表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第2章 王都グランゼル

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/53

第40話 最後の日常

 あの日、窓から差し込んでいた光の白さを、私は今も忘れられない。

 床に落ちた長い光の帯。

 そのなかで、小さな埃がふわり、ふわりと泳いでいた。

 私はそれをぼんやりと目で追いながら、使い古した雑巾で、長い木の食卓をただ無心に撫でていた。

 台所から、ことことと鍋が鳴る音がする。

 シスター・マリエルの、少し調子外れで優しい鼻歌。

 彼女はこの孤児院の母であり、街の人々の医者でもあった。

 腹を抱えてうずくまる農夫も、熱を出した赤子も。シスターが手をかざして淡い水色の光を落とせば、嘘みたいに痛みが引いていく。

 それが『ヒール』。神様から預かった命の魔法。


「イーリャ姉ちゃん……おなかすいた」

 法衣の裾をきゅっと引かれた。

 見下ろすと、五歳のトミが大きな目で私を見上げている。寝起きの彼は、いつもこうして誰かを握っていないと不安で仕方ないのだ。


「もう少しでお粥ができるよ。今日は林檎入りだって」

「……林檎、好き」

「うん、知ってる」


 柔らかい栗色の髪を撫でると、指の隙間でくせ毛が跳ねた。

 ぱたぱた、と階段から軽い足音が降ってくる。

 十歳のミラだ。


「イリア! 今日も続き読んでくれる? 王女様のところ!」

「うん。今夜、寝る前にね」

「やった」


 ふふっ、と笑う彼女の口元。

 まだ生えそろわない左の前歯の小さな穴が、私はたまらなく好きだった。


「イリア、皆を呼んできてちょうだい」

 台所からのシスターの声。


 私は雑巾を畳み、そちらへ向かった。

 覗き込んだ台所の片隅で、古びた揺り籠が小さく揺れている。

 先日、この孤児院に来たばかりの赤子。まだ名前も決まっていない、生まれて間もない小さな命だ。

 シスターの調子外れな鼻歌は、どうやらこの子を寝かしつけるためのものだったらしい。

 そっと薄手のブランケットを掛け直す。

 指先に、ふにゃりとした小さな手のひらが触れた。眠ったまま、それでも何かを確かめるように、きゅっ、と握り返してくる。

 ふふ、と笑みがこぼれた。

 名前、なににしようかな。

 シスターと、毎晩そんな相談をしている途中だった。

 お粥の後は、ヒールの修練。もう、一年になる。最近、小さな怪我や病気なら治すことができるようになってきた。


 どこにでもある、なんの変哲もない朝。

 それが。

 私たちの、最後の朝だった。


 昼食の片付けが終わる頃。

 私は洗濯物を抱え、中庭へ出ようとしていた。


 突然の轟音。

 鼓膜が、破れそうだった。

 爆発、という言葉で合っているのだろうか。

 重い樫の木の正門が、内側から紙屑みたいに弾け飛んだ。

 千切れる蝶番の悲鳴。宙を舞う無数の木片。


 もうもうと土煙が舞う中から、そいつは這い出てきた。

 廊下の天井を擦るほどの巨体。

 纏わりつく、どろりとした黒い霧。

 人間の輪郭を辛うじて残した顔からは、ぐちゃぐちゃに生えた鋭い歯が覗き、見開かれた目は、白目の部分が底なしの沼のようにどす黒く染まっていた。


 足の裏が、床の木目に縫い付けられたように動かない。

 走れ。逃げろ。

 頭の中で誰かが叫んでいるのに、膝がガクガクと震えるだけで、一歩も前へ出ない。

 グイッ、と手を引かれた。


「イリア、奥の部屋へ! 早く!」


 血相を変えたシスターの声に、私は弾かれたように走り出した。

 一番奥にある子供部屋。

 逃げ込んだ私たちは、重い扉に身体ごと背中を押し当てた。

 扉の向こうから、ズン……ズン……と、床を軋ませる足音が近づいてくる。

 部屋の隅で、ミラが小さな子たちを必死に抱きかかえていた。

 私の法衣の裾を、トミがちぎれそうなほど強く握りしめている。


「大丈夫よ、イリア。大丈夫」


 震える手で、シスターが私の頭を撫でた。

 信じるしかなかった。


 ドンッ!!


