第40話 最後の日常
あの日、窓から差し込んでいた光の白さを、私は今も忘れられない。
床に落ちた長い光の帯。
そのなかで、小さな埃がふわり、ふわりと泳いでいた。
私はそれをぼんやりと目で追いながら、使い古した雑巾で、長い木の食卓をただ無心に撫でていた。
台所から、ことことと鍋が鳴る音がする。
シスター・マリエルの、少し調子外れで優しい鼻歌。
彼女はこの孤児院の母であり、街の人々の医者でもあった。
腹を抱えてうずくまる農夫も、熱を出した赤子も。シスターが手をかざして淡い水色の光を落とせば、嘘みたいに痛みが引いていく。
それが『ヒール』。神様から預かった命の魔法。
「イーリャ姉ちゃん……おなかすいた」
法衣の裾をきゅっと引かれた。
見下ろすと、五歳のトミが大きな目で私を見上げている。寝起きの彼は、いつもこうして誰かを握っていないと不安で仕方ないのだ。
「もう少しでお粥ができるよ。今日は林檎入りだって」
「……林檎、好き」
「うん、知ってる」
柔らかい栗色の髪を撫でると、指の隙間でくせ毛が跳ねた。
ぱたぱた、と階段から軽い足音が降ってくる。
十歳のミラだ。
「イリア! 今日も続き読んでくれる? 王女様のところ!」
「うん。今夜、寝る前にね」
「やった」
ふふっ、と笑う彼女の口元。
まだ生えそろわない左の前歯の小さな穴が、私はたまらなく好きだった。
「イリア、皆を呼んできてちょうだい」
台所からのシスターの声。
私は雑巾を畳み、そちらへ向かった。
覗き込んだ台所の片隅で、古びた揺り籠が小さく揺れている。
先日、この孤児院に来たばかりの赤子。まだ名前も決まっていない、生まれて間もない小さな命だ。
シスターの調子外れな鼻歌は、どうやらこの子を寝かしつけるためのものだったらしい。
そっと薄手のブランケットを掛け直す。
指先に、ふにゃりとした小さな手のひらが触れた。眠ったまま、それでも何かを確かめるように、きゅっ、と握り返してくる。
ふふ、と笑みがこぼれた。
名前、なににしようかな。
シスターと、毎晩そんな相談をしている途中だった。
お粥の後は、ヒールの修練。もう、一年になる。最近、小さな怪我や病気なら治すことができるようになってきた。
どこにでもある、なんの変哲もない朝。
それが。
私たちの、最後の朝だった。
昼食の片付けが終わる頃。
私は洗濯物を抱え、中庭へ出ようとしていた。
突然の轟音。
鼓膜が、破れそうだった。
爆発、という言葉で合っているのだろうか。
重い樫の木の正門が、内側から紙屑みたいに弾け飛んだ。
千切れる蝶番の悲鳴。宙を舞う無数の木片。
もうもうと土煙が舞う中から、そいつは這い出てきた。
廊下の天井を擦るほどの巨体。
纏わりつく、どろりとした黒い霧。
人間の輪郭を辛うじて残した顔からは、ぐちゃぐちゃに生えた鋭い歯が覗き、見開かれた目は、白目の部分が底なしの沼のようにどす黒く染まっていた。
足の裏が、床の木目に縫い付けられたように動かない。
走れ。逃げろ。
頭の中で誰かが叫んでいるのに、膝がガクガクと震えるだけで、一歩も前へ出ない。
グイッ、と手を引かれた。
「イリア、奥の部屋へ! 早く!」
血相を変えたシスターの声に、私は弾かれたように走り出した。
一番奥にある子供部屋。
逃げ込んだ私たちは、重い扉に身体ごと背中を押し当てた。
扉の向こうから、ズン……ズン……と、床を軋ませる足音が近づいてくる。
部屋の隅で、ミラが小さな子たちを必死に抱きかかえていた。
私の法衣の裾を、トミがちぎれそうなほど強く握りしめている。
「大丈夫よ、イリア。大丈夫」
震える手で、シスターが私の頭を撫でた。
信じるしかなかった。
ドンッ!!
