしたでしょ? まともな心があるなら、あんな場所を焼き払うなんて……できるわけ、ないよね?」
彼女は自分を安心させるように、何度も小さく頷いている。
その無垢な問いに、俺はすぐに答えられなかった。
経営コンサルタントとしての俺なら「リスク管理上、撃つと仮定すべきだ」と即答しただろう。
だが、今の俺は――。
「……分からない」
それが精一杯の、誠実な答えだった。
「だが、ゼクスが王立軍に所属する数十名の魔導士の中から、わざわざエレーヌを『執行役』に名指しで選んだ。これには、明確な理由がある」
俺は、ノクトに視線を投げた。
「ノクト。調べはついたか」
ノクトは重々しく頷き、懐から折り畳まれた一枚の羊皮紙を取り出して、机の上に広げた。
羊皮紙は端が擦り切れ、一晩中、王都の裏通りで情報を駆けずり回った男の苦労を物語っていた。
「ああ。三年前――王都北西の、セドナ村で起きた『事件』だ」
誰も、すぐには口を開かなかった。
窓の外、軍靴の足音が、また一度、波のように寄せて、引いていった。
猶予は、削れ続けている。




