第49話 王家の威信
王城、王子の私室。
大理石の机を埋め尽くすほどの陳情書の山を前に、ゼクスは当初、鼻で笑っていた。
『田舎のコンサルタントが始めた、底辺の商人ごっこ』、そう高を括っていた。
だが、ここ数日。
机に積み上げられる貴族たちからの悲鳴は、無視するにはあまりに肥大化しすぎていた。
『うちの獣人が、正規の給金を払えと言い出しました』
『奴隷市場での獣人の値崩れが止まりません』
『行商人が、我が家の馬車を無視し、あの獣人のリヤカーに群がっております』
『セブンセブンとかいう見慣れぬ店に、うちの客が根こそぎ奪われています』
一枚一枚は、路地裏の些細なノイズだ。
しかし、ゼクスの白く細い指は、無意識のうちにそれらを分類し始めていた。獣人の反乱。フランチャイズという正体不明のシステムによる圧迫。長年癒着してきた御用商人たちの廃業。
点が線になり、線が面になって、王都を真っ黒に塗りつぶそうとしている。
獣人の正規雇用は、全王都の人件費を底上げし、貴族の懐を直接削り取っている。
フランチャイズは、ギルドの中抜きを許さない。貴族の資金源だった商人たちが、次々と干上がっていく。
つい一月前まで、首に鉄の鎖を巻かれ、泥水をすすりながら貴族の館に薪を運んでいた獣人たち。
それが今や、首輪を外し、自分の手でリヤカーを引き、誇り高く賃金台帳にサインしている。
商人ごっこ、などではない。
これは、王都の美しい階層構造――この国を支える経済秩序そのものへの、明確なテロリズムだ。
「……なるほど。飼い殺されるつもりは毛頭ない、ということか。少し侮っていたな」
ゼクスは、一枚の陳情書を指先で、ピリッ、と引き裂いた。
紙の繊維が上げる乾いた音が、静まり返った部屋に落ちる。
凍りつくような冷たい怒り。彼はそのまま、父である国王グランゼルの玉座へと向かった。
「父上。あの異分子は、王国の根幹を内側から喰っております。今のうちに刈り取らねば、いずれ王家の威光すら呑み込まれます」
強硬手段の許可。
それを求める息子に対し、玉座の王は、ただ静かに目を閉じた。
沈黙は、ひどく長かった。
磨き上げられた大理石の床に、王の豪奢な衣の影が、黒々と伸びている。
ゼクスは、その影の濃さから父の思考を読み取ろうとしたが、できなかった。
ただ一つ、彼にはわかっている。
父がこの長い沈黙を選ぶとき、その脳髄の半分は常に、十六年前のあの冬の夜に引きずり戻されているのだということを。
◇
十六年前の冬の夜。
グランゼル王は、未だにその時の空気の冷たさを覚えている。
王妃の寝室。産婆たちの押し殺したような声と、暖炉で薪が爆ぜる音だけが、分厚い扉越しに聞こえていた。
彼はその扉の前で、九歳になる長子と並んで立っていた。
「父上。妹君ですか。それとも弟君ですか」
ゼクスが、見上げて聞いてきた。
少年の頬は、興奮で赤く染まっていた。彼はこの日のために、小さな木の剣を自分で削って用意していた。生まれてくるきょうだいに、一番にプレゼントするのだと、誇らしげに語っていた。
「どちらだろうな」
王は短く答えた。
彼自身、この一年、妻の腹の無事を祈らなかった日は一日もない。一人目の時よりも、ずっと深く、長く祈った。
あの頃は若かった。だが今は違う。今度こそ、妻が心から望んだ『家族』を、完成させるはずだった。
寝室の中で、妻の小さな悲鳴が一度だけ上がった。
……それから、産声が一つ。
ゼクスが、王の大きな手を強く握りしめた。少年の指先は、氷のように冷たかった。緊張からか、何度も何度も、きつく握り直してくる。
ギィ、と。
扉が開いた。
産婆の、あの顔を見た瞬間。
王は、すべてを理解してしまった。
妻は、王女を産み落とし、そのまま息を引き取ったのだと。
寝室の中は、血と汗の匂いが充満していた。
妻の額には、まだ苦痛の汗が張り付いている。
