第41話 浄化の光
第41話 浄化の光
視界が、真っ黒に塗りつぶされていた。
耳の奥で、キーンというひどい耳鳴りが暴れている。
焦げた木の臭い。むせ返るような土煙。
誰かの、悲鳴。
小さな泣き声が聞こえた気がした。でも、それはすぐにぶつりと途絶えて――次の声も、すぐに消えた。
冷たい石の床に這いつくばったまま、指先ひとつ動かせない。
頭の芯がひどく痺れている。
ふと、風が頬を撫でた。
パラパラと瓦礫が崩れる音と、火の爆ぜる音だけが、やけに鮮明に鼓膜を打つ。
ひんやりとした静寂。
べっとりと張り付いた血と泥を瞬きで拭い、ゆっくりと焦点を合わせた。
息が、止まった。
奥の部屋。
壁際に、子供たちが重なるように倒れていた。
私の法衣の裾を、いつもぎゅっと握っていたトミ。
前歯の抜けた顔で、あんなに楽しそうに絵本をめくっていたミラ。
まだ、名前すらつけてもらっていない赤ん坊。
誰も、動いていない。
その小さな体の上に、シスターが覆い被さっていた。
赤ん坊を庇うように腕を回したまま、糸の切れた人形のように、床に投げ出されている。
あ、あぁ……。
声にならない吐息が漏れた。喉の奥に鉛が詰まったように、言葉の形にならない。
ズン、ズン。
廊下の奥から、重い足音が這い寄ってくる。
どす黒い霧を纏った巨大な影が、崩れた壁の向こうに立っていた。
濁った白目の底にある、底なしの黒。それが、私をねっとりと舐め回す。
口の端が、三日月のように吊り上がった。バーサーカーだ。
奴が一歩、足を振り上げた。
その瞬間。
私の目の前を、巨大な鋼の壁が塞いだ。
ガラン様だった。
大盾には無数の亀裂が走り、額からは赤黒い血が滴り落ちている。それでも彼は、丸太のような両腕で、その巨体をねじ込んだ。
「下がれッ! 悪魔ッ!」
横から、弾かれたようにレオン様が飛び出してくる。
白銀だったはずの聖剣は、すでに赤錆のような血に濡れていた。顔には全く血のの気がない。
でも、その目だけは、狂ったように燃え盛っていた。
「ガラン、どけ! 一撃入れる!」
「承知」
鈍い金属音と共に、盾が横へ滑る。
閃光。
レオン様の剣が、バーサーカーの太い首を正確に薙ぎ払った。
――だけど。
吹き飛ぶはずの首の断面から、どろりとした黒い霧が溢れ出し、傷口を縫い合わせるように繋ぎ止めてしまう。
「くそッ――!」
後ろから駆けつけてきたエレーヌ様が、ふらりと立ち止まった。
彼女の視線が、奥の部屋に向けられたのが分かった。
カランッ。
乾いた音が、やけに大きく響く。彼女の手から、杖が滑り落ちていた。
「……嫌よ。もう、嫌……」
両手で顔を覆い、彼女はその場にへたり込んでしまった。
霧が晴れ、バーサーカーが再びゆっくりと首を持ち上げる。
レオン様の剣を握る手が、カタカタと鳴っていた。
ガラン様の盾も限界だ。次にあの丸太のような腕が振り下ろされれば、確実に砕け散る。
終わる。
この戦いは、もう。
私たちはここで、全員、あの黒い霧に飲み込まれるんだ。
そう、覚悟した。
その時だった。
シスターが、動いた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
赤ん坊を抱きしめていた腕を離し、冷たい床へそっと寝かせる。
純白だった法衣は、ひどい赤黒さに染まりきっていた。唇には微塵も血の気がない。
なのに。
振り返った彼女の瞳は、恐ろしいほどに透き通っていた。
朝の木漏れ日の下で、子供たちに微笑みかける時と、全く同じ目。
「イリア、少し下がっていてね」
彼女の冷たい手が、私の頭にポン、と触れた。
いつもと同じ。私が何度も何度も求めた、優しい手つき。
シスターは立ち上がり、ガラン様とレオン様の間をすり抜け、悪魔の正面へと歩み出た。
「シスター!?」
レオン様の悲鳴のような声。
けれど、彼女が振り返ることはなかった。
胸の前で、そっと両手が組まれる。
「聖なる光よ、その温もりをもって、迷える魂を救いたまえ」
祈り。
「浄化の光!」
組まれた指の隙間から、一筋の金色の光がこぼれ落ちた。
それは、毎朝食堂の窓から差し込んでいた、あの柔らかい陽だまりの色。
光は波紋のように広がり、血に染まった法衣を黄金色に染め上げていく。
あたたかい。
その光は、刃のような鋭さなんて欠片も持っていなかった。
怒りでも、悲しみでもない。
世界を、冷たくなった子供たちを、そして目の前の醜い悪魔すらも。
ただただ、優しく抱きしめるような光。
「ギィィィィィィッ――!!!」
空気を劈くような絶叫。
黒い霧が、光に焼かれるのではなく、溶けていく。
べりべりと剥がれ落ちた霧の中から、ひどく痩せ細った、一人の人間の男が転がり出た。
不気味な霧は完全に消え去り、あとには鼓膜が痛くなるほどの静寂だけが残った。
助かった?
そう思った直後。
私は、見てしまった。
シスターの背中が、陽炎のように揺らいでいるのを。
彼女の輪郭が、金色の光に溶け出している。
まるで、光そのものが、彼女を空へ連れ去ろうとしているみたいに。
「シスター――!」
気づけば、弾かれたように駆け出していた。
熱くない。ただ、ひだまりのように温かい光の渦。
その中心に立つシスターの背中へ、必死に手を伸ばす。
指先が、白い法衣の袖に触れた。
――はずだった。
すり抜けた。
私の手は空を切り、手のひらには、じんわりとした光の温度だけが残った。
ゆっくりと、シスターがこちらを振り向く。
ふわりと、花が咲くように微笑んだ。
透けかけた手が持ち上がり、私の頭の上に、そっと置かれる。
重さは、もうない。
ただ、とびきり温かい温度だけが、そこにあった。
「……イリア、あなただけは、生きて」
たった、それだけ。
シスターの輪郭が、ふっと弾けた。
血に濡れた法衣も、結い上げた髪も、私を撫でてくれた手も。
すべてが、無数の金色の粒に変わった。
夕暮れの空に向かって、蛍の群れのように、ゆっくりと舞い上がっていく。
最後の一粒が、私の頬を伝う涙の先で、チカッと光って――消えた。
シスターは、いない。
抱きしめようとした私の両腕の中には、空っぽの空気だけが残されていた。
涙が、止まらなかった。
声を上げて、ただ子供のように泣きじゃくった。
誰も何も言わない。私たち四人が、別々の場所で、同じ一つの途方もない喪失に打ちのめされていた。
どれくらい泣いただろう。
私は立ち上がり、床に転がっていた赤ん坊を抱き上げ、他の子供たちの隣へそっと寝かせた。
シスターの体を、せめて子供たちの隣に並べてあげたかった。最期まで彼らを抱きしめていた人なのだから。
でも、遺体はどこにもない。
私は、彼女がさっきまで立っていた冷たい石畳に、そっと手のひらを押し当てた。
廃墟になった孤児院の外へ出る。
中庭には、レオン様たち三人が立ち尽くしていた。誰の顔も見れなかった。
私は、崩れた門の瓦礫の上に、力なく腰を下ろした。
明日から、どこで息をすればいい?
シスターがいて、子供たちがいて、ここが私の世界のすべてだったのに。
全部、消えちゃった。
視界の端で、レオン様がウロウロと歩き回っているのが見えた。
拳を強く握っては、開く。その繰り返し。
今なら、わかる。
あの時の彼は、すべてを失った十四歳の子供に、どんな言葉をかければいいのか、必死に探してくれていたんだ。
不意に、目の前が影で覆われた。
顔を上げると、レオン様が片膝をつき、私と同じ目線になっていた。
「一緒に来ないか」
擦れた声だった。
「俺たちは今日、君と子供たちとシスターを守れなかった。それを償う方法を……俺はまだ、知らない。だけど、今夜から君を一人にはできない」
彼の声は、微かに震えていた。
「君の祈りの力は本物だ。今度は、俺が君を守る。それだけは……約束する」
差し出された彼の手は、血と泥でひどく汚れていた。
だけど、私なんかよりもずっと、その大きな手は震えている。
私は、ゆっくりとその手を握り返した。
「……はい」
あの日。
私は、勇者一行の仲間になった。
◇
パチンッ、と。
焚き火の薪が、乾いた音を立てて爆ぜた。
夜の闇の中へ、イリアのぽつりぽつりとした声が溶けて消えていく。
彼女の白い頬には、幾筋もの涙の跡が光っていた。
けれど、こちらを見つめる瞳は、不思議なほどに澄み切っている。
三年間、誰の耳にも入れなかった重い塊を、彼女は今夜、ようやく吐き出し終えたのだ。
レオンは、組み合わせた両手の上に額を乗せたまま、石像のように動かない。
その固く握られた拳の上に、ポツリ、ポツリと、透明な雫が落ちては染み込んでいく。
エレーヌは自分自身を抱きしめるように身を屈め、目をきつく閉じている。
ガランは微動だにしないまま、ただ肩を落としていた。
ノクトは……膝を抱えたまま、完全に顔を伏せている。
俺は、ただ揺らめく炎を見つめていた。
「……分かった」
絞り出したのは、それだけ。
それで、よかった。
イリアが、小さくコクリと頷いた。
彼女の瞳から、もう一度だけ雫がこぼれ落ちる。
でも、今度の涙は、もう痛みを伴うものではないように見えた。
ロジックでは絶対に届かない領域。
それが確かに存在するということを、俺は今夜、思い知らされていた。
シスター・マリエルが最期に放ったという、あの光。
肉体を捨て、自らを光の粒に変えて空へ昇っていく現象。
ただの魔法じゃない。理屈で綺麗に説明できるような、人間の力じゃない。
イリアが語ったその光景を、俺の頭はまだ処理しきれていない。いや、一生理解できないかもしれない。
だけど、それでいい。
分からないものを、分からないまま、ただ胸の奥底に置いておく。
今夜の俺にできるのは、ただ寄り添い、この理不尽な喪失と感情の重さを共に背負うことだけだ。
静かな夜。
オレンジ色の炎だけが、夜更けまで静かに、静かに燃え続けていた。