 扉が内側にひしゃげ、背中越しに強烈な衝撃が走る。

 もう一度来たら、破られる。

 そう覚悟した、次の瞬間。


「誰か! 無事な者はいるか!」


 張り裂けんばかりの、若い男の声。

 扉の向こうで、あの不気味な地響きがピタリと止まった。


「……ああ、神様」


 私の背中で、シスターの強張りがふっと解けた。


「もう大丈夫よ、イリア」


 子供たちの顔に、ぎこちない笑顔が浮かぶ。

 トミの手のひらに少しだけ温もりが戻るのを、私は確かに感じていた。


「俺の名はレオン! 王国から派遣された勇者だ!」


 扉の隙間から、強烈な白い光が差し込んだ。

 聖剣の光。

 シスターの淡い水色とはまるで違う。命を繋ぐのではなく、命を『絶つ』ための、鋭く冷たい輝き。

 金属が肉を裂く音。

 地の底から響くような、バケモノの断末魔。


「エレーヌ、外に誘き出せるか! ガラン、奥の部屋を頼む!」

「承知。ここから退かぬ」


 低い獣の唸り声と共に、扉のすぐ外にどしんと巨大な壁が立った気配がした。


 隙間から覗く廊下。

 白い光が閃くたび、黒い巨影の腕が飛び、足が断たれ、ついにはその醜い首が床に転がった。

 心臓が、早鐘のように鳴っている。

 勝った。助かったんだ。

 そう思って、小さく息を吐き出した……その時だった。


 床に転がった首から、しゅうしゅうと黒い靄が噴き出した。

 切断された右腕が。左足が。

 まるで意志を持っているかのように、震えながら、ずるり、ずるりと本体へ這い寄っていく。

 千切れた肉が繋がり、骨が鳴る。

 転がった首が、不気味な音を立てて元の肩へとおさまった。


「なーにぃー!?」


 レオン様の声が、裏返っていた。

 私の隣で、シスターがハッと息を呑む。


「……ヒールを、呪いに歪めたような……」


 その声に滲んでいた絶望の深さを、私は今でも忘れられない。

 神の奇跡であるはずの癒やし。それが、こんな冒涜的な形で使われているなんて。


 そこからは、終わりのない悪夢だった。


 何度斬っても、斬っても。

 黒い靄が傷を舐め上げ、新しい肉を編み出していく。

 聖剣が空を切る虚しい風切り音だけが、薄暗い廊下に響き続ける。


「外に! 外に出して! 子供たちが!」


 エレーヌ様が悲鳴のように叫ぶけれど、巨影は扉の前から動こうとしない。

 巨大な鉤爪が、私たちを守るガラン様の盾を何度も何度も打ち据える。

 ギィン、ギィンと鉄が悲鳴を上げるたび、私の内臓が冷たく縮み上がった。


 部屋の中で、シスターは名もなき赤子を抱きかかえ、子供たちをその背に庇い続けていた。

 右手からは、ずっと水色の光が零れている。

 傷ついた子はまだ誰もいない。それでも、いざという時の一秒のために、彼女は己の魔力を絞り出していた。


 神様。

 誰か。

 お願いだから――。


 ふと。

 鉤爪の音が、止んだ。

 嫌な静寂。

 扉の隙間から見えた黒い巨体は、盾を打つ手を止め……ゆっくりと、その顔をこちらへ向けた。


「貴様――!」


 獣人の戦士が怒号を上げる。

 だが巨影は盾を横に避け、廊下を数歩ずれた。

 その先にあるのは、強固な扉ではない。私たちを隠すただの『壁』。


 あっ!


 黒い腕が振り上げられる。


「きゃああああっ!」

 子供たちが弾かれたように悲鳴を上げた。

 シスターが、その小さな身体の上に覆い被さる。


 私は、声すら出せなかった。


 振り下ろされた鉤爪が、壁を紙のように引き裂く。

 私たちの視界は、真っ黒な靄に飲み込まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