だが、その腕の中に抱かれた、血まみれの小さな赤子。
妻の口元には、ほんの微かな微笑みが残されていた。最後に、娘の顔だけは見たのだと、それだけが痛いほどに伝わってくる。
王は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
どれくらいそうしていたのか。
隣で、ゼクスが母の名を呼んでいた。
「母上」
「……母上」
二度。
それから、少年は、二度と母を呼ばなかった。
王は、虚ろな目で息子を見降ろした。
九歳の少年の顔から、すべての感情が消え去っていた。涙も、悲しみも、怒りも、何もない。
ただ、寝台の脇に立ち尽くし、冷たくなっていく母と、その腕の中の赤子を、見下ろしている。
少年の小さな手の中で。
一生懸命に削ったあの木の剣が、いつの間にか、ポキリと折れていた。
王は、何も言えなかった。
息子の細い肩に、手を置くことすら、できなかった。
二人の間には、ただ、泣き喚く生まれたばかりの女児だけが、横たわっていた。
◇
玉座の間。
長い沈黙の果てに、国王の唇が、わずかに動いた。
「やれ。……ただし、王家が直接手を下したと知れぬ形でな」
そこには、慈悲も、怒りもなかった。あるのは、王家の威信という重圧に押し潰された、純粋に冷徹な政治的判断だけ。
ゼクスは深く一礼し、その場を後にした。
長い廊下を歩く。
石畳を叩く自分の靴音が、ひどく間延びして聞こえる。
窓の外には、十六年前のあの夜と同じ、肌を刺すような冬の空気が張り詰めていた。彼はそれを視界の端に追いやり、自室の書斎へと戻った。
その夜。
ゼクスは、一通の吐き気がするほど冷酷な通達を書き上げた。
標的は、新星商会の物流の心臓部であり、そして……フローラ王女がお忍びで通い詰めている場所。王都南部の、スラム街全域。
『悪魔の影響を受けた不浄の地』『疫病の温床』『治安維持のための浄化』。
そんな美辞麗句を並べ立て、三日後の正午に、すべてを『焼却処分』すると宣告した。
執行は王国軍。指揮を執るのは、ゼクス自身。
そして。
彼が放った最もおぞましい一手が、『勇者の分断』だった。
焼却の第一手。スラムの人間を焼き払う役目は、エレーヌの火炎魔法に命じられた。
広域爆破魔法は市街地では使えない。的確に「面」を焼き尽くせる彼女の魔法を使う。
レオンとイリアは護衛という名目で、エレーヌは執行役として、三人は王命によりゼクスの直属に組み込まれた。
新星商会への接触は一切禁止。王城内の宿舎に隔離され、互いの会話すら近衛兵の監視下だ。拒否すれば、即座に国家反逆罪。
書面の末尾。
自らの名をサインする時、ゼクスのペン先が、ほんの一瞬だけ宙で止まった。
なぜ止まったのか、彼自身にもわからない。
だが、次の瞬間には、何事もなかったかのように、流れるような文字で署名を終えていた。
(ゼンの手駒を奪い、あの魔導師のトラウマを抉り、彼女自身の手でスラムを焼き払わせる……)
ペンを置いたゼクスの口元が、歪んだ。
妹に木の剣を削っていた、あの赤ん坊のような無邪気な笑みじゃない。
母の死顔を見下ろした時の、あの空っぽの唇でもない。
十六年という歳月をかけて、ゆっくりと、確実に凍りついていった……残忍で、醜悪な笑み。
あの軍師のふざけたロジックも、勇者という武力と、王女という象徴を奪われた瞬間に、ただのゴミ屑になる。
それが、王子が描いた、最も合理的で吐き気のする盤面だった。
窓の外。王都の南には、スラム街がいつものように汚泥のような暗闇に沈んでいる。
そこで泥水をすすって眠る数千のゴミどもは、三日後、王の息子の手によって自分たちが消し炭にされることを、まだ知らない。
「教えてやらねばならないな」
誰にともなく、呟く。
いや、十六年前の、あの冬の夜に立ち尽くしていた自分自身に向けて。
「王家とは、こういうものだと」