扉が内側にひしゃげ、背中越しに強烈な衝撃が走る。
もう一度来たら、破られる。
そう覚悟した、次の瞬間。
「誰か! 無事な者はいるか!」
張り裂けんばかりの、若い男の声。
扉の向こうで、あの不気味な地響きがピタリと止まった。
「……ああ、神様」
私の背中で、シスターの強張りがふっと解けた。
「もう大丈夫よ、イリア」
子供たちの顔に、ぎこちない笑顔が浮かぶ。
トミの手のひらに少しだけ温もりが戻るのを、私は確かに感じていた。
「俺の名はレオン! 王国から派遣された勇者だ!」
扉の隙間から、強烈な白い光が差し込んだ。
聖剣の光。
シスターの淡い水色とはまるで違う。命を繋ぐのではなく、命を『絶つ』ための、鋭く冷たい輝き。
金属が肉を裂く音。
地の底から響くような、バケモノの断末魔。
「エレーヌ、外に誘き出せるか! ガラン、奥の部屋を頼む!」
「承知。ここから退かぬ」
低い獣の唸り声と共に、扉のすぐ外にどしんと巨大な壁が立った気配がした。
隙間から覗く廊下。
白い光が閃くたび、黒い巨影の腕が飛び、足が断たれ、ついにはその醜い首が床に転がった。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
勝った。助かったんだ。
そう思って、小さく息を吐き出した……その時だった。
床に転がった首から、しゅうしゅうと黒い靄が噴き出した。
切断された右腕が。左足が。
まるで意志を持っているかのように、震えながら、ずるり、ずるりと本体へ這い寄っていく。
千切れた肉が繋がり、骨が鳴る。
転がった首が、不気味な音を立てて元の肩へとおさまった。
「なーにぃー!?」
レオン様の声が、裏返っていた。
私の隣で、シスターがハッと息を呑む。
「……ヒールを、呪いに歪めたような……」
その声に滲んでいた絶望の深さを、私は今でも忘れられない。
神の奇跡であるはずの癒やし。それが、こんな冒涜的な形で使われているなんて。
そこからは、終わりのない悪夢だった。
何度斬っても、斬っても。
黒い靄が傷を舐め上げ、新しい肉を編み出していく。
聖剣が空を切る虚しい風切り音だけが、薄暗い廊下に響き続ける。
「外に! 外に出して! 子供たちが!」
エレーヌ様が悲鳴のように叫ぶけれど、巨影は扉の前から動こうとしない。
巨大な鉤爪が、私たちを守るガラン様の盾を何度も何度も打ち据える。
ギィン、ギィンと鉄が悲鳴を上げるたび、私の内臓が冷たく縮み上がった。
部屋の中で、シスターは名もなき赤子を抱きかかえ、子供たちをその背に庇い続けていた。
右手からは、ずっと水色の光が零れている。
傷ついた子はまだ誰もいない。それでも、いざという時の一秒のために、彼女は己の魔力を絞り出していた。
神様。
誰か。
お願いだから――。
ふと。
鉤爪の音が、止んだ。
嫌な静寂。
扉の隙間から見えた黒い巨体は、盾を打つ手を止め……ゆっくりと、その顔をこちらへ向けた。
「貴様――!」
獣人の戦士が怒号を上げる。
だが巨影は盾を横に避け、廊下を数歩ずれた。
その先にあるのは、強固な扉ではない。私たちを隠すただの『壁』。
あっ!
黒い腕が振り上げられる。
「きゃああああっ!」
子供たちが弾かれたように悲鳴を上げた。
シスターが、その小さな身体の上に覆い被さる。
私は、声すら出せなかった。
振り下ろされた鉤爪が、壁を紙のように引き裂く。
私たちの視界は、真っ黒な靄に飲み込まれた。




